鉄道唱歌 山陽・九州編 第65番 長崎の歴史探訪 神社・寺町・居留地、キリスト教の篤い信仰のあと

まずは原文から!

汽車(きしゃ)よりおりて旅人の
まづ見にゆくは諏訪(すわ)の山
寺町(てらまち)すぎて居留地(きょりゅうち)に
入ればむかしぞ忍(しの)ばるゝ

さらに読みやすく!

汽車(きしゃ)よりおりて旅人の
まず見にゆくは諏訪(すわ)の山
寺町(てらまち)すぎて居留地(きょりゅうち)に
入ればむかしぞ忍(しの)ばるる

さあ、歌ってみよう!

♪きしゃよりおりて たびびとのー
♪まずみにゆくはー すわのやまー
♪てらまちすーぎて きょりゅうちに
♪いーればむかしぞ しのばるるー

(大村線)
早岐駅→ハウステンボス駅→南風崎駅→川棚駅→彼杵駅→松原駅→大村駅→諫早駅

(長崎本線)
諫早駅→喜々津駅→大草駅→長与駅→道ノ尾駅→浦上駅→長崎駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ記載
※長崎本線は、長与経由のものを記載

列車は既に、長崎駅(ながさきえき、長崎県長崎市)に到着しています。

長崎の景色(長崎県長崎市)

写真奥の山は稲佐山(いなさやま)といい、山頂からの夜景はモナコ・香港ととまに新世界三大夜景と呼ばれます。

長崎駅で降りたら、いよいよ長崎観光になります。

歌詞にある「諏訪の山」とは?そのヒントは、長野県の諏訪湖にあり!

歌詞にある諏訪の山(すわのやま)とは、いわゆる諏訪神社(すんじんじゃ)のことを言います。
諏訪神社は、全国にたくさん存在する、約1万ほどある神社です。
その最も格式の1番ある諏訪大社の総本社(そうほんしゃ)は、長野県諏訪市(すわし)にあります。
諏訪の神様とは、タケミナカタという軍神(ぐんしん)、つまり戦いの神様のことを言います。
長野県の諏訪神社は、上諏訪(かみすわ)と下諏訪(しもすわ)のそれぞれ上社(かみしゃ)と下社(しもしゃ)に別れています。
上社(かみしゃ)は男性の神様を祀(まつ)る神社であり、下社(しもしゃ)は女性の神様が祀られています。
そのため、男性の神様が女性の神様に会うために、冬の凍った諏訪湖の上を歩いて渡っていくという伝説があります。これを「御神渡り(おみわたり)」といい、凍った諏訪湖の湖上にひび割れができます。

諏訪神社は他にも、鉄道唱歌に関連するところでは、東京都の日暮里(にっぽり)にもあります。

寺町と港町の関係!長崎と同じく、広島県・尾道にもお寺は多い

寺町(てらまち)」とは、ここでは神社やお寺などがたくさん並ぶ町並みのことをいいます。
長崎や、広島県の尾道(おのみち)にお寺が多いのは、古くから海上交通の拠点として栄えてきた港町であるため、海の交通安全や漁業の繁栄繁盛などを願うためにお寺や神社などが多くなったものと思われます(あくまで筆者の予想)。
また、歴史的に港町は人口も増えるため、お寺にとっては信者を獲得しやすいというメリットもあったことでしょう。

居留地とは?開港5港の長崎には、たくさんの外国人が移住した

居留地(きょりゅうち)」とは、外国人たちが一箇所にまとまって住む場所のことを言います。
昔は、特に幕末開港して外国人が日本に多く住むようになってからは、外国人たちは居留地という場所に一括にまとまって住むことが幕府にとって都合良かったことが挙げられます。
それは治安(セキュリティ)の面だったり、税金や保険などの役所関係だったりと、様々なメリットが幕府にとってあったわけです。

長崎は江戸時代・鎖国中も、中国・オランダと貿易を行い、深い関係があった

そして長崎は、江戸時代に鎖国をして外国との関係を一切断ち切っていた中でも、中国オランダという国とは交易を持っていました。

そのため、長崎には中華街だったり、オランダの文化を思わせるような建築物が存在します。

中でも「オランダ坂」は有名でしょう。
これはオランダ人が往時(おうじ)、つまり江戸時代より行き交っていた場所だったことに由来します。

キリスト教が禁止されていた時代、長崎には「隠れキリシタン」がいた

そして、長崎は「隠れキリシタン」と呼ばれる、江戸幕府に隠れてキリスト教を信仰していた信徒たちがいたことも知られます。
なぜ江戸時代にキリスト教が禁止されていたのかというと、将軍よりも偉い神様がいることは、幕末にとって都合が悪かったからです。
このキリスト教弾圧に怒った農民たちによる武装蜂起が、1637年に長崎県で起きた天草島原の乱です。

また、長崎では江戸時代以前にも、豊臣秀吉によって26人の聖人(キリスト教の中でも特に位が高く、信仰にあつい人々)たちが十字架にはり付けられる処刑もおきています。
なぜ彼らが長崎にある丘の上で十字架に処せられたのかは、イエスが「ゴルゴダの丘」という場所で処せられたことから、彼ら26人はそれを希望したそうです。
最期の最期まで彼らがイエスや神に対する信仰心を捨てないわけですから、江戸幕府がキリスト教を恐れたのも納得できます。

明治時代に入ってからのキリスト教と、大浦天主堂

しかし明治時代によってキリスト教が解禁されてから、当時の隠れキリシタンたちは、徐々に自分たちがキリスト教徒であることを告白してきました
その記念として造られたのが、大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)です。

大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)は、初天明時代に作られた大きな教会です。
それまでは長崎では、先述の通り「隠れキリシタン」と言って自分たちがキリスト教信者であることは告白することはできませんでした
しかし明治時代になってキリスト教が解禁され、大浦天主堂はキリスト教徒たちが自身が信者であることを告白することができた記念に建てられました

次回もまだまだ、長崎についての話題です!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

コメント

タイトルとURLをコピーしました