鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の歌詞(旧・和歌山北口駅、深日駅跡など)について、鉄道に詳しくない方にもわかりやすく解説しています!
↓まずは原文から!
南海線の道すがら
窓に親しむ朝風の
深日はこゝよ夢のまに
さらに読みやすく!
南海線の 道すがら
窓に親しむ 朝風の
深日はここよ 夢のまに
さあ、歌ってみよう!
♪なんかいせんのー みちすがらー
♪まーどにしたしむ あさかぜのー
♪ふけひはここよー ゆめのまにー
和歌山市駅→紀ノ川駅(旧・和歌山北口駅)→(旧・深日駅跡)→尾崎駅→樽井駅→泉佐野駅→貝塚駅→岸和田駅→泉大津駅→羽衣駅→浜寺公園駅→湊駅→堺駅→(大和川)→住吉大社駅→天下茶屋駅→なんば駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
和歌山からは、南海本線で大阪へ
和歌山市の観光も終わり、ここからはいよいよ、南海本線に乗って北上し、大阪の難波を目指していく流れになります。
鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の旅は、難波が最終的なゴール地点になります。
ゴールまで、もう少しです。

南海本線・和歌山市駅を出発
現代の我々であれば、南海本線・和歌山市駅(和歌山県和歌山市)から出発します。
特急「サザン」がとても便利

南海線・「特急サザン」。私は「サザン」の字体・フォントが個人的に好きです。
また、大阪・なんば方面へ素早く向かうには、「特急サザン」が便利です。
特急料金が別途必要なのでは?と思うところですが、実は(豪華な指定席を選択しない限りは)、自由席車両はJR線の快速列車と同じ感覚で(特急料金無しで)利用可能です。
ただし、先述の豪華なゆったりしたシートの車両(座席指定車両)に座りたい時は、座席指定券が別途必要なので気をつけましょう。
特急サザンは8両編成であり、なんば方面へ向かって
- 前4両は自由席車両
- 後4両は座席指定車両
になります。
なので、自由席料金でいきたい場合は、前の方の車両へ乗るといいでしょう。
なお、
- 和歌山市→なんば
と通しで特急サザンに乗ると970円であり、片道1,000円かからないという、リーズナブルな料金設定です。
歌詞「北口」とは?
歌詞冒頭の「北口」とは、現代の紀ノ川駅(和歌山県和歌山市)のことです。
現代の「紀ノ川駅」は、かつて「和歌山北口駅」だった
紀ノ川駅は、南海本線・和歌山市駅を出てから一つ北にある、紀ノ川を渡ったところにある駅です。
紀ノ川駅は、1890年代の開業当初は
- 「和歌山北口駅」
と呼ばれていました。
和歌山市への北の入口、ということで「和歌山北口駅」という名前になったのでしょう。

紀ノ川を渡る(和歌山県和歌山市)
明治時代当時は、紀ノ川に橋をかけられなかった!
鉄道唱歌が出来た当時(明治時代の1900年)は、恐らくは「和歌山北口駅」こそが、大阪方面からやってきた人々にとっての、和歌山市への玄関口であったものと思われます。
恐らく当時は、紀ノ川に対して橋をかけることができず、橋が存在しなかったのでした。
三年後に、無事に橋がかかり、現在の和歌山市街地まで乗り入れへ
そのため、和歌山北口駅で降りたら「渡し舟」に乗って、和歌山市街地に入っていったものと思われます。
しかしその3年後の1903年に、待望の橋が紀ノ川に架けられ(紀ノ川橋梁)たのでした。
これにより、和歌山市街地に線路が直接つながり、便利になりました。
現代の和歌山市駅が出来たのも、橋ができた1903年のことです。
同じく「橋をかけられなかった」例 新潟県・直江津駅
こうした例は全国他の地域でも存在します。
例えば新潟県上越市の春日新田駅跡にも同じことがいえます。
春日新田駅は、現代の直江津駅のやや東、「関川」という川の向こう岸にあった駅でした。
当初は「関川」に、橋をかけられなかった!
明治時代に新潟・長岡方面から線路を(西の)直江津まで延ばしてきたときに、直江津駅のちょうど手前に「関川」という大きな川があり、当時は橋をかけられなかったのでした。
そして、川の手前に春日新田駅がありました。
後に橋がかけられ、直江津市街地まで乗り入れへ
しかし、後に橋がかけられて現代の直江津駅まで直接つながって便利になったのでした。
それに伴い、春日新田駅は廃止となりました。
直江津・春日新田駅跡については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

