まずは原文から!
中津(なかつ)は豐後(ぶんご)の繁華(はんか)の地(ち)
頼山陽(らいさんよう)の筆(ふで)により
名(な)だかくなりし耶馬溪(やばけい)を
見(み)るには道(みち)も遠からず
さらに読みやすく!
中津(なかつ)は豊後(ぶんご)の繁華(はんか)の地(ち)
頼山陽(らいさんよう)の筆(ふで)により
名(な)だかくなりし耶馬溪(やばけい)を
見(み)るには道(みち)も遠からず
さあ、歌ってみよう!
♪なかつはぶんごの はんかのちー
♪らいさんようのー ふでによりー
♪なだかくなーりし やばけいをー
♪みるにはみちもー とおからずー
宇島駅を過ぎ、吉富駅と山国川を過ぎると、大分県に入ります。
やがて、豊前国の領域では南の繁華の街として繁栄してきた大分県中津市の中心駅・中津駅に到着です。
まず、よく言われているように、この歌詞には残念な誤植(ごしょく)があります。
誤り:豊後(ぶんご)
正し:豊前(ぶぜん)
豊後国(ぶんごのくに)は、現在の大分県の国東半島より南の部分の領域をいい、国東半島の北にある中津市は、豊後国には含まれないのです。
つまり、中津市は豊前国に該当します。
豊前国は、福岡県の東部(門司も含む)と、中津市を含む大分県の北部のことをいいます。
現代の都道府県とかつての国は、領域が一致しているケースも多いのですが(例えば、滋賀県は、ほぼ近江国と一致)、イレギュラーなケースもあり、中津市も同じことがいえます。
なぜ今回のような残念な誤植となってしまったのかについては、恐らく大分県のほとんどが豊後国に該当することが理由として挙げられます。
つまり、
豊前国=福岡県
豊後国=大分県
のような誤解やイメージ、先入観があると、今回のような誤植を招きやすいと思われます。
大分県のほとんどの領域は豊後国で間違いないのですが、例外的に中津市をはじめとする北部は除外されるので、気をつけたいところです。
やはりどんな人にとっても、思い込みや先入観などは仕事のミスに直結します。
また、どんな本や書籍、ネットの情報などにも、人間が書く以上はこうしたことは発生していまいます。
私のブログにも、こうした思い込みや間違いはあるかもしれません(^^;
少しでも減らせるよう、日々少しずつでも知識を積み重ねていっているところであります!
では、本題の中津市の話題に入ります。
大分県中津市(なかつし)は、あの福沢諭吉の出身地としても有名です。
福沢諭吉は厳密には大阪生まれなのですが、幼少期は中津で過ごしたことで有名です。
福沢諭吉は、「天は人の上に人を造らず」という言葉で知られます。
耶馬溪(やばけい)は、歌詞にもあるように頼山陽(らい さんよう)のという人物の書物によって江戸時代にその名前が知りわたりました。
頼山陽(らい さんよう)は、かつて広島の市街地中心部にあたる地域で育っています。
幼い頃から歴史に非常に興味ある優秀な人だったらしいですが、それにも満足できず京都に出てきたようです。
その頼山陽に書かれた書物には、「日本外史(にほんがいし)」というものがあります。
この日本外史は、本居宣長(もとおり のりなが)の国学や、水戸藩の水戸学のように、幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えたとされています。
これらの学問は、日本の長きにわたる歴史を深く解説しているので、日本という国を愛する心(愛国心)を育みます。
それによって、開国になったときも、外国勢力を排除して天皇を中心とした国家を守ろうという、いわゆる「尊皇攘夷運動(そんのうじょういうんどう)」という動きに繋がったわけです。
なお、本居宣長は三重県松阪市(まつさかし)の出身であり、鉄道唱歌関西・参宮・南海編第22番でも歌われています。
また、最後まで国や天皇に忠誠を示した(勤王)水戸浪士とそのリーダー武田耕雲斉(たけだ こううんさい)については、鉄道唱歌北陸編第67番でも歌われています。
では、次は宇佐に止まります!
注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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