まずは原文から!
みかへる跡(あと)に立ちのこる
城の天守の白壁(しらかべ)は
茂(しげ)れる松の木(こ)の間より
いつまで吾(われ)を送るらん
さらに読みやすく!
みかえる跡(あと)に立ちのこる
城の天守の白壁(しらかべ)は
茂(しげ)れる松の木(こ)の間より
いつまで吾(われ)を送るらん
さあ、歌ってみよう!
♪みかえるあーとに たちのこるー
♪しろのてんしゅの しらかべはー
♪しげれるまーつの このまよりー
♪いつまでわれをー おくるらんー
※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。
和歌山城
今回は「和歌山城」についての話題になります。

紀州藩の藩庁・和歌山城
和歌山城は、紀州藩の藩庁(はんちょう)がおかれた場所です。今でいう県庁のようなものですね。
紀州藩(きしゅうはん)は、現代の和歌山県(和歌山市)の原型となる藩です。
江戸時代には「県」の代わりに「藩(はん)」というエリア分けがなされており、その藩の数は約300もありました。
現代の都道府県が47なので、「藩」はより細かく小さいエリア分けだったといえます。
つまり、”一つの県”に”複数の藩”があったと思ってもらってよいでしょう。
江戸時代初期は、浅野氏の支配だった
紀州藩は、江戸時代の当初は浅野氏(あさのし)という、後に現代の中国地方を治めることになる一族が仕切っていました。
広島藩・福島正則が、勝手な城バージョンアップにより転封
しかし、1619年に広島藩(現代の広島県)の福島正則(ふくしま まさのり)という大名が幕府に無断で勝手に城の改修・バージョンアップをさせてしまい、徳川幕府の不信感を買って長野の川中島(かわなかじま)に飛ばされてしまいました。
当時の”武士の法律”ともいえる「武家諸法度(ぶけしょはっと)」では、幕府の許可を得ずに城の勝手な改修(バージョンアップ)をすることは禁止されていました。
理由は、城を下手に増強されて勝手に軍事力をつけられると、幕府に反逆する恐れがあり脅威になるからです。
広島藩の福島正則はこれに違反したため、広島から長野の川中島(かわなかじま)へ(石高を大きく減らされて)強制異動(転封/てんぽう、減封/げんぽう)という措置を受けました。
本人はただ雨漏りの修理をしただけのつもりだったらしいのですが、虚しくも幕府からは理解を得られなかったようです。
和歌山の浅野氏が、広島へ
そこで新しい藩士として、和歌山の浅野氏が、広島に(石高を増やされて)異動(転封。こちらは”栄転”)となりました。
代わりに徳川頼宣が、和歌山へ 紀州徳川家のはじまり
そして和歌山へは、徳川家康の10男である徳川頼宣(とくがわ よりのぶ)が派遣されました。
これが後述する「紀州徳川家」のおこりです。
しかし、その徳川頼宣も勝手に城を改修したりして(本人は良かれと思ってやったのがやり過ぎた)、こちらも幕府の不信感を買ったりもしたようです。
徳川御三家
先述の通り、和歌山では紀州徳川家(きいとくがわけ)という徳川家の分派、つまり系統の分かれた家系がありました。
他にも、
- 名古屋(愛知県)には「尾張徳川家」
- 水戸(茨城県)には「水戸徳川家」
がありました。
イメージとしては、徳川家康の何人もいた子を和歌山・名古屋・水戸にそれぞれ派遣して、彼らを先祖として代々(子孫に)受け継がれていったのが紀州徳川家・尾張徳川家・水戸徳川家になります。
この紀州・尾張・水戸の三つの徳川家を、「御三家(ごさんけ)」といいます。
特に尾張・名古屋は御三家の中でも筆頭格であり、一番石高(こくだか)が高かったのです。
水戸も、奥州(東北地方)から攻めてくる敵から江戸を守るための重要地とされました。
後述しますが、かつて「享保の改革(きょうほうのかいかく)」を行ったことで有名な、8代将軍の徳川吉宗(よしむね)も、紀州徳川家の出身です。
なぜ、徳川家の分家が存在していたのか?
