鉄道唱歌 山陽・九州編 第66番 長崎の港に集まるオランダの船 開港5港の1つ

まずは原文から!

わが開港(かいこう)を導(みちび)きし
阿蘭陀(おらんだ)船(ぶね)のつどひたる
みなとはこゝぞ長崎(ながさき)ぞ
長くわするな國民(くにたみ)よ

さらに読みやすく!

わが開港(かいこう)を導(みちび)きし
阿蘭陀(おらんだ)船(ぶね)のつどいたる
みなとはここぞ長崎(ながさき)ぞ
長くわするな国民(くにたみ)よ

さあ、歌ってみよう!

♪わがかいこーうを みちびきしー
♪おらんだぶねのー つどいたるー
♪みなとはこーこぞ ながさきぞー
♪なーがくわするな くにたみよー

(大村線)
早岐駅→ハウステンボス駅→南風崎駅→川棚駅→彼杵駅→松原駅→大村駅→諫早駅

(長崎本線)
諫早駅→喜々津駅→大草駅→長与駅→道ノ尾駅→浦上駅→長崎駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ記載
※長崎本線は、長与経由のものを記載

長崎は、かつて江戸時代に鎖国していたときに、唯一外国との貿易を許可されていた場所でした。

なぜ鎖国をしていたのかというと、キリスト教を信じる国との関係を当時の江戸幕府が持ちたく無かったからです。

なぜ江戸幕府がキリスト教を敬遠したのかというと、日本で一番偉いのは将軍様であるはずなのに、キリスト教では徳川将軍よりも神様イエス・キリストの方が偉いということになってしまうので、のような教え(教義)は幕府にとって都合が悪かったからです

しかし、当時の農民たちの間では、キリスト教はどんどん信仰されていきました。

なぜキリスト教がこれほど広まっていったのかというと、やはり重い年貢や、いつ天災や飢饉などによって米がろくに採れず、年貢を納められるかわからない不安や、年貢を厳しく罵倒(ばとう)されながら取り立てられる、という恐怖があったからでしょう。

しかし、キリスト教の教えでは、そういった(農民たちは決して悪くないのに)悪いことも、イエス様が身代わりとなって赦(ゆる)してくれるということで、これを言われると多くの貧しい農民たちが救われたからでしょう。

ただ、仏教でも「人々を救済する」という点では共通しており、ならばそれまで通りの仏教でいいんじゃないの?と思うものですが、人々は今もそうですが常に新しいものを求めるものです。

1543年にフランシスコ・ザビエルによって日本に伝わってきたばかりのキリスト教は、当時の日本人にとってはすごく新鮮だったことでしょう。
仏教が日本に伝わってきたのは古墳時代の西暦538年ですが、仏教もずっと同じだったわけではなく、奈良時代平安時代鎌倉時代とマイナーチェンジを繰り返しています。それも奈良仏教のように難しい学問の時代から、平安仏教のように厳しい山での修行がメインだったり、鎌倉仏教のように座禅や念仏がメインになったりと、仏教も仏教で時代の変化に応じてマイナーな変化を繰り返してきたのです。
もちろん、過去の宗派にとって新しい宗派は都合が悪いので、宗派同士で対立や争いも繰り返してきたことでしょう。

話がずれましたが、江戸時代の農民にとってはキリスト教はとても新鮮な教えだったのかもしれません。

しかし、江戸時代になりキリスト教は幕府によって禁止されてしまいます。
それに加えて重い年貢に憤った島原(しまばら)や天草(あまくさ)の農民達が1637年に反乱を起こしました(島原の乱)。
これに対して、幕府は12万人という大軍を送り込んだのですが戦いは4ヶ月にも及び、相当手こずったものと思われます。

これは幕府にとっても多大な出費と労力となり疲弊したので、二度とこういう反乱は起こらないように、キリスト教を信仰する国とは一切の交流を持たない「鎖国」を行いました。

この鎖国期間、キリスト教を信仰しないオランダと中国のみの貿易が行われました。

そして、「出島(でじま)」という場所に外国人をまとめて住んでもらい、日本人も自由に出入りできませんでした。
日本人は幼少期から日本人同士で暮らしてきているケースが多く、外国人とあまり触れる機会がないので、どうしても外国人に対してアレルギーがあるものですが、やはり当時としても外国人は外国人でまとまって住んでもらった方が幕府としては安全面で統括しやすかったのでしょう。
江戸時代後期には「異国船打払令」といって、外国船を見たら問答無用で打ち払え、みたいなこともやってのけるぐらいですからね…。

なお「出島」は元々は本当に島でしたが、現代では埋め立てなどを繰り返され、「島」といった感じではなくなってしまいました。

そして1853年にペリー提督率いる黒船の来航によって、約200年続いた鎖国は終了し、長崎は開港5港の1つとなりました、

開港5港(ごこう)とは、以下の5つの港です。

北海道函館市
新潟県新潟市
神奈川県横浜市
兵庫県神戸市
長崎県長崎市

長崎の港

開国・開港によって日本にも鉄道の技術も伝わり、明治時代以降の日本は大きく発展しました。長崎は開港5港の1つとして、また当時は最も外国に近い港だったこともあり、長崎の港を通じて多くの外国の文化や物資が日本に入ってきたことでしょう。そのオランダ船の集まる港が、ここ長崎であるということです。そのことを、鉄道唱歌の歌詞では「永(なが)く忘れるな、国民の皆よ」のような意味で歌っているわけです。

鉄道唱歌 山陽・九州編の旅も、いよいよ大詰めになります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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