鉄道唱歌 山陽・九州編の歌詞(田原坂の戦い)について、鉄道に詳しくない方にもわかりやすく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
その名ひびきし田原坂
見にゆく人は木葉より
おりて道きけ里人に
さらに読みやすく!
その名ひびきし 田原坂
見にゆく人は 木葉より
おりて道きけ 里人に
さあ、歌ってみよう!
♪そーのなひびきし たばるざかー
♪みにゆくひーとは このはよりー
♪おーりてみちきけ さとびとにー
小倉駅→折尾駅→箱崎駅→博多駅→都府楼南駅→二日市駅→鳥栖駅→久留米駅→木葉駅→田原坂駅→熊本駅→川尻駅→宇土駅→松橋駅→八代駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
荒尾駅を南下し、田原坂・熊本方面へ
荒尾駅(あらおえき、熊本県荒尾市)を過ぎて鹿児島本線を南下、
- 長洲駅(ながすえき、熊本県玉名郡長洲町)
- 玉名駅(たまなえき、熊本県玉名市)
などを過ぎると、西南戦争にゆかりある田原坂(たばるざか)に近い、
- 木葉駅(このはえき、熊本県玉名郡玉東町大字木葉)
- 田原坂駅(たばるざかえき、熊本県熊本市北区)
に着きます。

田原坂への最寄駅の1つ、木葉駅(熊本県玉名郡玉東町)

田原坂付近。(熊本県熊本市北区)
西南戦争の舞台・田原坂
田原坂(たばるざか)は、かつて西南戦争(せいなんせんそう)の激戦があった場所です。

田原坂の景色。はるか遠くに雲仙岳。(熊本県)
史上最大の内乱・西南戦争
西南戦争(せいなんせんそう)とは、1877年に日本の歴史上で最後に起こった史上最大の内乱のことをいいます。
なぜ西南戦争が日本最後の内乱なのかというと、これを最後に日本で大きな内乱は日本国内では起こらなかったからです(起こすメリットもなし)。
その後の戦争はどちらかというと「日清戦争」や「日露戦争」など、外国との戦争がメインとなっていったからです。
なぜ西南戦争が起こったのか
ではなぜこの西南戦争が起こったのか、少しずつ勉強していきましょう。
四民平等で、奪われる武士の特権
江戸時代が終わって明治時代になると、四民平等(しみんびょうどう)といって、武士や農民などの身分は無くなってしまいました。
その結果として、武士の特権も大きく失われることになります。
武士にはそれまで、「苗字(みょうじ)を名乗る権利」や、「刀を持つ権利」などが認められていました。
しかし、明治時代になると中でも「廃刀令(はいとうれい)」といって、武士が刀を持つことが許されない、つまり「平民と同じような扱いをされる」ことによって武士の特権は失われ、武士のプライドはズタボロとなりました。
元・武士をサポートするため、西郷隆盛が地元・鹿児島で育成
こうした武士に対する政府の対応はあまりもひどく、武士たちは当然のことのように不満を持つようになります。
これを見かねた西郷隆盛(さいごう たかもり)は、政府を辞めて、地元である鹿児島に戻ることになります。
そして鹿児島で自分たちの後進の武士たちを育てるために学校や塾のようなものを開いて、武士たちの育成に務めます。
明治政府に目をつけられる
しかし、これを明治政府が黙って見ておくわけにいきません。
西郷隆盛はあくまで自分たちの部下である武士の育成するだけのつもりが、明治政府からすれば自分たち(政府)に対する反乱を企てているのではないか、というふうに疑心暗鬼になってしまうのも無理はないでしょう。
九州へ兵を送られ、西南戦争が勃発
これによって明治政府が九州方面に兵を向け、いよいよ西郷隆盛率いる薩摩軍との決戦が始まります。
これがいわゆる西南戦争の始まりです。
熊本城をめぐる戦い
明治政府軍と戦うことを避けられなくなった西郷隆盛は、まず明治政府に対抗するために熊本城を攻め落とそうとします。
そして、約1万人の薩摩軍の武士達はやる気満々で鹿児島をスタートし、熊本に向かいます。
もし熊本城を落とすことができれば、 そこを拠点に明治政府に対抗するための基地(拠点)ができるからです。
逆にもし熊本城を占領できなければ、熊本を通りすぎて北上したとき、後ろから挟み撃ちにされるリスクもあったのでした。
難攻不落の城・熊本城の前に苦戦
しかし、熊本城は約200年前にあの加藤清正(かとう きよまさ)公が築いた、いわゆる「難攻不落の城」としても知られます。
つまりセキュリティ面や防御力がガチガチに硬い城だったのです。
西郷軍の武士たちは、ガチガチに固められた防御力を誇る熊本城に、なかなか攻め入ることができませんでした。
熊本城の「武者返し」に阻まれ、全員が侵入不可に
特に、「武者返し」と呼ばれる熊本城の巨大な城壁に阻まれてしまい、薩摩軍の武士達は誰一人たりとも熊本城に侵入することができませんでした。
なお、「武者返し」とは、
上に行くたびに傾斜がきつくなり登れず、
上から撃ち落とされて終わり
という、熊本城ならではの城壁です。
現在の熊本駅の駅舎は、この「武者返し」をモデルとした壁になっています。
備蓄が豊富で、籠城にも強かった熊本城
そこで西郷軍は攻め方を「籠城(ろうじょう)攻め」「兵糧攻め」にすることを選択します。
しかし、熊本城は畳の中に、また壁にもが「非常食」が植え付けられており、また城内に井戸もたくさん掘ってあったので飲料水にも困らず、食糧不足にもなりませんでした。
このように備蓄が万全だった熊本城は、籠城にも強い城だったのです。
田原坂の戦い
そこで西郷軍は熊本城は攻めるのを諦め、熊本城にわずかの武士だけを残して、北にある田原坂(たばるざか)で政府軍を迎え撃ちました。

