今回は、鉄道唱歌 山陽・九州編のうち、毛利元就・厳島の戦いについて、観光・歴史についてわかりやすく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
城をかまへて君の敵
陶晴賢を誅せしは
のこす武臣の鑑なり
さらに読みやすく!
城をかまえて 君の敵
陶晴賢を 誅せしは
のこす武臣の 鑑なり
さあ、歌ってみよう!
♪しーろをかまえて きみのあだー
♪すえはるかーたを ちゅうせしは
♪のーこすぶしんの かがみなりー
神戸駅→兵庫駅→鷹取駅→須磨駅→舞子駅→明石駅→加古川駅→姫路駅→相生駅(旧・那波駅)→岡山駅→倉敷駅→福山駅→尾道駅→糸崎駅→三原駅→海田市駅→広島駅→西広島駅(旧・己斐駅)→五日市駅→宮島口駅→岩国駅→柳井駅→徳山駅→防府駅(旧・三田尻駅)
※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ表記
※鉄道唱歌のできた当時(1900年)は、防府駅(旧・三田尻駅)から先は開通していなかったため、徳山港から船で門司(九州)へ
広島の英雄・毛利元就
毛利元就(もうりもとなり)は、かつて戦国時代に中国地方で栄華を極めた武将です。
毛利元就は、広島を代表する歴史的英雄です。
各地の英雄
以下が、各地域と歴史的英雄の組み合わせになります。
仙台→伊達政宗(だて まさむね)
山梨→武田信玄(たけだ しんげん)
新潟→上杉謙信(うえすぎ けんしん)
岐阜→織田信長(おだ のぶなが)
静岡→徳川家康(とくがわ いえやす)
高知→坂本龍馬(さかもと りょうま)
山口→吉田松陰(よしだ しょういん)
熊本→加藤清正(かとう きよまさ)
この辺りは、基本として覚えておきましょう。
毛利元就 VS 伊達政宗? どっちが強い?
特に、広島と仙台は街の規模や人口が似ているため、毛利元就と伊達政宗はよく比較されます。
毛利元就と伊達政宗が戦ったらどちらが勝つか?みたいな議論も、ネットではよくなされます。
毛利元就が唱えた「三本の矢」
毛利元就は、「三本の矢」を唱えたことでも有名です。
矢も三本あれば、折れにくくなる
その意味は、矢は1本だと折れやすいが、3本重ねれば折れにくくなるというものです。
つまり、一人では何もできなくても、兄弟力あわせれば何でもできるという教訓を我が子に教えたものです。
「サンフレッチェ広島」の由来にも
なお、「三本の矢」は広島に本拠地を置くJリーグの「サンフレッチェ広島」の名前の由来にもなっています。
- 「サン」とは、日本語の数字の「3」
- 「フレッチェ」とは、イタリア語で「矢」
という意味になります。
またサンフレッチェ広島の「サン」という意味には 、「心技体」の三つの意味があるともされています。
厳島の戦い
ここからは、1555年の「厳島の戦い」について扱ってゆきます!
毛利元就のかつての主君・大内義隆の敵、陶晴賢
毛利元就は、生まれたときに自分の主君である大内義隆を、陶晴賢に殺されてしまいます。
ただし、その殺された大内義隆も、庭園づくりや栽培などに趣味に没頭して出費がかさみ、そのシワ寄せを自国民の増税によって賄っていたそうでした。
そのため、多くの人々の不満を集めてしまっていました。
その不満が爆発したため、殺されることになってしまいました。
また、大内義隆を倒して自信が支配者となった陶晴賢も、当時瀬戸内海を牛耳っていた海賊である村上水軍から、通行料を取る権利までを奪ってしまい、村上水軍を怒らせてしまいます。
当時の海賊のビジネスモデルは、武装して海を荒らしており、もし船で海を通りたい人がいたら通行料を徴収する、ということで収入を得ていたのです。
払えなかったら略奪されるわけですね。
しかし、陶晴賢はこの海賊の収入原である通行料徴収の権利まで奪い、村上水軍を敵に回したことで、のちの「厳島の戦い」のときに大変なことになるのです。
そして、毛利元就としては、このやりたい放題の、また主君である大内義隆の敵であり仇である陶晴賢を、何としても討たなければなりません。
しかし、陶晴賢の軍は強大で、とても毛利元就が勝てる相手ではありませんでした。
陶晴賢の軍は、北九州からもかき集めてきたたようで、毛利元就の軍の5倍もの勢力があったとされています。
まともに戦っては、勝てるはずがありません。
毛利元就の巧妙な作戦 陶晴賢の「誘き出し」に成功
