鉄道唱歌 山陽・九州編の歌詞(長崎とオランダとの関係や歴史など)について、鉄道に詳しくない方にもわかりやすく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
阿蘭陀船のつどひたる
みなとはこゝぞ長崎ぞ
長くわするな國民よ
さらに読みやすく!
阿蘭陀船の つどいたる
みなとはここぞ 長崎ぞ
長くわするな 国民よ
さあ、歌ってみよう!
♪おらんだぶねのー つどいたるー
♪みなとはこーこぞ ながさきぞー
♪なーがくわするな くにたみよー
早岐駅→ハウステンボス駅→南風崎駅→川棚駅→彼杵駅→松原駅→大村駅→諫早駅
(長崎本線)
諫早駅→喜々津駅→大草駅→長与駅→道ノ尾駅→浦上駅→長崎駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ記載
※長崎本線は、長与経由のものを記載
長い鎖国の歴史から、開港した長崎
長崎は、かつて江戸時代に鎖国していたときに、唯一外国との貿易を許可されていた場所でした。
そして、ヨーロッパの国の中では、オランダが唯一の友達(貿易相手国)でした。
なぜ江戸幕府は、「鎖国」をしていたのか
なぜ鎖国をしていたのかというと、キリスト教を信じる国との関係を、当時の江戸幕府が持ちたく無かったからです。
なぜ江戸幕府は、キリスト教を禁止したのか?
ではなぜ、江戸幕府がキリスト教を敬遠したのか。
それは、日本で一番偉いのは将軍様であるはずなのに、キリスト教では
ということになってしまいます。
キリスト教のそのような教え(教義)は、幕府にとっては都合が悪かったからです。
しかし、当時の農民たちの間では、キリスト教はどんどん信仰されていきました。
江戸時代、厳しく取り締まられていたキリスト教
禁止されていたにも関わらず、なぜキリスト教は広まっていったのか?
では、どうしてキリスト教がこれほど広まっていったのか。
それはというと、やはり
- 重い年貢
- 天災や飢饉などによって、米がろくに採れない焦り・不安
- 高い年貢を納められるかわからない不安
- 年貢を厳しく罵倒(ばとう)されながら、取り立てられるという恐怖
などの、さまざまな社会不安があったからでしょう。
しかし、キリスト教の教えでは、そういった(農民たちは決して悪くないのに)悪いことも、
ということで、これを言われると、多くの貧しい農民たちが救われたから、でしょう。
いつの次第も、人々は「新しいもの」を求める
ただ、仏教でも「人々を救済する」という点では共通しています。
ならば、
と思うものですが、人々は今もそうですが常に新しいものを求めるものです。
1543年にフランシスコ・ザビエルによって日本に伝わってきたばかりのキリスト教は、当時の日本人にとってはすごく新鮮だったことでしょう。
仏教も、時代とともに常に変化してきた
仏教が日本に伝わってきたのは古墳時代の西暦538年です。
しかし、仏教もずっと同じだったわけではなく、奈良時代、平安時代、鎌倉時代とマイナーチェンジを繰り返しています。
それも
- 奈良仏教のように難しい学問の時代から、
- 平安仏教のように厳しい山での修行がメインだったり、
- 鎌倉仏教のように座禅や念仏がメインになったり・・・
と、仏教も仏教で時代の変化に応じてマイナーな変化を繰り返してきたわけです。
もちろん、過去の宗派にとっては、新しい宗派の存在・台頭は都合が悪くなります。
そのため、宗派同士での対立や争いも、繰り返し行われてきたことでしょう。
話がずれましたが、江戸時代の農民にとっては、キリスト教はとても新鮮な教えだったのかもしれません。
島原の乱
しかし、江戸時代になりキリスト教は幕府によって禁止されてしまいます。
それに加えて重い年貢に憤った
- 島原(しまばら)
- 天草(あまくさ)
の農民達が、1637年に反乱を起こしました(島原の乱)。
これに対して、幕府は12万人という大軍を送り込んだのですした。
しかしながら、戦いは4ヶ月にも及び、相当手こずったものと思われます。
鎖国の決定
この「島原の乱」は、幕府にとっても多大な出費と労力となり疲弊したのでした。
そのため、二度とこういう反乱は起こらないように、キリスト教を信仰する国とは一切の交流を持たないという、「鎖国」を決定したのでした。
この鎖国期間、キリスト教を信仰しない(布教活動を行わない)
- オランダ
- 中国
のみとの貿易が行われるようになったのでした。
長崎に集まってきた、オランダ船
ヨーロッパで、唯一「貿易」が認められたオランダ
オランダは、キリスト教の布教をしないことを約束してくれたため、特別に許してもえたのでした。
そして、オランダは当時の日本に対して、当時の最新情報を提供してくれたのでした。
オランダが日本にもたらした「医学」
オランダは、日本に対して「医学」をもたらしました。
しかしながら、最新の医学はみんなオランダ語で書かれていたため、当時の日本人にとってはわけのわからないものでした。
そのため前野良沢や杉田玄白などの学者が、オランダ語で書かれた医学書を、必死の思いで翻訳したのでした。
これが「解体新書」と呼ばれる本です。
また、岩手県・一ノ関からも、大槻玄沢と呼ばれる人物が、はるか長崎にまで医学を学びにきています。
やはり、最新の医学を学ぶためには、オランダ人から直接医学を学べる長崎に行く方が一番よかったのです。
詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