田原坂の景色。西南戦争の時、ここで多くの銃弾が飛び交った(熊本県)
「越すに越されぬ」難所の田原坂
しかし、ここ田原坂も非常に険しい峠道であり、かつては静岡県の大井川(おおいがわ)と同じで「越すに越されぬ」とまで呼ばれていた難所でした。
士気が高い薩摩軍の前に、苦戦する政府軍
ただし、士気がとても強かった薩摩軍の武士達はそこそこ善戦し、また民間人に銃を持たせただけに等しくそこまで戦闘経験や士気が高くない明治政府軍は薩摩軍に苦しめられました。
また、田原坂は険しい峠道なので、地形的にも迎え撃つ薩摩軍にとっては若干有利だったようです。
両者とも甚大な被害 僅差で政府軍の勝利
そのため、「田原坂の戦い」は薩摩軍だけでなく新政府軍にも非常に大きな犠牲が出ました(どちらも1万人近く戦死し、わずかに新政府軍に軍配(ぐんぱい)が上がった)。
「田原坂の戦い」は最終的には、わずかな差で新政府軍の勝利となりました。
田原坂に残る、あちこちの銃弾の跡
田原坂のあちこちには、現在でも銃弾の跡が残っています。それだけ激戦だったことを示しています。

田原坂の建物に今でも残る銃弾の跡(熊本県)
敗戦後、鹿児島へ戻る西郷隆盛 銃弾に倒れる
こうして薩摩軍は田原坂の戦いで奮闘こそするも敗退し、また熊本城の戦いでも負け、生き残った薩摩軍と西郷隆盛は仕方なく鹿児島に逃げるように引き返したのでした。
そこで西郷隆盛は鹿児島の「城山公園(しろやまこうえん)」のあたりで、銃弾に倒れて亡くなってしまいます。
西南戦争の終了
こうして西南戦争は、薩摩軍の敗北・西郷隆盛の戦死・新政府軍の勝利という結果で幕を閉じました。
政府軍にも多大な被害
しかし、新政府軍も多大な犠牲を出してしまいました。そのため、
「このままでは、欧米列強や外国と戦争になったときに勝てない」
という、現状の実力を知る契機となったのでした。
それ以降、明治政府はさらに国内の軍事力を強化していくこととなるのです。
西南戦争の多大な出費により、鉄道建設が遅れていく
また、西南戦争で国は多大な予算を使い果たしてしまい、それまで1872年の鉄道開業以来都市部を中心に途中まで建設していた鉄道路線は、それ以上建設できなくなってしまっていました。
そのため、1880年代以降は民間の会社やお金持ちがお金を出し合って、鉄道路線を建設していくことになるわけです。
例えば、九州であれば現代のJR九州の原形となる「九州鉄道」という会社です。1906年に国有化され、国鉄を経て現代のJR(日本旅客鉄道)に至ります。
西南戦争を最後に、国内のみの大きな戦争は終焉
西南戦争を最後に、日本では大きな内乱(日本人同士での戦乱)は起こらず、むしろ日本という国全体が一致団結して、欧米列強の戦いに備えて軍事力を強化していくことになります。
そして、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と続いていくのです。