孝子峠を越えて、大阪府へ
紀ノ川駅を過ぎて北上すると、和歌山大学を右にして、
- 和歌山大学駅(和歌山県和歌山市)
を過ぎます。
間もなく、大阪府との県境に近づき、
- 孝子峠
という和歌山県と大阪府の県境をなす、標高100mの峠を過ぎます。
そして
- 孝子駅(大阪府泉南郡岬町孝子)
を過ぎると、今回の旅では久しぶりに、再び大阪府に入ります。
久々の大阪府
大阪府に戻ってくるのは、今回の鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の旅では、
- 四條畷市
- 交野市
を過ぎて京都府へと抜けてから、それ以来となります。
歌詞でいうと、第6番以来です。
本当に、久しぶりの大阪府ということになります。
深日駅跡を過ぎる
大阪府に入って間もなく、深日というエリアに入ります。
ここで旧・深日駅跡を過ぎます。
当時は「深日駅」が存在した
歌詞にある深日とは、かつて大阪府との県境あたりに存在した、深日駅のことです。
歌詞では「ふけひ」となっていますが、実際の呼び方は「ふけ」であったようです。
ただし、鉄道唱歌の当時は本当に「ふけひ」と読んでいたこともあったようです。
深日駅は現代では存在しない駅で廃止となっており、現代でも駅跡(ホーム跡)が残っています。
なぜ深日駅は、廃止されたのか?
なぜ深日駅は廃止されたのか。
それは
- みさき公園駅(大阪府泉南郡岬町淡輪)
から南海多奈川線が1944年に開通し、深日港行きの列車が出たからです。
この地域の名前「淡輪」は「たんのわ」と読みます。
なぜ「多奈川線」が出来たのか?
なぜ1944年に多奈川線が出来たのかというと、ちょうどその当時に川崎重工の沿岸工業地帯が出来たからです。
当時は、太平洋戦争(大東亜戦争)の真っ只中でした。
そのため、とにかく軍艦や空母(戦闘機が離陸するための滑走路を持つ、巨大な船)を、大量に建造する必要があったからでした。
それで、大阪の南端にあたるこの沿岸地域に、造船の工場ができ、そのための物資や人を運ぶために多奈川線ができたというわけです。
戦後、深日港は淡路島への当時の最短ルートだった
戦後まもなくして、深日港は淡路島方面へ向かう、最速ルートとして発展してきました。
大阪難波おおさかなんばからも、深日港行きの速達列車が出ていたようです。
つまり、大阪の方々が淡路島へ行きたいとなった場合、
- まず、南海線の速達列車で、深日港までゆく
- そこから、淡路島へと向かう
というルートが王道だったようです。
また、和歌山市の沖に浮かぶ友ヶ島への最短ルートも、深日港からの海路だったようです。
しかし、大阪港・神戸港の整備により、深日港は衰退
しかし時代が変わり、1970年代に”大阪港”や”神戸港”などの主要港湾が成長・発達してきます。
そして、そこから淡路島へ向かう船の便が大増発することになります。
大阪港・神戸港発の船どうしで、競合・増発・低価格化を繰り返す
大阪港・神戸港はさらに、お互い(船同士)が競合して価格競争などで値下げを繰り返すなどして、交通が充実してくるようになったのでした。
すると、(大阪や神戸からは遠い)深日港を利用する人は減ってしまい、深日港からの船は衰退してくるようになります。
大阪港や神戸港であれば、大都市からのアクセスはとても良いです。
しかし、都市部から南へ1時間ほど離れた場所にある深日港は、必然的にピンチに陥ってしまったというわけです。
それに伴い、南海線の深日港への速達列車も、90年代には廃止となってしまったのでした。
明石海峡大橋の開通により、大阪港・神戸港からの船も衰退
しかも現代では「明石海峡大橋」によって大阪・神戸と淡路島が”道路”で繋がることになりました。
そのため、人々は高速バスやマイカー等で、さらに安価で早く行くことが可能となりました。
しかしそうなると、先ほど述べた大阪港・神戸港の船ですら打撃となり、ピンチに追い込まれれてしまったのでした。
淡路島の人々が関西都市圏へ流出する「ストロー現象」も
さらに、淡路島の若者が明石海峡大橋を通じて、みな神戸や大阪方面へと出ていってしまう、などの「ストロー現象」も考えられます。
我々旅客にとっては、淡路島へのアクセスが良くなったことで、非常に便利になりました。
しかし、それまでの既存の交通機関やサービスは、衰退を余儀なくされざるを得ないというわけです。
深日港を再び活性化させるための取り組みも
その一方で、深日港を再び活性化させる目的で、地元を中心に様々な取り組みがなされているようです。
歌詞「窓に親しむ朝風の~」
話がややズレて恐縮ですが、鉄道唱歌の話題に戻ります。
鉄道唱歌のこの歌詞は、
とありますから、恐らく朝に和歌山を出発したのでしょう。
作者の大和田建樹さんは、もしかしたら前日の夜は和歌山で宿泊したのかもしれません。
そして深日駅を過ぎるあたりで、朝の太陽の光とともに心地よい風が窓から入ってきたのでしょう。
なんとも感慨深い歌詞です。
深日駅跡を過ぎ、尾崎駅へ
この深日駅跡を過ぎると、尾崎駅に向かってゆき、また大阪府阪南市に入ります。
やがて、本格的に大阪府に入って行きます。
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