鉄道唱歌 関西編 第32番 天理駅(旧・丹波市駅)に到着 天理教の宗教都市・天理市

まずは原文から!

都(みやこ)のあとを教へよと
いへど答へぬ賤(しず)の男(お)が
歸(かえ)るそなたの丹波市(たんばいち)
布留(ふる)の社(やしろ)に道ちかし

さらに読みやすく!

都(みやこ)のあとを教えよと
いえど答えぬ賤(しず)の男(お)が
帰るそなたの丹波市(たんばいち)
布留(ふる)の社(やしろ)に道ちかし

さあ、歌ってみよう!

♪みやこのあーとを おしえよとー
♪いーえどこたえぬ しずのおがー
♪かーえるそなたの たんばいちー
♪ふるのやしろにー みちしかしー

(桜井線/万葉まほろば線)
奈良駅→帯解駅→天理駅(旧・丹波市駅)→三輪駅→桜井駅→香久山駅→畝傍駅→高田駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。

帯解駅(おびとけえき)を出てから、桜井・高田方面へと南へ向かうと、やがて天理駅(てんりえき、奈良県天理市)に到着します。

天理駅(奈良県天理市)

歌詞三行目の丹波市(たんばいち)とは、現代の天理駅のことをいいます。
天理駅は、明治時代の開業当初は丹波市駅(たんばいちえき)といっていました。
また、天理駅の近辺にも、現代でも「丹波市」という地名が残っています。

なので、兵庫県の東部にある丹波市(たんばし)とは異なります。
兵庫県の東部は丹波国(たんばのくに)というのですが、丹波国の「丹波市(たんばし)」と天理市の「丹波市(たんばいち)」という地名との因果関係や縁(ゆかり)については不明です。すみません。
もしかしたら昔、丹波国の商人さんがここで市場を開いたことから、丹波市(たんばいち)という地名の由来になったのかなぁ~とか、勝手に想像しています(^^;)
というか、日本各地の地名の由来は、だいたいこういったものが比較的多いです。

天理駅(奈良県天理市)

奈良県天理市(てんりし)は、その名の通り天理教(てんりきょう)という宗教を中心とした都市になります。
天理市は全国に多数ある天理教の総本部(仏教でいうところの総本山)といった位置づけであり、街には宗教関係の人々や、あるいは信者の皆さんをもてなすための商業施設等が建ち並ぶため、ほぼ天理教関係者によって街の経済が成り立っているともいえます。
これが企業であれば、トヨタ自動車と愛知県豊田市(とよたし)との関係のような「企業城下町」のイメージに近いです。天理市は天理教の「宗教城下町」ともいえるでしょう。

天理教(てんりきょう)とは、江戸時代後期の1838年に誕生した、中山みきという女性を開祖とする宗教です。中山みきは、天理教では「おやさま」と呼ばれます。

中山みきは、元々は現在の天理市に住んでいた裕福な農家の主婦でした。しかもかなりいい家庭に嫁いだので、決して不自由な生活ではなかったといいます。
しかし、自分の家の財産に胡坐(あぐら)をかいて働かない「ぐうたら夫」のせいで、中山みきはかなり家事に苦労していたといいます。
そんな中でも仏教のおまじないだけは毎晩行うという、敬虔(けいけん)な仏教徒でした。

そんなあるとき、中山みきの長男がふと足を怪我して、「痛いよー痛いよー」となったときに、医者や祈祷師(きとうし)を呼ぼうにも既に夜中の10時だったため、呼ぶことができずに窮地に陥ってしまいました。当時は救急車もありませんでしたから、夜中にそんなハプニングが起こるとそれは大変だったでしょう。

どうにもこうにもならなくなり、たまたま仏教に熱心だった中山みきが自身で祈祷(きとう)をはじめたのです。

その祈祷の最中、なんと急に神様が彼女の体に乗り移りました。
すると「私はこの世界を創造した神だ。私は今この者(中山みき)の体を借りて喋っているのだ」と、まるで神様が彼女の体に乗り移ったかのように語りだしたのです。
これが単なる演技とも思えなかったことから、中山みきは人々から徐々に神様として信頼されていくようになります。

しかし時代は明治となり、明治時代になると「国家神道(こっかしんとう)」といって、欧米列強に対抗すべく日本の国力を上げるために、天皇と天皇の祖先である「神武天皇」「イザナギ」などがこの世を創造した神様だと人々は教わるようになります。
そのため、「天理教の神様こそがこの世を創造した神だ」と教える天理教の教えは国家神道を推進したい明治政府にとっては都合が悪く、中山みきをはじめとする信者は次々に逮捕されるなど、徹底的な弾圧を受けました。

なので、これ以上弾圧を受けると天理教そのものの存続が危ぶまれることから、日清戦争や日露戦争のときには多額の寄付金を政府に献上するなど、なんとか社会との軋轢を生まずに迷惑をかけないよう、天理教はうまく立ち回ってきたのです。

いわゆる「新興宗教」が悪いイメージを持たれやすいのに対して、天理教は特に大きな問題を起こさず、うまく社会と同調しながら立ち回ってきた宗教であるといえます。

天理市は天理教を中心とした都市であることから、「天理教に乗っ取られているのでは?」と思う人もいるかもしれません。しかし、天理教は天理市の市長候補には天理教からは擁立(ようりつ)しない方針を採っているようで、間違っても天理教だけを優遇するような政策は行われていないようです。
(そもそも、日本国憲法20条では「信教の自由」が保障されており、住民に一つの宗教だけを信じさせることはできません。)
また、天理教は宗教法人であり、宗教法人に対しては税金がかかりません。
天理市の大半は天理教関連施設であるため、もし本当に非課税のままだったら天理市の税収入は激減しています。そのため、天理教は税金を払う代わりに、天理市に多額の寄付をしているのです。

