まずは原文から!
芭蕉(ばしょう)をうまれし柘植(つげ)の驛(えき)
線路左にわかるれば
迷はぬ道は草津(くさつ)まで
さらに読みやすく!
芭蕉(ばしょう)をうまれし柘植(つげ)の駅
線路左にわかるれば
迷わぬ道は草津(くさつ)まで
さあ、歌ってみよう!
♪ばしょううまれし つげのえきー
♪せーんろひだりに わかるればー
♪まよわぬみちはー くさつまでー
木津駅→加茂駅
(関西本線)
加茂駅→笠置駅→(木津川橋りょう)→大河原駅→月ヶ瀬口→伊賀上野駅→佐那具駅→柘植駅→(鈴鹿峠のトンネル)→関駅→亀山駅→四日市駅→桑名駅→長島駅(→至・名古屋駅)
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
伊賀上野駅を出て、柘植方面へ
伊賀上野駅(いがうえのえき、三重県伊賀市)を出発すると、
- 佐那具駅(さなぐえき、三重県伊賀市)
- 新堂駅(しんどうえき、三重県伊賀市)
を過ぎ、やがて草津線(くさつせん)との分岐点にある柘植駅(つげえき、三重県伊賀市柘植町)に至ります。


伊賀地方の名物「伊賀焼」
伊賀焼(いがやき)とは、ここ伊賀国(いがのくに)・三重県伊賀(いが)地方周辺において造られる焼き物のことです。
「焼き物」とは?
焼き物とは、昔の(高貴な)食器です。
材料となる陶石(とうせき)を、高温に熱して、固めてから造ります。
他の地域の焼き物で有名なところでは、鉄道唱歌に関係あるところだと、
- 有田焼(佐賀県)
- 九谷焼(石川県)
- 瀬戸焼(愛知県)
- 備前焼(岡山県)
などがあります。
詳しくは、以下の各記事でも解説していますので、ご覧ください。
昔は、近くで材料が手に入ることは大きな強みだった
焼き物が盛んになるには、古くから多くの原材料である陶石(とうせき)が周辺地域からよく採れる土地である必要性があります。
なぜかと言うと、昔は現代ほど(高速トラックや貨物列車、航空機などの)輸送能力がなかったため、原材料を遠隔地から仕入れることは至難の業でした。
逆にこうした原材料を近くで取れる地域であることは、伊賀焼などをはじめとする焼き物・陶磁器などに関しては、大きなメリットであったということができます。
松尾芭蕉の出身地・伊賀市 そして「忍者の里」
前々回から解説している、松尾芭蕉の出身地である三重県伊賀市(いがし)は、「忍者の里」という風にも知られています。
また滋賀県の草津線から分かれたとこにある滋賀県甲賀市(こうかし)も、「忍者の里」という風にも言われています。
「甲賀流」と「伊賀流」
忍者(にんじゃ、ニンジャ)とは、敵の城や本拠地などに忍び込んで、
- 敵の情報を搾取する
- 破壊活動をしたりする
- ターゲットとなる敵を暗○したりする
という、いわば「スパイ」のことです。
まぁ、相手にとっては厄介な、かなりの「曲者(くせもの)」ですよね。
甲賀忍法帖(こうかにんぽうちょう)ってよく言われますよね。
- アニメ(バジリスク~甲賀忍法帖、2003年)
- 和風ヘビィメタルバンド・陰陽座(おんみょうざ)の楽曲(2005年)
などです。
その甲賀(こうか)というのが、この「忍者の里」滋賀県甲賀市が由来になります。
- 伊賀地域の忍術を「伊賀流(いがりゅう)」
- 甲賀地域の忍術を「甲賀流(こうかりゅう)」
といいます。
「松尾芭蕉は忍者でスパイだった?」説
また近年よくネットや巷(ちまた)で言われているように、「松尾芭蕉は忍者でスパイだった」という都市伝説があります。
松尾芭蕉が忍者の里・伊賀の出身であることから、「おくのほそ道」の旅をしたのは、松尾芭蕉が幕府が(東北地方に)派遣したスパイだったからだ、といった都市伝説は、ネット等を中心によく言われています。
なぜ「スパイ説」が広まってしまったのか?
なぜこういう噂が立つのかというと、なぜ「おくのほそ道」の旅で、あそこまでの旅費が捻出できたのか?が、まったくもって謎だからです。
- 「詩人なのだから、詩を売ったお金で旅行していたんじゃないの?」
- 「幕府が全面サポートしていたからだ」
など、様々なことが議論されています。
また、松尾芭蕉が東北の旅に出た理由は、
とか、色々な理由が言われています。
伊達氏の動きを警戒していた幕府
江戸幕府は、外様大名だった伊達藩を警戒していたことがわかります。
なぜ警戒していたのかはわかりませんが、豊臣秀吉の時代に、命令に違反して他の大名の領地を勝手に攻めてしまい、罰として領地を没収されるという奥州仕置(おうしゅうしおき)をされています。
また、伊達氏は「関ヶ原の戦い」では徳川家に協力した「東軍」についていましたが、家康との対立も多かったため、家康からの信頼を得られず、「譜代大名」ではなく「外様大名」として警戒されたとのことです。
草津線との分かれ道・柘植駅

