鉄道唱歌 山陽・九州編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
初心者の方や詳しくない方にも、楽しめるよう解説してゆきます!
↓まずは原文から!
瀬戸と呼ばるゝ此海は
源平兩氏の古戰塲
壇の浦とはこれぞかし
さらに読みやすく!
瀬戸と呼ばるる 此海は
源平両氏の 古戦場
壇の浦とは これぞかし
さあ、歌ってみよう!
♪せーととよばるる このうみはー
♪げんぺいりょうしの こせんじょう
♪だんのうらとはー これぞかしー
「早鞆の瀬戸」と呼ばれる下関・関門海峡

下関側からみた、関門海峡向かい側の門司・和布刈(めかり)(山口県下関市、福岡県北九州市門司区)
早鞆の瀬戸(はやとものせと)とは、瀬戸内海(せとないかい)の潮の流れがめちゃめちゃ速くなる、
- 下関側の「壇ノ浦(だんのうら)」
- 門司側の「和布刈(めかり)」
という、関門海峡でわずか1kmと最も接近する場所のことです。
ここで海域が狭くなるため、潮の流れがとても速くなります。
そのため、早鞆の瀬戸(はやとものせと)とよばれます。
また、海域が狭いため、壇ノ浦~和布刈間のこの地下には、人が徒歩で通れる地下道まであります。
なぜ関門海峡は、流れが早くなるのか
潮の満ち干きにより、海の流れが発生
潮には「満ち潮(みちしお)」と「引き潮(ひきしお)」があります。
つまり、月の位置によって海の水は月の引力に引き寄せられ、そちらに流れてしまいます。
そのため、
- 満潮(まんちょう)
- 干潮(かんちょう)
という事象がおこります。
月は地球の周りを回っているわけですが、このとき月の位置が変わることで、引力によって海の水はそちらに引き寄せられるのです。
狭い位置(海峡)にあること
そして、下関市の関門海峡は、ちょうど瀬戸内海への入り口にあたります。
瀬戸内海の最も西の狭い入り口にあるるため、潮の流れが速くなる、というわけです。
反対側の、瀬戸内海の最も東の狭い入り口の鳴門海峡(なるとかいきょう)も、潮の流れがとても速くなります。
鳴門の渦潮(なるとのうずしお)は、潮の流れが速くなり満潮と干潮の差がとても激しくなるため、海面の高低差を埋めるために起こります。
昔の舟は、「風の向き」がとても重要だった
また、潮の流れが早いということは、潮の流れを逆に進むと船が進みにくいことになります。
しかしその逆を言えば、潮の流れに沿って進めば船を速く動きやすいということになります。
昔の船は蒸気やエンジンもなかったので、本当に風まかせ・潮まかせでした。
風の動きを読むことも重要ですが、波の速さに沿って進むことも、昔の船にとっては重要なことでした。
例:広島県・福山の「鞆の浦」は、両端からの潮がぶつかる
例えば、広島県福山市の鞆の浦(とものうら)は、瀬戸内海のちょうど真ん中にあたります。
そのため、満潮のときに
- 西:山口県側(関門海峡、豊後水道)
- 東:徳島県側(鳴門海峡、紀伊水道)
の、それぞれから流れてきた両方の水がぶつかってくるわけです。
そのため、鞆の浦は「満潮と干潮」の境目というふうに言われていました。
鞆の浦については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

昔は、「潮の流れに沿って舟を進める」は鉄則だった

鞆の浦(広島県福山市)
このように、
- 満潮の時は、潮がたまっていく方向にそって、船を進めていく
- 干潮の時は、潮の引いていく方向に、船を進めていく
というふうにすれば、思いっきり船を早く進めることができるわけです。
しかしこれを誤ってしまうと、例えば満潮の流れのとき(鞆の浦へ向かって潮が流れるとき)に大坂(大阪)まで舟を進めようとすると、潮の流れとは逆に進んでしまいます。
そのため、舟は思うようにスピードが出ません。
これだと、まるで川を逆流に上っていくようなものです。
満潮と干潮のタイミングを待つため、鞆の浦は「潮待ちの港」と呼ばれていました。
すみません、話を山口県に戻します!
源平合戦の古戦場・檀ノ浦と、赤間神宮
そして、源平(げんぺい)の古戦場・壇ノ浦(だんのうら)もここにあります。
壇ノ浦(だんのうら)には、
- 赤間神宮(あかまじんぐう)
という神社が存在します。
また、平氏に最期まで西へ西へと連れてこられた安徳天皇(あんとくてんのう)が、お母様とともに海へ入って入水した場所としても知られます。
「赤間」は、「下関」の語源・由来!
赤間神宮の「赤間(あかま)」とは、かつて下関が
- 「赤間関(あかまぜき)」
- 「赤馬関(あかまぜき)」
などのように呼ばれていたことに由来します。
昔は現代ほど漢字の表記方法が統一されていなかったため、「赤間」「赤馬」のように複数の漢字表記がありました。
「赤間関」→「赤馬関」→「馬関」→「下関」
そして、「赤馬関」という漢字から「赤」の文字が省略されて、
- 馬関(ばかん)
となりました。
やがて、明治時代の1902年に「馬関」改め、
- 下関(しものせき)
となっています。
これにより、山陽鉄道の「馬関駅」も、
- 下関駅
に改められています。
安徳天皇入水の地
まだ幼かった安徳天皇(あんとくてんのう)は、都を追われた平氏によって最期まで大事に連れてこられ、下関(壇ノ浦)まで来ておられたのでした。
そして、お母様とともに海に入って、幼くしてその生涯を終えられたのでした。
お母様「これから、海の中の楽園に行くのよ。」
このような悲しい最期があったとされています。
判官贔屓!?安徳天皇は、実は入水せず生きていた!説
しかし、安徳天皇のこのエピソードは悲しすぎます。
なので、安徳天皇は実は入水しておらず、そのまま生き延びて九州へ逃れたという都市伝説が存在するのです。
これはまるで、
- ここ・檀ノ浦で活躍した源義経が、
- その後落ちぶれて、奥州・平泉(ひらいずみ)で悲劇の自害をしたときに、
- 実は生きていて、北海道へ逃れた
という都市伝説に似ています。
これは「判官贔屓(はんがんびいき)」といい、悲しすぎる義経の最期に同情した人々によって作られた、アナザーストーリーなのです。
源義経のことを「九郎判官(くろうほうがん/くろうほうがん)」ともいったので、このような名前となっています。
判官贔屓については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