また、天理市には石上神宮(いそのかみじんぐう)という古くからの神社もあるわけですが、天理教とはお互い干渉するようなことは決して無く、上手くやっているという話も伺っています。

さらに、天理教は近鉄とも連携しているため、天理教関係者は後述する「おぢばがえり」などで天理市を訪れる際に「団参券」とよばれる切符を購入すると、運賃が安くなるといった措置もあります。

天理教の教えと究極目標は「陽気ぐらし」といって、いわば「人々がみな愉快に暮らすこと」です。
天理市へは、全国の天理教信者が訪れます。訪れるというよりも、天理教信者にとっては天理市がふるさとのようなものなので、「里帰り」というイメージに近いといえるでしょう。
これを天理教では「おぢばがえり」といいます。
「ちば」とは、天理市にあるこの世のすべてのものが生まれた、心のふるさとのような意味合いで使われます。

私(筆者)は無宗教・無宗派であり、もちろん天理教信者ではありませんが、中山みきから始まる「人生を愉快にする」という天理教の教え自体には同意できます。

また、先ほど述べた通り、天理市は全国からたくさんの信者が集まるため、このとき天理市内でたくさんの買い物需要(消費)が行われるので、これにより多大な経済効果がなされているわけです。
やはり、天理教と天理市の関係は、切っても切れない関係にあります。

また、天理教をベースにした高校として「天理高校」があります。天理高校は「PL学園」などとともに甲子園など高校野球のトップの常連として知られ、とにかく天理教関連の教育機関はスポーツにめっぽう強いことで有名です。
PL学園も、「パーフェクト・リバティ教団」という宗教施設の学校となります。

仏教・イスラム教・キリスト教などのメジャーな宗教あれば義務教育でも習いますが、天理教といった新興宗教となると(全国各地に教会に存在しているにも関わらず)なかなか正しくかつ体系的に習う・学ぶ機会がないので、こうした比較的新しい宗教(新興宗教)は正しく理解していないと、あらぬ誤解や偏見を招きかねません。
それは創価学会(そうかがっかい)、幸福の科学(こうふくのかがく)、エホバの証人(しょうにん)など他の新興宗教にも同じことがいえます。
確かにニュースやネット等では新興宗教がらみの事件などマイナスな要素ばかり報道されるので、「宗教=ヤバい」みたいなイメージを持っている人が多いのも無理はないのかもしれません。

なので、こうした新興宗教を正しく(中立的な立場から)学ぶには、「大人の教養TV」というYouTubeチャンネルをオススメします。
元・東大生の「ドントテルミー荒井(あらい)」さんという方が、超絶わかりやすく解説されています。
荒井さんの教え方は神レベルなので、「大人の教養TV」はガチでオススメのチャンネルです。
ぜひYouTubeで「大人の教養TV 天理教」などで検索してみてください。

歌詞には
都の跡を教えよと問えども、応えてくれないいやしい男が、帰っていた場所の丹波市
と歌われています。
しかしこれが一体何のエピソードのことなのか、散々調べましたが結局全くわかりませんでした。
歴史上の故事なのか、何かの物語の一部分なのか。残念ながらさっぱり判然としません。

「賤(しず)の男」とは、いわゆる「いやしい男」という意味です。現代ではやや侮蔑的な表現なので、使うときには注意が必要かもしれません。

そもそも、「都」って一体どこの都なんですかね?
この近辺の「都」といえば平城京、藤原京、そしてこのあとに探訪する雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)などが挙げられると思いますが、いずれもピンときません。

もしかしたら、これは鉄道唱歌の作者である大和田建樹(おおわだ たけき)さんが旅行していたときのエピソード(実話)かもしれません。
鉄道唱歌ではこのあと、この先の奈良県桜井市にある「泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)」という、雄略天皇が宮を置いていた場所に行こうとしています。
それで丹波市(天理市)にさしかかったときに、ちょっとそこにいた小汚い風貌の男に
「おい君、雄略天皇の宮の跡を見に行きたいんだが、教えてくれ」
と問いかけたら、
「はあ?んなもん知らねーよ」
と言ってろくに答えもせずにどっか行ってしまい、頭にきた大和田建樹さんがやや侮蔑的にその(小汚い風貌の)男性のことをつい「賤(しず)の男」と言ってしまったのかもしれません。
「賤の男」という表現は現代ではやや差別的であまり好ましくありませんが、人権意識の異なる100年前ではこうした表現はごく普通に使われていたため、まあこの辺りは大目に見てあげましょう(^^;)

現代では
「あのクソッタレめ!道ぐらい教えてくれてもいいだろ!」
みたいなニュアンスですね。

これは「旅行あるある」の話ですが、道を聞いても無愛想・ぶっきらぼうに答えられてムカついたりする経験は誰でもありますから、まあこの辺はある意味仕方ないですね。

旅に失敗はつきものですから、旅行のときは嫌なことや失敗があってもさっさと気持ちを切り替えて、いつまでもその事ばかりを引きずらないことが大事かもしれません。

次は、いよいよ桜井市(さくらいし)に入ってゆきます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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