柘植駅(つげえき、三重県伊賀市柘植町)は草津線(くさつせん)との分岐点でもあります。
旧・東海道のルートに沿った草津線
また、この草津線はどちらかと言うと旧・東海道の宿場町に(おおよそ)沿った路線という風にもいえます。
滋賀県甲賀市(こうかし)の鉄道沿線外れには水口宿(みなぐちしゅく)と呼ばれる東海道の宿場町もあります。
草津線は先述の通り、どちらかというと江戸時代までの旧・東海道のルートに沿った線路という印象があります。
また、現代の関ヶ原(せきがはら)・米原(まいばら)経由の東海道本線は、東海道というよりもむしろ中山道(なかせんどう)に沿ったルートになります。
なぜ現在の東海道線は、中山道のルートになっているのか?
それは明治時代に鉄道を通すとき、かつての東海道のルートだった鈴鹿峠(すずかとうげ)を東海道線が貫くことができなかったためです。
しかし鉄道(東海道本線)がかつての東海道のルートから外れてしまうと、沿線の宿場町が衰退してしまうリスクがあります。
こうした町のピンチを救うために、ある程度トンネルを掘る技術などが進んでくると、現代の関西本線のように旧・東海道のルートに沿った(鈴鹿峠を越える)線路が出来るようになります。
実際、関西本線は元々明治時代に、旧東海道から外れた町を救うために(あわよくば、名古屋~大阪間を移動する東海道本線の顧客のシェアを奪うために)それを目論んで造られたともいわれます。
草津線を進み、草津駅へ 東海道・中山道の合流点・草津宿
こうして草津線を北西へ進んでいくと、やがて終着の草津駅(くさつえき、滋賀県草津市)に着きます。

滋賀県草津市(くさつし)は、かつて東海道・中山道両方の宿場町・草津宿(くさつしゅく)のあった場所でした。

「東海道」「中山道」とは?
東海道(とうかいどう)、中山道(なかせんどう)とは、江戸時代に江戸~京都の間を徒歩または馬で約20日間かけて移動するために、江戸幕府が用意した(当時としては)綺麗な道路です。
しかし、当時はどうしても
- 砂利(じゃり)道で、雨の日は泥濘(ぬかる)んだり、
- 川の流れが激しかったり、
- 鈴鹿峠(すずかとうげ)などの険しい峠道を通ったり
と、現代のような綺麗な高速道路というわけにはいきませんでした。
逆に言えば、それだけ大変な思いをしていた当時に比べ、現代の交通事情は本当によくなったのだと思えますよね。
東海道・中山道の合流点・草津宿

草津(くさつ)は、東海道と中山道(なかせんどう)の合流地点として発展してきました。
つまり、江戸(東京)の日本橋(にほんばし)がスタート地点であり、
- 南へ進めば、東海道
- 北へ進めば、中山道
といったイメージです。
つまり、草津では江戸の日本橋以来、久々に東海道と中山道が合流する地点なのです。
草津宿については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
草津宿の「天井川」
草津宿の周りには、「天井川(てんじょうがわ)」という、かつて屋根よりも高い位置に川が流れていました。

天井川(滋賀県草津市)
この天井川は、かつての草津川でした。
現代ではルートを変えています。
なぜ「天井川」が出来るのか?

天井川からの景色と東海道線(滋賀県草津市)
なぜ天井川が出来るのか?
- 砂利や土砂が堆積(たいせき)しやすい川は、どんどん高さが上にあがってゆく。
- しかし、川がそんなに高くなると、大雨が降って洪水になったとき、大量の水が周辺の宅地に溢れかかるリスクがある。
- それを防ぐために、堤防をどんどん高くしてゆく。
- さらに川には土砂や砂利が積み重なって、高くなってゆく。
- これにより、再び洪水のリスクが出てくる。
- さらに堤防を高くしていく。以降、これをループしていく。
- この繰り返しで、川の高さがやがて天井よりも上になる。
- 天井川が出来てしまう。
天井川の下にはトンネルができるため、川の下を車や鉄道などが走ってゆくことになるのです。
現代の草津川はルートが改められ、天井川は廃止されました(水が通っていない)。
現代は公園になっています。
柘植駅から関西本線を東へ 次は鈴鹿の山々を越える
次は、柘植駅からさらに東へ向かい、鈴鹿峠(すずかとうげ)のトンネルを越えます!
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