九州のあちこちに伝わる、安徳天皇の伝承地
話を戻しますが、この「判官贔屓」のように「実は生きていた」とされる安徳天皇が、九州のあちこちに生き延びたと伝わる、いわゆる伝承地が存在するわけです。
つまり、安徳天皇は平氏の残党に守られながら、九州へ逃げたというわけです。
もちろん九州だけでなく、中国地方や関西地方にも、安徳天皇ゆかりの地が存在するとされています。
1185年「檀ノ浦の戦い」
源平合戦は、1160年の平治の乱(へいじのらん)に始まりました。
源氏の敗北、平氏の天下へ
ここで平清盛が勢いづいて、源義朝(よしとも:つまり源頼朝のお父さん)は愛知県の知多半島(ちたはんとう)にて、自害に追い込まれてしまいました。
また、息子の源頼朝も、1160年に伊豆半島の
- 蛭ヶ小島(ひるがこじま:現在の静岡県伊豆の国市)
に流罪となってしまいました。
ここで約20年もの間、力を蓄え、北条政子(ほうじょう まさこ)とも出会いました。
頼朝配流の地、伊豆・蛭ヶ小島については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

やがて、20年後の1180年の
- 以仁王の挙兵(もちひとおうのきょへい)
によって、全国の源氏たちは
と立ち上がったのでした。
頼朝の敗北から、逆転へ
敗北・逃走から、房総半島への上陸
しかし神奈川県・真鶴(まなづる)で起きた「石橋山の戦い」でも敗れてしまいました。
やがて頼朝は、真鶴半島(まなづるはんとう)から海を渡ってゆきました。
そして、千葉県・房総半島の内房線(うちぼうせん)の駅である
- 安房勝山駅(あわかつやまえき、千葉県安房郡鋸南町)
の付近で上陸ということになりました。
頼朝の安房勝山への上陸については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

富士川の戦い
やがて関東地方の平氏に不満を持つ武士達を次々に味方につけ、静岡県富士市の
- 富士川の戦い
で平氏を撃退します。
まるで
と勘違いして、平氏は逃げていったといいます。
「富士川の戦い」については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

平氏の衰退、西へ西へと逃れる
やがて、源氏が巻き返して勢いづくと同時に平清盛が亡くなり、平氏は偉大なカリスマを失ってしまいました。
すると、平氏は徐々に衰退・退却を余儀なくされます。
やがて平氏は京都を追われ、神戸にあった都である「福原京(ふくはらきょう)」も、失敗に終わってしまいました。
やがて、神戸市・須磨(すま)で行われた
- 一ノ谷の戦い
において、源義経(よしつね)による
という常識破りな戦法により、平氏は大混乱に陥り敗北します。
一ノ谷の戦いについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

檀ノ浦へと追い詰められ、滅ぼされる
やがて西へ西へと逃れた平氏は、1185年にここ壇ノ浦にて滅ぼされました。
これがいわゆる
- 壇ノ浦の戦い
です。
源氏の勝利に終わり、源頼朝による鎌倉幕府誕生のきっかけとなったのでした。

檀ノ浦古戦場(山口県下関市)
こうしてみると、関門海峡にはとても歴史的要素や重要なことが満載だなあ、と書いていて思いました。
また、鉄道唱歌でも関門海峡関連の歌詞が、実に4番も充てられていることに気がつきます(第27~第30番)。
次回で、関門海峡関連の話題はラスト
次回も、関門海峡関連の話題です。
次回で関門海峡編は最後となり、その次はいよいよ、九州への旅に入ります!
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