鉄道唱歌 山陽・九州編 第26番 徳山港を船出して、九州の門司へ そして現代の徳山~下関の道順も

まずは原文から!

少(すこ)しくあとに立ちかへり
徳山港(とくやまこう)を船出(ふなで)して
二十里(にじゅうり)ゆけば豐前(ぶぜん)んなる
門司(もじ)の港(みなと)につきにけり

さらに読みやすく!

少(すこ)しくあとに立ちかえり
徳山港(とくやまこう)を船出(ふなで)して
二十里(にじゅうり)ゆけば豊前(ぶぜん)んなる
門司(もじ)の港(みなと)につきにけり

さあ、歌ってみよう!

♪すこしくあーとに たちかえりー
♪とくやまこうをー ふなでしてー
♪にじゅうりゆけば ぶぜんなるー
♪もじのみなとにー つきにけりー

(山陽本線)
徳山駅→防府駅→新山口駅→宇部駅→小野田駅→厚狭駅→小月駅→長府駅→新下関駅→幡生駅→下関駅

※鉄道唱歌のできた当時(1900年)は、防府駅(旧・三田尻駅)から先は開通していなかったため、徳山港から船で門司(九州)へ
※上記は、現代の我々が防府駅から山陽本線で下関へ行くまでの主要駅を筆者の独断と偏見でピックアップしたもの

防府駅まで行くと、現代では新山口駅宇部駅(うべえき)・厚狭駅(あさえき)などを経由して下関までに至り、そこから関門トンネルをくぐって門司(もじ)・小倉(こくら)方面に向かうことになります。
しかし鉄道唱歌のできた当時は、まだ山陽線が全線開通しておらず、徳山港から下関までは船しかなかったのでした。

ここで一旦徳山駅まで戻り、そこから船で下関まで行くことになります 。

それではもう一度、現在の青春18きっぷのルートである徳山駅・新山口駅・宇部駅・厚狭駅・下関駅までの道のりをみていきましょう。

山口県周南市(しゅうなんし)は、2003年に合併してできた、新しい街です。
周南市は、徳山市・新南陽市・熊毛町・鹿野町の4つの自治体の新設合併によって誕生しました。

なお、合併には2つのパターンがあります。
それは「新設合併」と「吸収合併」です。

例えば、新しくできた自治体の名前が「徳山市」のままだったら、他の3つの自治体は徳山市に吸収されてできたことになるので、これは「吸収合併」となります。
しかし、新しく周南市という名前で作られたので、これは吸収合併ということには事になりません。あくまで新設合併ということになります。

新南陽駅は、元々は新南陽市(しんなんようし)にあった駅です。
新南陽市は徳山市とともに2003年に合併し、新たに周南市(しゅうなんし)として誕生しています。
なお、新南陽(しんなんよう)という名前の由来ですが、これは山形県にも南陽市(なんようし)という名前の町があり、重複回避のために新南陽となった経緯があります。
なお、山形県南陽市には赤湯温泉(あかゆおんせん)という、山形名物の温泉があります。

防府駅または防府市の解説については前回行ったのでスキップします。
防府駅はかつて三田尻駅(みたじりえき)という名前でした。

新山口駅(しんやまぐちえき、山口県山口市小郡)は、元々は小郡駅(おごおりえき)という名前でした。しかし 2003年に「のぞみ号が止まる駅名に相応しい駅名にするということで、小郡駅から新山口駅に改称されたのでした。

新山口駅(山口市)

新山口駅からは、山口線(やまぐちせん)という路線が北方面へ分岐しています。
これによって県庁所在地の山口市(やまぐちし)および湯田温泉(ゆだおんせん)方面へ行くことができるほか、名勝の長門峡(ちょうもんきょう)という大きな峡谷(きょうこく)、さらには山陰の小京都(しょうきょうと)といわれる津和野町(つわのちょう)、やがて日本海側の島根県益田市(ますだし)に到達します。

山口線は、新山口駅~湯田温泉駅~山口駅~宮野駅のこの区間は都会エリアで沿線の人口も比較的多いので、普通列車の本数も比較的多めになります。しかし、宮野駅から先は沿線の人口も減るため一気に普通列車の本数が少なくなるので、その日にまでに山口線で津和野・益田方面、さらには出雲方面に行く場合には、「特急スーパーおき」などの利用も考慮する必要があります。新山口駅や山口駅から益田駅まで直通する普通列車は1日の中でも限られていますので、青春18きっぷで旅をする場合には時刻表は要チェックです。しかし特急列車はそれなりに走っているので、無理しないように特急列車の利用も考慮しましょう。

なぜ山口線(特に宮野~益田間)はじめとする陰陽連絡路線(いんようれんらくろせん)が列車本数をあまり増やせないのかというと、高速道路を走る高速バスなどに勝てないからです。
山口線はいわゆる木次線(きすきせん)または因美線(いんびせん)、また廃止となった三江線(さんこうせん)などと同じように、いわゆる山陽地方と山陰地方を結ぶための陰陽連絡路線(いんようれんらくろせん)として機能しています。
しかしこうした陰陽連絡路線は、現実的には険しい中国山地を縦に貫くため、勾配はきつくなり、またカーブも多く、列車はスピードをうまく出せません。
しかし後の時代に作られた高速道路はトンネルが多く、そのためまっすぐで綺麗な道が作れるため、どうやってもコスト面や速さの面で高速バスには勝てません。これが鉄道の陰陽連絡路線が苦境に立たされている理由です。

