鉄道唱歌 山陽・九州編 第22番 「厳島の戦い」 毛利元就が、陶晴賢を破った戦いとは

まずは原文から!

毛利元就(もうりもとなり)この島に
城をかまへて君(きみ)の敵(あだ)
陶晴賢(すえはるかた)を誅(ちゅう)せしは
のこす武臣(ぶしん)の鑑(かがみ)なり

さらに読みやすく!

毛利元就(もうりもとなり)この島に
城をかまえて君(きみ)の敵(あだ)
陶晴賢(すえはるかた)を誅(ちゅう)せしは
のこす武臣(ぶしん)の鑑(かがみ)なり

さあ、歌ってみよう!

♪もーうりもとなり このしまにー
♪しーろをかまえて きみのあだー
♪すえはるかーたを ちゅうせしは
♪のーこすぶしんの かがみなりー

(山陽本線)
神戸駅→兵庫駅→鷹取駅→須磨駅→舞子駅→明石駅→加古川駅→姫路駅→相生駅(旧・那波駅)→岡山駅→倉敷駅→福山駅→尾道駅→糸崎駅→三原駅→海田市駅→広島駅→西広島駅(旧・己斐駅)→五日市駅→宮島口駅→岩国駅→柳井駅→徳山駅→防府駅(旧・三田尻駅)

※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ表記
※鉄道唱歌のできた当時(1900年)は、防府駅(旧・三田尻駅)から先は開通していなかったため、徳山港から船で門司(九州)へ

毛利元就(もうりもとなり)は、かつて戦国時代に中国地方で栄華を極めた武将です。

毛利元就は、広島を代表する歴史的英雄です。

以下が、各地域歴史的英雄の組み合わせになります。

広島→毛利元就(もうり もとなり)
仙台→伊達政宗(だて まさむね)
山梨→武田信玄(たけだ しんげん)
新潟→上杉謙信(うえすぎ けんしん)
岐阜→織田信長(おだ のぶなが)
静岡→徳川家康(とくがわ いえやす)
高知→坂本龍馬(さかもと りょうま)
山口→吉田松陰(よしだ しょういん)
熊本→加藤清正(かとう きよまさ)

この辺りは、基本として覚えておきましょう。

特に、広島と仙台は街の規模や人口が似ているため、毛利元就と伊達政宗はよく比較されます。
毛利元就と伊達政宗が戦ったらどちらが勝つか?みたいな議論も、ネットではよくなされます。

毛利元就は、「三本の矢」を唱えたことでも有名です。
その意味は、矢は1本だと折れやすいが、3本重ねれば折れにくくなるというものです。
つまり、一人では何もできなくても、兄弟力あわせれば何でもできるという教訓を我が子に教えたものです。
なお、「三本の矢」は広島に本拠地を置くJリーグの「サンフレッチェ広島」の名前の由来にもなっています。
サン」というのは日本語の数字の「3」であり、「フレッチェ」とはイタリア語で「矢」という意味になります。
またサンフレッチェ広島の「サン」という意味には 「心技体」の三つの意味があるともされています。

毛利元就は、生まれたときに自分の主君である大内義隆(おおうち よしたか)を、陶晴賢(すえ はるかた)に殺されてしまいます。

ただし、その殺された大内義隆も、庭園づくりや栽培などに趣味に没頭して出費がかさみ、そのシワ寄せを自国民の増税によって賄ったそうで、多くの人々の不満を集めてしまっていました。その不満が爆発したため殺されることになりました。

また、大内義隆を倒して自信が支配者となった陶晴賢も、当時瀬戸内海(せとないかい)を牛耳(ぎゅうじ)っていた海賊である村上水軍(むらかみすいぐん)から、通行料を取る権利まで奪ってしまい、村上水軍を怒らせてしまいます。

当時の海賊のビジネスモデルは、武装して海を荒らしており、もし船で海を通りたい人がいたら通行料を徴収する、ということで収入を得ていたのです。払えなかったら略奪されるわけですね。

しかし、陶晴賢はこの海賊の収入原である通行料徴収の権利まで奪い、村上水軍を敵に回したことで、のちの「厳島の戦い」のときに大変なことになるのです。

そして、毛利元就としては、このやりたい放題の、また主君である大内義隆の敵(かたき)であり仇(あだ)である陶晴賢を、何としても討たなければなりません。
しかし、陶晴賢の軍は強大で、とても毛利元就が勝てる相手ではありませんでした。
陶晴賢の軍は北九州からもかき集めたようで、毛利元就の軍の5倍もの勢力があったとされています。
まともに戦っては勝てるはずがありません