個人的な、田原坂での失敗談
ちなみに、田原坂の観光について私個人の経験談・失敗談を語っておきます。
歌詞の通り「木葉駅」からの方がよい
田原坂は本当に厳しく険しい峠になります。
そのため、本当は田原坂駅から行くよりも、
- 歌詞にあるように、木葉駅(このはえき)からバスに乗る
- 「鈴麦(すずむぎ?)」というバス停まで行き、降りる(セブンイレブンが近くにあります)
- そこから徒歩で、田原坂まで行く
という手段の方が、道が真っ直ぐであるため、一番賢明だったと思います。
田原坂駅は、あまりオススメでない
田原坂駅は駅名からして田原坂への最寄駅のようにも思えます。
しかし、実際にそこから田原坂まで徒歩で行くには険しい山道(しかも車の交通量も多い)を通る必要があります。
健脚(けんきゃく)の人でも、徒歩15分くらいは最低でも必要です。
坂もきつく、健脚で徒歩15分の距離は、かなり遠いです。
道に迷うリスクもありスマホのGPSは必須です。
確か途中に自販機やベンチなども無かった気がするので、真夏日は絶対に避けましょう。
ご年配の旅行者が田原坂駅までせっかく来たのですが、道が険しく遠いことを知り断念されていました。
また、田原坂に来ていた私以外の観光客は、みな車で来られるような、家族連れの方々ばかりでした。
私は、田原坂駅から行って、迷子になりそうになった
田原坂は本当に険しい峠坂であり、私は初めて行ったときは、迷子になりそうになりました。
それと同時に、なぜ加藤清正公が敢えて険しいここを交通のメインに定めたのかが、よくわかった気がしました。
それは険しい山道は防御面に優れているからですね。
やはり、できれば木葉駅から
今思えば、歌詞にあるように木葉駅で降りて、よく調べてからバスで
- 木葉駅→鈴麦
と移動し(約5分、だいたい200円くらい)、セブンイレブンで何か買ってから、真っ直ぐな道を約10分ほど歩いた後に田原坂に行けば、かなりスマートだったかな、とも思います。
バス停「鈴麦」やセブンイレブンから田原坂までの道のりは、こちらも決して近くはありません。
しかし、道が比較的真っ直ぐであり、そこまで険しい道のりという印象はありませんでした。
事前に、充分な下調べを
青春18きっぷで田原坂に行かれる方は、田原坂駅から行くのか、木葉駅から行くのか、よく地理条件やバスの時間などを調べてから行かれることをオススメします。
正直、車がないとかなり厳しい場所であり、田原坂に来られてる多くの方々は車で来られているからです。

田原坂から、はるか遠くに雲仙岳が見えた(熊本県)

田原坂の景色。はるか遠くに雲仙岳(熊本県)
次は、熊本駅へ
田原坂の観光が終わったら、いよいよ熊本県の県庁所在地・熊本市の方面へ向かってゆきます!
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