鉄道唱歌 関西編 第14番 伊賀焼の産地を過ぎゆく 佐那具駅を過ぎて、草津線と分かれ道・柘植駅へ

まずは原文から!

伊賀燒(いがやき)いづる佐那具(さなぐ)の地
芭蕉(ばしょう)をうまれし柘植(つげ)の驛(えき)
線路左にわかるれば
迷はぬ道は草津(くさつ)まで

さらに読みやすく!

伊賀焼(いがやき)いずる佐那具(さなぐ)の地
芭蕉(ばしょう)をうまれし柘植(つげ)の駅
線路左にわかるれば
迷わぬ道は草津(くさつ)まで

さあ、歌ってみよう!

♪いがやきいーずる さなぐのちー
♪ばしょううまれし つげのえきー
♪せーんろひだりに わかるればー
♪まよわぬみちはー くさつまでー

(関西本線/大和路線)
木津駅→加茂駅

(関西本線)
加茂駅→笠置駅→(木津川橋りょう)→大河原駅→月ヶ瀬口→伊賀上野駅→佐那具駅→柘植駅→(鈴鹿峠のトンネル)→関駅→亀山駅→四日市駅→桑名駅→長島駅(→至・名古屋駅)

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。

伊賀上野駅を出て、柘植方面へ

伊賀上野駅(いがうえのえき、三重県伊賀市)を出発すると、佐那具駅(さなぐえき、三重県伊賀市)を過ぎて新堂駅(しんどうえき)を過ぎ、やがて草津線(くさつせん)との分岐点にある柘植駅(つげえき、三重県伊賀市柘植町)に至ります。

佐那具駅(三重県伊賀市)
柘植駅(三重県伊賀市柘植町)

伊賀地方の名物「伊賀焼」

伊賀焼(いがやき)とは、ここ伊賀国(いがのくに)・三重県伊賀(いが)地方周辺において造られる焼き物のことです。焼き物とは、昔の(高貴な)食器です。材料となる陶石(とうせき)を、高温に熱して、固めてから造ります。

焼き物が盛んになるには、古くから多くの原材料である陶石(とうせき)が周辺地域からよく採れる土地である必要性があります。
なぜかと言うと、昔は現代ほど(高速トラックや貨物列車、航空機などの)輸送能力がなかったので、原材料を遠隔地から仕入れることは至難の業でした。逆にこうした原材料を近くで取れる地域であることは、伊賀焼などをはじめとする焼き物・陶磁器などに関しては大きなメリットであったということができます。

松尾芭蕉の出身地・伊賀市 そして「忍者の里」

前々回から解説している、松尾芭蕉の出身地である三重県伊賀市(いがし)は、「忍者の里」という風にも知られています。
また滋賀県の草津線から分かれたとこにある滋賀県甲賀市(こうかし)も、「忍者の里」という風にも言われています。

甲賀忍法帖(こうかにんぽうちょう)ってよく言われますよね。アニメ(バジリスク~甲賀忍法帖、2003年)だったり、和風ヘビィメタルバンドの陰陽座(おんみょうざ)の楽曲(2005年)などです。
その甲賀(こうか)というのが、この「忍者の里」滋賀県甲賀市が由来になります。
伊賀地域の忍術を「伊賀流(いがりゅう)」、甲賀地域の忍術を「甲賀流(こうかりゅう)」といいます。

また近年よくネットや巷(ちまた)で言われているように、「松尾芭蕉は忍者でスパイだった」という都市伝説があります。
松尾芭蕉が忍者の里・伊賀の出身であることから、「おくのほそ道」の旅をしたのは、松尾芭蕉が幕府が(東北地方に)派遣したスパイだったからだ、といった都市伝説は、ネット等を中心によく言われています。
なぜこういう噂が立つのかというと、なぜ「おくのほそ道」の旅であそこまでの旅費が捻出できたのかが謎だからです。「詩人なのだから、詩を売ったお金で旅行していたんじゃないの?」とか、「幕府が全面サポートしていた」とか、様々なことが議論されています。
また、松尾芭蕉が東北の旅に出た理由は、幕府に命じられて(幕府のサポートを受けながら)伊達藩(仙台藩)の動向を探るためだったとか、色々な理由が言われています。江戸幕府は仙台の伊達氏を警戒して、利根川(とねがわ)の流れを「東京湾→銚子(ちょうし)」に変えるための大工事を行うくらいですから、江戸幕府の仙台への警戒心はわかると同時に、このような噂が立つのもわからなくはないです。

