鉄道唱歌 関西編 奈良めぐり3 興福寺と五重塔 その影を映す、猿沢池

まずは原文から!

麓(ふもと)に立てる興福寺(こうふくじ)
五重(ごじゅう)の塔(とう)のかげうつす
池は猿澤(さるさわ)きぬかけの
柳(やなぎ)は風になびくなり

さらに読みやすく!

麓(ふもと)に立てる興福寺(こうふくじ)
五重(ごじゅう)の塔(とう)のかげうつす
池は猿澤(さるさわ)きぬかけの
柳(やなぎ)は風になびくなり

さあ、歌ってみよう!

♪ふもとにたーてる こうふくじー
♪ごじゅうのとうの かげうつすー
♪いーけはさるさわ きぬかけのー
♪やなぎはかぜにー ひびくなりー

(奈良観光)
奈良駅→近鉄奈良駅→若草山→奈良公園→春日大社→興福寺→猿沢池→東大寺→法華寺→西大寺→秋篠町→法隆寺→竜田山→佐保山→奈良駅

※鉄道唱歌に関連する観光地・神社仏閣のみ表記

※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。

春日大社(かすがたいしゃ)や奈良公園の南西近くには、興福寺(こうふくじ)という、これまた中臣鎌足(なかとみの かまたり。後の名前を藤原鎌足)にゆかりあるお寺があります。

興福寺(こうふくじ)は、藤原氏の氏寺(うじでら)として栄えてきました。
氏寺(うじでら)とは、代々その先祖を祀(まつ)る、あるいは供養(くよう)を行うお寺のことです。
つまり、菩提寺(ぼだいじ)ということです。
菩提寺(ぼだいじ)とは、その一家・一族の葬式や供養などまとめて受け持つお寺のことをいいます。

ちなみに、近年では家族に対する価値観も変化しているため(出産や結婚が減っている、などの理由)、こうした菩提寺と契約する(つまり、一家代々のお葬式などの行事をある一つのお寺に任せる)家庭も減少傾向にあると思います。
というか、現代は平均年収の低下により、葬式を(もちろん結婚式も)できない家庭は増加傾向にあります。また、日本全国的に一家代々の葬式などを専門的・顧問的に受け持つことのできるお寺は減少傾向にあります。

余談ですが、同様にブライダル業界も苦境にあえいでいます(結婚式を予約してくれるカップルが減少している、など)。
日本人の平均年収が下がり、結婚式もお葬式も昔のようにできる若者や家族は減っているわけですから、ある意味致し方ないといえるでしょう。その代わり、身内だけによる小さな規模での結婚式お葬式を行うケースが増えていると思います。

余談が少し長くなり恐縮ですが、興福寺の話題に戻ります。

興福寺は、晩年の藤原鎌足(ふじわらの かまたり)が重い病気にかかり、彼の妻が彼の病気を慰めるために669年に造ったお寺となります。
元々は別の地にありましたが、710年に藤原鎌足の息子である藤原不比等(ふひと)によって、現在の地に移されました。

藤原鎌足(ふじわらの かまたり)は、元々は中臣鎌足(なかとみの かまたり)といい、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ。後の天智天皇)とともに奈良県明日香村(あすかむら)の飛鳥寺(あすかでら)において、蘇我入鹿(そがのいるか)を倒した人物です。

蘇我入鹿(そがのいるか)は、聖徳太子の死後にやりたい放題振る舞っており、これにより政治や世の中が混乱したため、このままではせっかく聖徳太子が理想とした中央集権国家確立のための努力も水の泡となることが懸念されました。
そのために、中大兄皇子中臣鎌足によって蘇我入鹿の討伐計画が企てられ、飛鳥寺で斬りつけられ滅ぼされました。
この事件のことを、「乙巳の変(いっしのへん)」といいます。

ちなみにこの討伐計画は、奈良県桜井市多武峰(とうのみね)にある談山神社(だんざんじんじゃ)で話し合われました。

そして、中大兄皇子と中臣鎌足によって開始された、新たに天皇の中心とした中央集権国家を造ろうという動きのことを、「大化の改新」といいます。

なお、蘇我入鹿が討たれた事件そのものを「大化の改新」とはいわないので、注意しましょう。
この事件そのものはあくまで「乙巳の変(いっしのへん)」といいます。

この「大化の改新」をもって、中大兄皇子は天智天皇(てんちてんのう)として、天皇の座に即位します。
そして、中臣鎌足は「藤原」の姓を与えられ、「藤原鎌足」となります。

この藤原鎌足こそが、後の政治の世界で絶大な影響力を持つことになる「藤原氏」の元祖となります。
また、藤原氏は現代日本でも苗字の多い「佐藤さん」「近藤さん」「斎藤さん」など「藤」がつく方々の元祖でもあります。