ではなぜ、徳川家の分家が存在していたのかというと、それは徳川家の本家の血統が、万が一途絶えたときのバックアップの意味合いがあったからです。
もし徳川家康だけの家系しかおらず、しかも嫁さんが1人で子どもが2、3人くらいしかいないとどうなるか。
もし彼らが早く亡くなってしていなくなった時に、それ以上徳川家を継ぐ者はいなくなり、徳川の系統は途絶えてしまいます。
そうなると、幕府の権威やネームバリューは失墜、討幕運動が起こり江戸時代の終焉になりかねません。すると、再び戦国時代のような戦乱の世の中になってしまいます。
徳川家康には、10人の側室(そくしつ)がいて20人の子どもがいました。
それは昔の子どもは、産まれたらすぐに亡くなる可能性があったからです。
「側室」とは、複数の嫁さんのことです。いわゆる、「一夫多妻制」です。
7代将軍家継の時に、徳川秀忠からの血筋は途絶える
実際、7代将軍家継(いえつぐ)の時に、徳川秀忠(ひでただ)からの血筋は途絶えてしまいました。
徳川秀忠(ひでただ)とは、江戸幕府の2代目将軍です。その秀忠の後、
- 3代目将軍・家光(いえみつ)
- 4代目将軍・家綱(いえつな)
- 5代目将軍・綱吉(つなよし)
- 6代目将軍・家宣(いえのぶ)
- 7代目将軍・家継(いえつぐ)
は、秀忠の子孫としての血統で続いてきていました。
しかし、6代目将軍・家宣の子(養女を除く)の6人のうち、5人は生まれてすぐ1年以内に亡くなってしまいました。
そのうち唯一、5歳まで生きていた家継が7代目将軍に就任するも、残念ながら8歳で亡くなってしまいました。
そのため、これによって秀忠から続いてきた系統が途絶えてしまいました。
享保の改革を行った、紀州藩出身・徳川吉宗
そこで、8代目将軍・吉宗のときから、「紀州徳川家」に変わりました。
徳川吉宗(よしむね)は、その紀州徳川家の出身です。
紀州出身とはいえ、吉宗も(先述の通り)先祖をたどれば家康に行きつきます。
そのため、徳川家の権威ある血筋であることには間違いなく、徳川家の威厳は保てています。
吉宗は、先ほど述べた家康の十男であり初代紀州藩主の頼宣(よりのぶ)の孫だからです。
「享保の改革」とは
徳川吉宗は8代将軍として就任すると、「享保の改革(きょうほうのかいかく)」といって、たくさんの政策を打ち出してました。
「質素倹約」「経費削減」
「享保の改革」において、吉宗はまず、紀州藩のときに
- 「質素倹約」
- 「経費削減」
によりそれまで悪化していた藩の財政を立て直したという実績を元に、江戸幕府においてもこれらの「質素倹約」「経費削減」を実践することで、なんとか藩財政を立て直そうとしていたのでした。
当時は飢饉(ききん)や災害などにより、日本中どこでもお米がまともに採れず、年貢による幕府収入が下がっていたのです。
米の生産を上げる「新田開発」
それによって公務員(当時は武士)を削減したり、新田開発(しんでんかいはつ)を行いました。
これにより、当時としては新しく進んだ技術によって田んぼを耕してゆき、より多くのお米が採れるように(そして、幕府に納めてもらうように)したのでした。
消防のルーツ「町火消し」
また、「火事と喧嘩は江戸の花」と言われたほど火事が多かった(木造家屋が主流だった)江戸に、「町火消し」という制度を置きました。
現代の消防のルーツの1つです。
ちなみに、それまでも1657年の「明暦の大火」以降も「火消し」役は存在していました。
しかしこれは、あくまで武家のみに限定されていたのでした。
なので、民衆や町にまでを対象に本格的に「火消し」が制度化されたのは、「享保の改革」が初めてです。
一定のお米を納めさせる「上米の制」と、参勤交代の半減
さらに「上米(あげまい)の制」を置き、全国各地の藩に対し、お米を一定の割合で納めさせることで、幕府の安定的な収入を維持させようとしました。
しかし、これだけだと大名から不満が出るため、それまで大名や藩にとって大きな負担となっていた参勤交代の期間を半減させました。
庶民の意見を聞いた「目安箱」
吉宗は、目安箱(めやすばこ)を設けて、庶民の意見を聞きました。
そして、庶民のための病院である小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)を設けました。
これにより、それまで金持ちしか受けられなかった医療を、貧しい人にまで無償で提供できるようになりました。
ちなみに小石川(こいしかわ)とは、東京都文京区(ぶんきょうく)の、「東京ドーム」や「小石川後楽園」などがある場所です。
一定の成果を挙げた、享保の改革 しかし・・・
このようにして、「享保の改革」は一定の成果を挙げました。
しかし、むしろ質素倹約が行き過ぎて、人々の楽しみを奪ってしまい、消費(購買)がろくに行われずに、かえって経済が困窮してしまいました。
また、凶作でなかなか作物が採れないにも関わらず、税負担も上げてしまったため、百姓一揆が頻発してしまったのでした。
和歌山市駅
次はいよいよ、和歌山市を出発します。
和歌山市駅(わかやましえき)であれば、青春18きっぷユーザーの強い味方である「快活CLUB 南海和歌山市駅店」があります。
ここでは完全鍵付個室が、9時間パックで2,770円です(2023年現在)。
また、和歌山市駅からは「南海和歌山港線」で和歌山港駅(わかやまこうえき)まで一駅です。
そのため、(日程に余裕がある場合は)和歌山港からフェリーで徳島へ寄ってみるのもアリでしょう。
徳島市については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
歌詞の意味についても確認 和歌山城を後にする
最後に、歌詞の意味について少し触れておきます。
和歌山城の天守の白壁は
生い茂った松の木々の間より
いつまでこの私を見送るのだろう。
歌詞の「見返る跡に立ち残る」の意味がよくわかりづらいのですが、もしかしたら和歌山をこれから列車で出発というときに、ふと振り返ったときに和歌山城の天守が自分を見送っていた、という意味なのかもしれません。
当時は駅を出ていく列車の窓から、和歌山城とその天守の白壁が見えたのかもしれませんね!

次は、和歌山を出発し、大阪方面へ
次は、いよいよ和歌山を出発し、大阪方面へ向かってゆきます!
鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の旅も、いよいよ大詰めです!
ちゅうい!おわりに
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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