草津線との分かれ道・柘植駅

柘植駅(三重県伊賀市柘植町)

柘植駅(つげえき、三重県伊賀市柘植町)は草津線(くさつせん)との分岐点でもあり、またこの草津線はどちらかと言うと旧東海道の宿場町に(おおよそ)沿った路線という風にもいえます。
滋賀県甲賀市(こうかし)の鉄道沿線外れには水口宿(みなぐちしゅく)と呼ばれる東海道の宿場町もあります。

草津線は先述の通り、どちらかというと江戸時代までの旧東海道のルートに沿った線路という印象があります。
また、現代の関ヶ原(せきがはら)・米原(まいばら)経由の東海道本線は、東海道というよりもむしろ中山道(なかせんどう)に沿ったルートになります。
それは明治時代に鉄道を通すとき、かつての東海道のルートだった鈴鹿峠(すずかとうげ)を東海道線が貫くことができなかったためです。

しかし鉄道(東海道本線)がかつての東海道のルートから外れてしまうと、沿線の宿場町が衰退してしまうリスクがあります。
こうした町のピンチを救うために、ある程度トンネルを掘る技術などが進んでくると、現代の関西本線のように旧東海道のルートに沿った(鈴鹿峠を越える)線路が出来るようになります。
実際、関西本線は元々明治時代に、旧東海道から外れた町を救うために(あわよくば、名古屋~大阪間を移動する東海道本線の顧客のシェアを奪うために)それを目論んで造られたともいわれます。

草津線を進み、草津駅へ 東海道・中山道の合流点・草津宿

こうして草津線を北西へ進んでいくと、やがて終着の草津駅(くさつえき、滋賀県草津市)に着きます。

草津駅(滋賀県草津市)

滋賀県草津市(くさつし)は、かつて東海道・中山道両方の宿場町・草津宿(くさつしゅく)のあった場所でした。

草津駅前・「草津宿」の表記(滋賀県草津市)

東海道(とうかいどう)、中山道(なかせんどう)とは、江戸時代に江戸~京都の間を徒歩または馬で約20日間かけて移動するために、江戸幕府が用意した(当時としては)綺麗な道路です。
しかし、当時はどうしても砂利(じゃり)道で雨の日は泥濘(ぬかる)んだり、川の流れが激しかったり、鈴鹿峠(すずかとうげ)などの険しい峠道を通ったりと、現代のような綺麗な高速道路というわけにはいきませんでした。逆に言えば、それだけ大変な思いをしていた当時に比べ、現代の交通事情は本当によくなったのだと思えますよね。

草津宿にある、東海道・中山道の合流点(滋賀県草津市)

草津(くさつ)は、東海道と中山道(なかせんどう)の合流地点として発展してきました。
つまり、江戸(東京)の日本橋(にほんばし)がスタート地点であり、南へ進めば東海道、北へ進めば中山道といったイメージです。
つまり、草津では江戸の日本橋以来、久々に東海道と中山道が合流する地点なのです。

草津宿の周りには、「天井川(てんじょうがわ)」という、かつて屋根よりも高い位置に川が流れていました。
この天井川は、かつての草津川でした。
現代ではルートを変えています。

なぜ天井川が出来るのかというと、砂利や土砂が堆積(たいせき)しやすい川は、どんどん高さが上にあがってゆくからです。
しかし川がそんなに高くなると、大雨が降って洪水になったとき、大量の水が周辺の宅地に溢れかってきます。
それを防ぐために、堤防をどんどん高くしてゆきます。そこからさらに川には土砂や砂利が積み重なって高くなってゆくため、さらに堤防を高くするということが必要となってきます。
この繰り返しで、川の高さが天井よりも上になり、天井川が出来てしまいます
天井川の下にはトンネルができるため、川の下を車や鉄道などが走ってゆくことになるのです。

現代の草津川はルートが改められ、天井川は廃止されました(水が通っていない)。
現代は公園になっています。

柘植駅から関西本線を東へ 次は鈴鹿の山々を越える

次は、柘植駅からさらに東へ向かい、鈴鹿峠(すずかとうげ)のトンネルを越えます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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