厚狭駅(あさえき)は、山陽小野田市(さんようおのだし)にある駅であり、また新幹線も止まる駅です。
厚狭駅は新岩国駅・新尾道駅・東広島駅などと並んで山陽新幹線の中では比較的地味な位置づけであると考えられがちで、ネットでもそのような意見がよく散見されますが、 厚狭駅は美祢線(みねせん)との接続駅であり、はるか日本海側の長門市(ながとし)まで至る路線であります。それだけに重要な駅でもあります。
また厚狭駅は山陽本線と小野田線との分岐点でもあります。

山口県山陽小野田市(さんようおのだし)は、山陽町(さんようちょう)と小野田市(おのだし)が合併してできた町です。
漢字で5文字の自治体名は、2020年現在では一番長い自治体名といわれています。

厚狭駅を過ぎると、かつての長門国(ながとのくに)の国府(こくふ)が置かれていた長府駅(ながふえき、山口県下関市)を過ぎます。

長門国(ながとのくに)は、現在の山口県の西部のエリアをいい、下関市・長門市・萩市などが該当します。
長門国の名前は江戸時代の「長州藩(ちょうしゅうはん)」の由来となり、後述するように幕末以降、多くの政治家を輩出した藩でもあります。

長府駅を過ぎると、またかつて長門国(ながとのくに)の一宮が置かれていたことに由来する長門一宮駅(ながといちのみやえき)、つまり現在の新下関駅(しんしものせきえき)に着きます。
新下関駅は、上記の通り「長門一宮駅」という名前でしたが、1975年の山陽新幹線開通に伴い、新幹線の線路が長門一宮駅を通るため、「新下関駅」に改称されました。

やがて、山陰本線との合流点・分岐点である幡生駅(はたぶえき、山口県下関市)に到着します。
思えば、京都駅から分岐して本当に久しぶりの山陰本線と、ここで合流してくふわけです。

幡生駅を過ぎると、やがて鉄道唱歌の年(西暦1900年)の翌年(西暦1901年)に開通した下関駅(しものせきえき、山口県下関市)に到着します。
下関駅は、当時は馬関駅(ばかんえき)と呼ばれていました。

そして先述の通り、かつての長州藩(ちょうしゅうはん)だった山口県は、多くの政治家を輩出した県でもあります。
伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、佐藤栄作など、山口県出身の政治家は確かに多いのです。
特に山口県萩市(はぎし)は長い間長州藩の拠点として機能していたため、松下村塾(しょうかそんじゅく)という吉田松陰(よしだしょういん)先生の塾があり、伊藤博文など多くの政治家を育成・輩出しています。

山口県出身の政治家が多い理由としては、やはり幕末に活躍した長州藩出身の武士たちの子孫にその政治の要職が受け継がれてきたことが大きいでしょう。
ではなぜ幕末に長州藩が幕府に対して猛攻をみせたのかというと、長州藩は外様(とざま)という扱いで幕府に信頼されず、ずっと冷遇され続けてきたからです。
その約260年にも及ぶ恨みや復讐心が募りつつ(表向きは幕府と良好な関係を保っていた)、幕末になって幕府の権威や影響力が弱ってきた頃に、長州藩は「今が仕返しのチャンス!」と幕府に猛攻をかけたのでしょう。

ではなぜ外様大名の藩は江戸幕府に冷遇され続けてきたのかというと、関ヶ原の戦いで西軍(つまり、徳川家康の敵側)についたことが挙げられます。
毛利家(もうりけ)は、西日本においてはその代表格です。
徳川家康に敵対した罰として、関ヶ原の戦いの後それまで築き上げてきた領地を取り上げられ、石高(こくだか。今でいう税収や領地みたいなものを、米の量で換算したもの)を大きく減らされて江戸よりも遠い場所に配属となったのです。
毛利家も戦国時代は、毛利元就(もうり もとなり)の大活躍によって中国地方のほとんどを支配してしまいました。
しかし毛利家は関ヶ原の戦いで西軍についたため、領地を大きく減らされて萩(はぎ)に追いやられたのです。ただ、萩城は三方向を海に囲まれた防衛に適した地域だったので、もちろん毛利氏が自主的に萩に移った、と考えることもできるでしょう。

話がズレましたが、山口県出身の政治家が多い理由について少しでも興味を持っていただければ幸いです。

鉄道唱歌の話に戻しますが、現代のように関門トンネルが完成したのは、1942年の頃です。
それまでは関門連絡船(かんもんれんらくせん)といって、鉄道車両ごと船に載せて門司港まで運んでいたのでした。
つまり、船の中まで線路が続いており、これは青森と函館を結んでいた青函連絡船や、岡山県宇野市と香川県高松市を結んでいた宇高連絡線と似ています。

しかし、当初の馬関駅跡は、現代では見る影もないようですが、大きな道路が海側に向かっているので、その昔確かにここに下関駅の大きな駅構内が存在していたことが偲(しの)ばれます。

では、次回よりいよいよ、門司・九州の話題に入ります!!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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