まずは原文から!
海の幸(さち)ある鹽山(えんざん)の
温泉(いでゆ)に遊ぶ夕間(ゆうま)ぐれ
晩鐘(ばんしょう)ひゞく惠林寺(えりんじ)は
夢窗國師(むそうこくし)の大伽藍(だいがらん)
さらに読みやすく!
海の幸(さち)ある塩山(えんざん)の
温泉(いでゆ)に遊ぶ夕間(ゆうま)ぐれ
晩鐘(ばんしょう)ひびく惠林寺(えりんじ)は
夢窓国師(むそうこくし)の大伽藍(だいがらん)
さあ、歌ってみよう!
♪うーみのさちある えんざんのー
♪いでゆにあそぶー ゆうまぐれー
♪ばんしょうひびく えりんじはー
♪むーそうこくしの だいがらんー
(中央東線)
高尾駅→相模湖駅→上野原駅→四方津駅→鳥沢駅→猿橋駅→大月駅→初狩駅→笹子駅→(笹子トンネル)→甲斐大和駅→塩山駅→山梨市駅→石和温泉駅→酒折駅→甲府駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
広大な甲府盆地へ
甲斐大和駅(かいやまとえき)を出て、笹子トンネルに続くもう1つの長大トンネルを出ると、窓の左側には広大な「甲府盆地」が姿を現します。
そして窓に広がる「広大なブドウ畑」も姿を現します。
日本一のフルーツ大国・やまなし
山梨県は、ブドウの生産量が日本一です。
また、桃の生産量も日本一です。
そのため、山梨県は「フルーツ王国」とも呼ばれます。
ブドウの生産量が日本一のため、「甲州ワイン」も人気です。
勝沼ぶどう郷駅に到着
やがて、ブドウの産地の最寄駅である勝沼ぶどう郷駅(かつぬまぶどうきょうえき、山梨県甲州市勝沼町)に着きます。
「くだもの名」と「地名」が入った駅名
勝沼ぶどう郷駅は、開業当初は「勝沼駅」でした。しかし1993年に現在の「くだもの名と地名が入った駅名」に変更されました。
ちなみに、さくらんぼ生産量日本一の山形県にもさくらんぼ東根駅(さくらんぼひがしねえき、山形県東根市)という、「くだもの名と地名を掛け合わせた駅」があります。
勝沼ぶどう郷駅にかつて存在したスイッチバック
また、勝沼ぶどう郷駅は現在のように(塩山駅に向かって)「急な下り坂の上」にあるため、昔は駅に列車が停車する際に下に滑り落ちないように、「スイッチバック」の形式でした。
スイッチバックとは、「人」の形をした線路のことです。スイッチバック駅では、以下の手順で列車は動きます。
- 一旦先頭から、線路分岐したホームに突っ込む
- 平らな駅のホームで、乗客を乗り降りさせる
- 終わったら、バックして坂のきつい本線に戻る
- 再び前へ発車して、坂を登っていく
という方式です。
なぜスイッチバックが設けられていたのか
スイッチバックが設けられていたのは、
- 坂が急なところにある駅においては、列車が滑り落ちないよう、別途で「平らな場所」に、ホームを設けるため。
- 線路が1本しかない単線だった時期に、列車がすれ違うための「退避スペース」としての役割を設けるため。
などでした。
時代とともに、スイッチバックは廃止
時代とともに車両の性能が向上し、また2本の線路からなる複線になると、退避スペースが不要となってきます。
そのため、1968年に勝沼駅のスイッチバックは不要になって廃止となり、現在ではきつい坂道にホームがあります(それで問題なくなっています)。
また、勝沼駅のスイッチバック時代の旧ホームは、現在では公園として整備されていて、自由に散策することができます。
塩山駅に到着
勝沼ぶどう郷駅を過ぎると、やがて塩山駅(えんざんえき、山梨県甲州市)に着きます。

かつては「塩山市」の駅 現在は甲州市
塩山駅は、元々はその名の通り塩山市(えんざんし)の駅でした。
塩山市は、2005年に親設合併して甲州市(こうしゅうし)となり、塩山駅は現在は甲州市の中心駅になります。
山梨県は、「甲」のつく地名が多い
山梨県は、かつて「甲斐国(かいのくに)」と呼ばれていたので、「甲」がつく自治体が多くなります。
右側:甲州市(塩山駅のあるところ)
中央:甲府市(県庁所在地)
左側:甲斐市(竜王駅のあるところ)
ちょっと強引な暗記方法
土地勘がないと(地元民でもないかぎり)なかなか覚えるのは難しいですが、甲州市は「こう”し”ゅう」であり、”し”の文字が右側を向いているため、地図上で右側にあるのが「甲州市」だと覚えましょう。
これは簿記における貸借対照表(たいしゃくたいしゃう)において、右側は貸方(か”し”かた)なので、「”し”が右側を向いてるので右側」という覚え方と同じものを、応用させてもらいました。
ちょっと無理のある暗記方法ですかね(^^;)
歌詞「海の幸ある塩山」とは?