オランダ人をはじめとする外国人が住んでいた、出島
外国人が住める場所は「出島」のみに決定
江戸時代の長崎では、「出島(でじま)」という場所に外国人をまとめて住んでもらい、日本人ですらも自由に出入りできませんでした。
日本人は幼少期から日本人同士で暮らしてきているケースが多く、外国人とあまり触れる機会がないことも多いでしょう。
そのため、日本人はどうしても外国人に対してアレルギーがあるものですが、やはり当時としても「外国人は外国人でまとまって住んでもらう」とした方が、幕府としては様々な面で統括しやすかったのでしょう。
江戸時代後期には「異国船打払令」といって、外国船を見たら問答無用で打ち払え、みたいなこともやってのけるぐらいですからね…。
当時、江戸幕府がどれだけ外国を警戒していたかがわかります。
元々は本当に「島」だった出島
なお「出島」は、元々は本当に島でした。
しかし、現代では埋め立てなどを繰り返されてきたため、今は陸続きになっています。そのため、「島」といった感じではなくなってしまいました。
長崎の「オランダ坂」

オランダ坂(長崎県長崎市)
長崎の人々は、当時長崎に住んでいたオランダ人たちのことを、親しみをこめて「オランダさん」と呼んでいたのでした。
そのオランダさんたちが通っていた坂道のことを、「オランダ坂」と呼んでいたのでした。
明治時代、「開港5港」の1つになった長崎
そして1853年にペリー提督率いる黒船の来航によって、約200年続いた鎖国は終了し、長崎は開港5港の1つとなりました、
開港5港(ごこう)とは、以下の5つの港です。
- 北海道函館市
- 新潟県新潟市
- 神奈川県横浜市
- 兵庫県神戸市
- 長崎県長崎市
上記、長崎以外の都市については、以下の各記事でも解説していますので、ご覧ください。




開港(開国)によって、新しく拓かれた日本の近代文明

かつてオランダの船も集まってきた、長崎の港(長崎県長崎市)
開国・開港によって日本にも鉄道の技術も伝わり、明治時代以降の日本は大きく発展しました。
また、長崎は開港5港の1つとして、また当時は最も外国に近い港だったこともあり、長崎の港を通じて多くの外国の文化や物資が日本に入ってきたことでしょう。
そのオランダ船の集まる港が、ここ長崎であるということです。
そのことを、鉄道唱歌の歌詞では
のような意味で歌っているわけです。
鉄道唱歌 山陽・九州編の旅も、いよいよ大詰めになります!
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