そこで毛利元就は、この絶対に勝てっこない陶晴賢を、わざと宮島におびき寄せることを考えます。
宮島におびき寄せれば、島に閉じ込めて勝つ可能性が考えられたからです。
いくら巨大な軍隊でも、宮島という島に閉じ込められてしまえば、その人数の多さが裏目に出て、かえって不利になると考えたのです。
ウソの情報を、陶(すえ)軍に向かって流す
そこで毛利元就はなんと、
などという嘘の情報を、陶晴賢の軍に向けて流すのです。
正確には、宮島の東側にある宮尾城(みやおじょう)という城を毛利軍が占領したため、もし、陶晴賢にここを攻められたら終わるということです。
歌詞に
とありますが、この「城」というのは宮島にある宮尾城(みやおじょう)というお城のことです。
なお、「君」というのは主君という意味であり、つまり大内義隆のことですね。
ウソ情報にまんまと引っかかった、陶晴賢
この嘘の情報にまんまと引っかかった陶晴賢は、宮島におびき寄せられ、その後悲惨な末路をたどることになります。
ただ、このときの陶晴賢は側近の人物から、
もし島に赴けば、閉じ込められて必ず敗北します。
いまいちどお考え直しください」
そう言われたそうです。
しかし、陶晴賢は戦果を挙げることを第一に考える性格だったためか、聞き入れずに宮島に突撃したそうです。
毛利元就の「厳島の戦い」での勝利
毛利元就の罠にかかり、宮島に閉じ込められてしまった陶晴賢の軍は、逃げ場を無くして次々に討ち取られてゆきます。
島から脱出しようと、味方同士で舟を奪い合い、喧嘩になって揉めているところをさらに討ち取られたりしまいました。
そして、もはや最期を覚悟した陶晴賢も自害するのととなり、毛利元就の勝利となりました。

宮島の海岸(向こう側は本州)。毛利元就の策略によって、陶晴賢の軍はおびき寄せられ壊滅した(広島県廿日市市)
毛利元就「最高でーす!」(冗談)
毛利元就は、宮島の弥山(標高535m)の頂上から「最高でーす!」とでも叫んだのでしょうか。(笑)
なお、「最高でーす!」という台詞は、広島東洋カープの鈴木誠也選手がヒーローインタビューのときに、とりわけ2016年~2018年の全盛期によく放った台詞です。
鈴木誠也さんは、劣勢から何度も奇跡的な逆転ホームランを放ち、チームを勝利に導き続けたため、この時期に「神ってる」という流行語まで生まれました。
ただ、毛利元就は陶晴賢を相当敵対視していましたから、いいます。さすがに「最高でーす!」という感情とは程遠かったかもしれません。
- 毛利元就
- 山本浩二
- 衣笠祥雄
- 黒田博樹
- そして鈴木誠也
は、もはや広島の郷土の英雄といっていいでしょう。
毛利元就による、確固たる支配へ
この「厳島の戦い」で陶晴賢を破った毛利元就は、これをきっかけに中国地方のほとんどを支配するという、とてつもない大名にまで成長してゆきます。
その支配領域は約120万石とも言われます。
100万石を越える大名なんて全国的にも数えるほどしかいませんでしたから、いかに当時の毛利元就が凄かったかがわかります。
「関ヶ原の戦い」での敗北、毛利氏の衰退 萩への移封
しかし毛利元就が1571年に亡くなったあと、その後継は毛利輝元へと引き継がれます。
しかし、毛利輝元は1600年に起きた関ヶ原の戦いで、西軍についたために、徳川家康の敵という扱いになりました。
そして西軍は負けたため、罰として毛利氏は山口の萩に移封(つまり、飛ばされること)されてしまいます。
それまで中国地方のほとんどを支配していた毛利氏は、これをきっかけに山口県のそれまでよりも少ない領域を支配するのみの大名へ格下げされたのです。
長州藩のはじまり 幕末~明治に大きな影響を与える
その後の毛利氏は、江戸時代の約260年間を通じて萩(はぎ)という、山陰地方の奥地の不便な場所での生活を余儀なくされます。
ただし、萩は三方向を海に囲まれた、防衛に適しているという地理的条件だったため、毛利氏がそのメリットを考慮してあえて萩を選んだという見方もあります。
「徳川憎し」ということで、江戸時代の毛利氏にとっては自身を萩に追いやった徳川を憎み続け、それが幕末の長州藩の台頭に直結していくのです。
また、山口県萩市は、吉田松陰先生による松下村塾で、伊藤博文などを中心とする多くの優秀な政治家を輩出してきました。
毛利家の影響力と、山口県萩市をはじめとする長州藩の底力は、明治維新まで続いたのだと考えると、すごいですね。
次は、宮島を出て、岩国方面へ進んでいきます!
コメント