歌詞では、「海の幸(さち)の塩」というフレーズと、「塩山(えんざん)」という地名を掛けてるのだと思います。
夢窓疎石(夢窓国師)が建立した、恵林寺
恵林寺(えりんじ)は甲州市にあるお寺で、夢窓疎石(むそうそせき)の建てたお寺になります。
恵林寺は、塩山駅から北へ徒歩約1時間の距離にあります。やや遠いため、天気のよい日に散歩がてら向かわれる方もいるようです。
鎌倉終わり~南北朝に活た、夢窓国師
夢窓疎石は、歌詞のように夢窓国師(むそうこくし)とも呼ばれます。
夢窓疎石(むそうそせき)は、鎌倉幕府の滅亡から南北朝の対立といった、世の中がカオスな状況の中で生まれました。
そうしたことから、「どこか人里離れた山の中で、戦乱なんか関係なく、ひっそりと暮らしたいなぁ」という願望を持ちつつ、あちこちの地方を布教しながら回ったのでした。
その弟子の数は、なんと一万人もできていたといいます。
そして夢窓疎石は、後醍醐天皇らをはじめとする実に7人もの天皇から厚い信頼を受けたのでした。
そして、臨済宗において非常に尊い称号である「国師号」を授かりました。
なので「夢窓国師」と呼ばれるわけですね。
武田信玄と、快川和尚
戦国時代に入ると、甲斐国の「戦国最強の武将」と言われた武田信玄(しんげん)は、恵林寺の快川和尚(かいせんおしょう)と、まるでよき友人のように信頼関係を深めてゆき、恵林寺は発展していったのでした。
やがて武田信玄は、恵林寺を自らの霊廟(れいびょう)とし、武田氏の菩提寺(ぼだいじ)と定めました。
霊廟(れいびょう)とは、高貴な武将のお墓のことです。
菩提寺(ほだいじ)とは、ある一族が祀られているお寺のことです。
武田家の滅亡とともに、恵林寺は包囲される
武田信玄が1573年に亡くなり、また息子の武田勝頼(かつより)が1582年に天目山(てんもくざん)で織田信長によって滅ぼされると、恵林寺は織田軍に包囲されてしまいます。
織田軍は、恵林寺を包囲し、火でめった打ち・焼き討ちにし、100人余りが容赦なく殺されたといいます。
「心頭滅却すれば、火もまた涼し」
快川和尚(かいせんおしょう)も炎の中で、
「心頭滅却(しんとうめっきゃく)すれば、火もまた涼(すず)し」
という言葉を残して亡くなりました。
これは心を完全に「無」にすれば火なんて全然熱くない、というある種の「悟り」に近いものです。
これが転じて、「どんな苦しい状況におかれても、精神を落ち着かせれば、怖くない」という意味になります。
虎渓山永保寺を建立した、夢窓疎石
夢窓疎石は、岐阜県多治見市(たじみし)の虎渓山(こけいざん)永保寺(えいほうじ)を建てた人でもあります。
多治見市における虎渓山永保寺については、以下の記事もご覧ください。
次は、山梨市へ
塩山駅を出ると、次は山梨市に止まります!
ちゅうい!おわりに
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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