藤原氏は先述の通り、後の世において政界で絶大な影響力を持つことになります。

例えば、藤原鎌足の息子である藤原不比等(ふひと)は、701年の「大宝律令(たいほうりつりょう)」を完成させました。
これにより、日本を近現代のような、いわゆる天皇や政府や法からなる法治国家(ほうちこっか)のようにし、中央集権国家の基礎ができました。
それまでの日本は、豪族(ごうぞく)や大王(おおきみ)が自分たちの「クニ」を好き勝手に治めていたので、クニ同士の争いが絶えないカオス状態だったのです。
それを天皇を中心として中央(奈良)に権力を集約させた国家が、中央集権国家ということになります。

また、上記の藤原不比等は710年の平城京遷都(せんと)にも尽力しました。
奈良時代初の天皇である元明天皇(げんめいてんのう。女性天皇)は、藤原不比等の力を借りながら、規模的に限界だったそれまでの藤原京(ふじわらきょう)を廃止して、平城京を造り上げました。

しかし、その不比等の息子である「藤原四兄弟」は長屋王(ながやおう)と政権争いをしました(長屋王は敗北)。長屋王は藤原氏の勢いを削ごうとしたわけです。これは729年の「長屋王の変」といいます。

また、その藤原四兄弟の息子である藤原仲麻呂(なかまろ。後に恵美押勝(えみのおしかつ)と改名)は、当時の女性天皇(称徳天皇)から(半ばえこひいき的に)愛された道鏡(どうきょう)というお坊さんと政権争いしたり(この争いで恵美押勝は敗北。764年に起き、「恵美押勝の乱」といいます)するなど、奈良時代の中央政府は常に藤原氏とそれを削ごうとする勢力の争いであり、混乱状態にありました。

中央集権国家にしてバラバラだった日本国内を一つにまとめたはいいものの、今度は中央の中同士で争うのですから、人間の権利欲・支配欲というものは深く果てしないものですね。

また、この中央での醜い度重なる政権争いが、それを忌避(きひ)した聖武天皇が、恭仁京(くにきょう※)・難波宮(なにわのみや)・滋賀県甲賀市(こうかし)の紫香楽宮(しがらきのみや)などに、何度も都を移した理由でもあるのです。
またこの時、都を何度も造築・増築したことによって、建設に携わる人々の負担・疲弊も増してしまうなど、奈良時代はとにかく試行錯誤と困難の連続だったのです。

恭仁京(くにきょう)については、以下の記事でも解説しています。

鉄道唱歌 関西編 第9番 恭仁京の跡と加茂駅 木津川沿いを東へゆく

興福寺には五重の塔があるわけですが、その影を映すのが、五重塔の近くにある猿沢池(さるさわいけ)の水面となります。

猿沢池(奈良県奈良市)

猿沢池(さるさわいけ)は、興福寺のそばにある大きく綺麗な池のことです。
猿沢池の周りには(やなぎ)という美しい木々が植えられており、また池の水面には興福寺の五重塔が映るということになります。
この柳と水面に映る五重塔が美しいとして、「南都八景(なんとはっけい)」に選ばれています。

猿沢」の名前の由来は、仏教の興った場所であるインドにある池に由来すると言われています。

また、興福寺は、南都七大寺(なんとしちだいじ)の1つです。
南都七大寺は、前々回の「奈良めぐり1」でも解説した通り、奈良にある7つの代表的なお寺のことをいいます。

鉄道唱歌 関西編 奈良めぐり1 奈良を観光!平城京遷都より、1300年の歴史を誇る街

また、猿沢池には「きぬかけ柳」というものが存在したようです。
これが歌詞にある「きぬかけ(衣掛)の柳」です。
衣掛柳(きぬかけやなぎ)」とは、琵琶湖の北にある余呉湖(よごこ)でいえば「羽衣伝説」において、天女が落とした羽衣(はごろも)が掛かっていた柳のことをいいます。
これを見た漁師がわざと羽衣を盗み、天女が困っているスキを見計らって両思いになろうとするストーリーです。
ちなみに静岡県の「三保の松原(みほのまつばら)」では松の木に羽衣がかかっていたのですが、余呉湖の羽衣伝説では「柳」に羽衣が掛かっていたようです。

しかし、奈良の猿沢池と衣掛柳(きぬかけやななぎ)との関連性は、かなり調べたのですがよくわかりませんでした(^^;)
調べてまた加筆します!!

ただ、この「衣掛柳」が風に響く、という光景が歌詞では歌われているのだと思います。

次回は、東大寺(とうだいじ)の話題となります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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