鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
笠置山の歴史などを、やさしく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
笠置の山は元弘の
宮居の跡と聞くからに
ふるは涙か村雨か
さらに読みやすく!
笠置の山は 元弘の
宮居の跡と 聞くからに
ふるは涙か 村雨か
さあ、歌ってみよう!
♪かさぎのやまはー げんこうのー
♪みやいのあーとと きくからにー
♪ふるはなみだかー むらさめかー
木津駅→加茂駅
(関西本線)
加茂駅→笠置駅→(木津川橋りょう)→大河原駅→月ヶ瀬口→伊賀上野駅→佐那具駅→柘植駅→(鈴鹿峠のトンネル)→関駅→亀山駅→四日市駅→桑名駅→長島駅(→至・名古屋駅)
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
笠置山のふもと・笠置駅へ到着
加茂駅(京都府木津川市加茂町)を出発し、木津川を横に、どんどん進んでいきます。
すると、やがて
- 笠置駅(京都府相楽郡笠置町)
に到着します。

笠置駅(京都府相楽郡笠置町)
鎌倉末期・元弘の年号のときに、後醍醐天皇が戦った笠置山
笠置駅のやや東には、鎌倉時代末期の元弘の年号のときに、後醍醐天皇が戦って敗れた、
- 笠置山
があります。
元弘の変とは?
元弘の変とは、後醍醐天皇がかつて楠木正成や新田義貞と共に戦い、1333年に鎌倉幕府を滅亡させた一連の戦いのことです。
笠置山での敗北 隠岐へ流される
元弘の変において、笠置山の戦いで破れた後醍醐天皇は、残念ながら島根県の隠岐島に流されてしまいました。
その後、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、名和長年に迎えられ、また彼らの活躍によってまた巻き返してくることになるのです。
名和長年と、後醍醐天皇の隠岐脱出については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

隠岐の脱出 鎌倉幕府を滅ぼす
やがて後醍醐天皇の軍は、京都の六波羅探題を攻撃して滅ぼしたのでした。
また、東京都府中市の「分倍河原の戦い」などにおいて、鎌倉幕府の北条氏を追い詰めてゆきました。
しまいには、1333年に鎌倉幕府の北条氏を滅ぼしました。
これによって、鎌倉幕府が滅亡することになります。
なお、「六波羅探題」とは、鎌倉幕府が京都の公家などが反乱や謀反を企てないように監視する目的で設置した機関です。
「分倍河原」とは、東京都府中市にある、多摩川沿いの地名です。南武線・分倍河原駅(東京都府中市)が最寄駅になります。
また、隠岐はその約100年前、1221年の承久の乱において後鳥羽上皇が流されてきた地でもあります。
鎌倉幕府の滅亡
鎌倉幕府はこの「元弘の変」で北条氏が滅亡したことにより、150年続いた鎌倉幕府は滅亡することになったのでした。
歌詞の内容について、補足説明
宮居とは、ここでは神様、延いては後醍醐天皇が宿る(滞在していた場所という意味です。
村雨とは、ここでは降っては止んだりする雨のことを言います。
まるで敗れた後醍醐天皇の無念を、「涙」「村雨」というように表現しているのかもしれません。
笠置町の北にある、大きな茶畑
お茶の名産地・和束町
笠置町の上には和束町と言って、大きな茶畑があります。
この辺りの京都府における和束町付近の茶畑は、静岡県のお茶および埼玉県・狭山のお茶と並んで、有名な場所であります。
お茶は、茶畑が太陽が斜めに当たりやすい斜面にある場合はよく育つのです。
次は木津川橋梁を渡り、大河原駅へ
笠置駅を過ぎると、次は木津川橋梁を渡って、大河原駅に止まります!
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