中央線鉄道唱歌 第20番 窓に広がるぶどう畑 塩山駅と、夢窓国師の開いた恵林寺

まずは原文から!

海の幸(さち)ある鹽山(えんざん)の
温泉(いでゆ)に遊ぶ夕間(ゆうま)ぐれ
晩鐘(ばんしょう)ひゞく惠林寺(えりんじ)は
夢窗國師(むそうこくし)の大伽藍(だいがらん)

さらに読みやすく!

海の幸(さち)ある塩山(えんざん)の
温泉(いでゆ)に遊ぶ夕間(ゆうま)ぐれ
晩鐘(ばんしょう)ひびく惠林寺(えりんじ)は
夢窓国師(むそうこくし)の大伽藍(だいがらん)

さあ、歌ってみよう!

♪うーみのさちある えんざんのー
♪いでゆにあそぶー ゆうまぐれー
♪ばんしょうひびく えりんじはー
♪むーそうこくしの だいがらんー

(中央東線)
高尾駅→相模湖駅→上野原駅→四方津駅→鳥沢駅→猿橋駅→大月駅→初狩駅→笹子駅→(笹子トンネル)→甲斐大和駅→塩山駅→山梨市駅→石和温泉駅→酒折駅→甲府駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

甲斐大和駅(かいやまとえき)を出て、笹子トンネルに続くもう1つの長大トンネルを出ると、窓の左側には広大な「甲府盆地」が姿を現します。
そして窓に広がる「広大なブドウ畑」も姿を現します。

山梨県は、ブドウの生産量が日本一です。
また、桃の生産量も日本一です。
そのため、山梨県は「フルーツ王国」とも呼ばれます。
ブドウの生産量が日本一のため、「甲州ワイン」も人気です。

ブドウの産地の最寄駅である勝沼ぶどう郷駅(かつぬまぶどうきょうえき、山梨県甲州市勝沼町)を過ぎ、やがて塩山駅(えんざんえき、山梨県甲州市)に着きます。

勝沼ぶどう郷駅は、開業当初は「勝沼駅」でした。しかし1993年に現在の「くだもの名と地名が入った駅名」に変更されました。
ちなみにさくらんぼ生産量日本一の山形県にもさくらんぼ東根駅(さくらんぼひがしねえき、山形県東根市)という、「くだもの名と地名を掛け合わせた駅」があります。
また、勝沼ぶどう郷駅は現在のように(塩山駅に向かって)「急な下り坂の上」にあるため、昔は駅に列車が停車する際に下に滑り落ちないように、「スイッチバック」の形式でした。

スイッチバックとは、「人」の形をした線路のことです。
一旦先頭から線路分岐したホームに突っ込んで、平らな駅のホームで乗客を乗り降りさせ、終わったらバックして坂のきつい本線に戻り、再び前へ発車して坂を登る方式です。
坂が急なところにある駅は、列車が滑り落ちないよう、別途平らな場所にホームを設けていたのですね。また、線路が1本しかない単線だった時期には、列車がすれ違うための「退避スペース」としての役割もありました。
時代とともに車両の性能が向上し、また2本の線路からなる複線になると退避スペースが不要となるため、1968年に勝沼駅のスイッチバックは不要になって廃止となり、現代ではきつい坂道にホームがあります(それで問題なくなっています)。

また、勝沼駅のスイッチバック時代の旧ホームは、現在では公園として整備されていて、自由に散策することができます。

塩山駅は、元々はその名の通り塩山市(えんざんし)の駅でした。塩山市は2005年に親設合併して甲州市(こうしゅうし)となり、塩山駅は現在は山梨県甲州市の中心駅になります。

塩山駅(山梨県甲州市)

山梨県は、かつて「甲斐国(かいのくに)」と呼ばれていたので、「」がつく自治体が多くなります。

右側:甲州市(塩山駅のあるところ)
中央:甲府市(県庁所在地)
左側:甲斐市(竜王駅のあるところ)

土地勘がないと(地元民でもないかぎり)なかなか覚えるのは難しいですが、甲州市は「こう”し”ゅう」であり、”し”の文字が右側を向いてので、地図上で右側にあるのが「甲州市」だと覚えましょう。

これは簿記における貸借対照表(たいしゃくたいしゃう)において、右側は貸方(か”し”かた)なので、「”し”が右側を向いてるので右側」という覚え方と同じものを応用させてもらいました。
ちょっと無理のある暗記方法ですかね(^^;)

歌詞では、「海の幸(さち)の塩」というフレーズと、「塩山(えんざん)」という地名を掛けてるのだと思います。

恵林寺(えりんじ)は甲州市にあるお寺で、夢窓疎石(むそうそせき)の建てたお寺になります。
恵林寺は、塩山駅から北へ徒歩約1時間の距離にあります。やや遠いので、天気のよい日に散歩がてら向かわれる方もいるようです。

夢窓疎石は、歌詞のように夢窓国師(むそうこくし)とも呼ばれます。

夢窓疎石(むそうそせき)は、鎌倉幕府の滅亡から南北朝の対立といった、世の中がカオスな状況の中で生まれました。
そうしたことから、「どこか人里離れた山の中で、戦乱なんか関係なく、ひっそりと暮らしたいなぁ」という願望を持ちつつ、あちこちの地方を布教しながら回り、その弟子の数はなんと一万人もできていたといいます。
そして後醍醐天皇らをはじめとする実に7人もの天皇から厚い信頼を受け、臨済宗において非常に尊い称号である「国師号」を授かりました。
なので「夢窓国師」と呼ばれるわけですね。

戦国時代に入ると、甲斐国の「戦国最強の武将」と言われた武田信玄(しんげん)は、恵林寺の快川和尚(かいせんおしょう)とまるでよき友人のように信頼関係を深めてゆき、恵林寺は発展してきました。
やがて武田信玄は、恵林寺を自らの霊廟(れいびょう)とし、武田氏の菩提寺(ぼだいじ)と定めました。
霊廟(れいびょう)とは、高貴な武将のお墓のことです。
菩提寺(ほだいじ)とは、ある一族が祀られているお寺のことです。

武田信玄が1573年に亡くなり、また息子の武田勝頼(かつより)が1582年に天目山(てんもくざん)で織田信長によって滅ぼされると、恵林寺は織田軍に包囲されてしまいます。
織田軍は、恵林寺を包囲し、火でめった打ち・焼き討ちにし、100人余りが容赦なく殺されたといいます。
快川和尚(かいせんおしょう)も炎の中で、
心頭滅却(しんとうめっきゃく)すれば、火もまた涼(すず)
という言葉を残して亡くなりました。

これは心を完全に「無」にすれば火なんて全然熱くない、というある種の「悟り」に近いものです。

夢窓疎石は、京都の銀閣寺(ぎんかくじ)や、岐阜県多治見市(たじみし)の虎渓山(こけいざん)永保寺(えいほうじ)を建てた人でもあります。

次は、山梨市に止まります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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