そこで毛利元就は、この絶対に勝てっこない陶晴賢を、わざと宮島におびき寄せることを考えます。
宮島におびき寄せれば、島に閉じ込めて勝つ可能性が考えられたからです。
いくら巨大な軍隊でも、宮島という島に閉じ込められてしまえば、その人数の多さが裏目に出て、かえって不利になると考えたのです。

そこで毛利元就はなんと、

今度もし宮島に攻め込まれたらおしまいだァ~

などという嘘の情報を陶晴賢の軍に向けて流すのです。
正確には、宮島の東側にある宮尾城(みやおじょう)という城を毛利軍が占領したため、もし、陶晴賢にここを攻められたら終わるということです。
歌詞にある「城を構えて君のあだ」とありますが、この「城」というのは宮島にある宮尾城(みやおじょう)というお城のことです。
なお、「君」というのは主君という意味であり、つまり大内義隆のことですね。

この嘘の情報にまんまと引っかかった陶晴賢は、宮島におびき寄せられ、その後悲惨な末路をたどることになります。

ただ、このときの陶晴賢は側近の人物から、

これは罠です。嘘に決まってます。もし島に赴けば、閉じ込められて必ず敗北します。いまいちどお考え直しください

そう言われたそうですが、戦果を挙げることを第一に考える性格だったためか、聞き入れずに宮島に突撃したそうです。

毛利元就の罠にかかり、宮島に閉じ込められてしまった陶晴賢の軍は、逃げ場を無くして次々に討ち取られます。
島から脱出しようと、味方同士で舟を奪い合い、喧嘩になって揉めているところをさらに討ち取られたりしまいました。

そして、もはや最期を覚悟した陶晴賢も自害するのととなり、毛利元就の勝利となりました。

宮島の海岸(向こう側は本州)。毛利元就の策略によって、陶晴賢の軍はおびき寄せられ壊滅した

毛利元就は、宮島の弥山(みせん。標高535m)の頂上から「最高でーす!」とでも叫んだのでしょうか。(笑)

なお、「最高でーす!」という台詞は、広島東洋カープ鈴木誠也(すずき せいや)選手がヒーローインタビューのときに、とりわけ2016年~2018年の全盛期によく放った台詞です。
鈴木誠也さんは、劣勢から何度も奇跡的な逆転ホームランを放ち、チームを勝利に導き続けたため、この時期に「神ってる」という流行語まで生まれました。

ただ、毛利元就は陶晴賢を相当敵対視していましたから、いいます。さすがに「最高でーす!」という感情とは程遠かったかもしれません。

毛利元就、山本浩二(やまもと こうじ)、衣笠祥雄(きぬがさ さちお)、黒田博樹(くろだ ひろき)、そして鈴木誠也はもはや広島の郷土の英雄といっていいでしょう。

この「厳島の戦い」です陶晴賢を破った毛利元就は、これをきっかけに中国地方のほとんどを支配するとてつもない大名に成長します。
その支配領域は約120万石(ごく)とも言われます。100万石を越える大名なんて全国的にも数えるほどしかいませんでしたから、いかに当時の毛利元就が凄かったかがわかります。

しかし毛利元就が1571年に亡くなったあと、その後継は毛利輝元(もうり てるもと)に引き継がれます。

しかし、毛利輝元は1600年に起きた関ヶ原の戦いで西軍についたために徳川家康の敵という扱いになり、罰として毛利氏は山口の(はぎ)に移封(いふう。つまり、飛ばされること)されてしまいます。

それまで中国地方のほとんどを支配していた毛利氏は、これをきっかけに山口県のそれまでよりも少ない領域を支配するのみに格下げされたのです。

その後は江戸時代の約260年間を通じて、毛利氏は萩(はぎ)という山陰地方の奥地の不便な場所での生活を余儀なくされます(ただ、萩は三方向を海に囲まれた防衛に適している地理的条件だったため、毛利氏がそのメリットを考慮してあえて萩を選んだという見方もあります)。
「徳川憎し」ということで、江戸時代の毛利氏にとっては自身を萩に追いやった徳川を憎み続け、それが幕末の長州藩の台頭に直結していくのです。
また、山口県萩市(はぎし)は、吉田松陰(よしだ しょういん)先生による松下村塾(しょうかそんじゅく)で、伊藤博文などを中心とする多くの優秀な政治家を輩出してきました。
毛利家の影響力と山口県萩市をはじめとする長州藩の底力は、明治維新まで続いたと考えるとすごいですね。

次は、宮島を出て、岩国方面へ進んでいきます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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