中央線鉄道唱歌 第22番 連歌発祥の地・酒折宮へ 日本武尊の、九日目の夜・十日の旅

まずは原文から!

東夷(あずまえびす)を打ちきため
夜(よ)には九の夜(ここのよ)日には又(また)
十日(とおか)重ねし旅衣(たびごろも)
酒折(さこり)の宮(みや)はかしこしや

さらに読みやすく!

東夷(あずまえびす)を打ちきため
夜(よ)には九の夜(ここのよ)日には又(また)
十日(とおか)重ねし旅衣(たびごろも)
酒折(さこり)の宮(みや)はかしこしや

さあ、歌ってみよう!

♪あーずまえびすを うちきためー
♪よーにはここのよ ひにはまたー
♪とーおかかさねし たびごろもー
♪さこりのみやはー かしこしやー

(中央東線)
高尾駅→相模湖駅→上野原駅→四方津駅→鳥沢駅→猿橋駅→大月駅→初狩駅→笹子駅→(笹子トンネル)→甲斐大和駅→塩山駅→山梨市駅→石和温泉駅→酒折駅→甲府駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

石和温泉駅(いさわおんせんえき、山梨県笛吹市)を出ると、甲府駅がだんだんと近づいてきます。
そして甲府駅の少し手前、酒折駅(さかおりえき、山梨県甲府市酒折)に到達します。

酒折駅(山梨県甲府市酒折)
酒折駅(山梨県甲府市酒折)

今回の歌詞はちょっと難しいですが、酒折駅の少し西にある酒折宮(さかおりみや)と、そして神話の時代に酒折宮を訪れたヤマトタケルノミコト日本武尊)の話題となります。

歌詞にある東夷(あずまえみし)とは、いわゆる奈良(大和朝廷)からみて東の国(主に関東地方)にいた、朝廷に従わない人達のことをいいます。

日本武尊は、父の第12代天皇・景行天皇(けいこうてんのう)に命じられ、関東地方(東国、板東とも)の征伐に向かいます。

景行天皇とは、第12代天皇です。
飛鳥時代の推古天皇(すいこてんのう)が第32代なので、相当昔の天皇であることは間違いないです。
ちなみに参考までに、令和の天皇陛下(今上天皇)は、第126代であり、日本の初代天皇は神武天皇(じんむてんのう)になります。
神武天皇は紀元前660年2月11日に奈良県橿原市(かしはらし)において即位したので、2月11日は「建国記念日」とされています。

関東地方の征伐を無事に終え、日本武尊が茨城県を出発して奈良県の大和朝廷に帰る途中に寄った場所が、山梨県甲府市の酒折宮(さかおりみや)になります。

日本武尊がここ酒折宮に辿り着いたとき、尊(みこと)は

茨城県の新治(にいはり)を出発して、寝るの今夜で何日目だ。

と、まるで独り言のように歌を詠みました。

すると、たまたま隣にいた翁(おきな)が、

「それはズバリ、9回目の夜にして10日目でございます。」

というアンサーソングを、絶妙なタイミングで歌で返しました。
(実際にはこのような今風の言葉ではなく、昔の古語による五・七・七の歌になります。)

これはいわゆる「連歌(れんか)」のはじまりであり、酒折宮(さかおりみや)は「連歌発祥の地」と呼ばれます。
「五・七・七」の歌に対して、別の人が「五・七・七」の歌で返し、それを交互に返しながら歌うという遊びです。
前回も説明したように、平安時代は「朝廷」といって、貴族の皆さんは朝早くに出勤し、昼までには公務を終え、午後は歌を詠んで遊ぶなどの優雅な生活を送っていました(その代わり、土日休みは無し)。
そのため、天皇や貴族をはじめ、武将らにとっても「歌遊び」というものは重要だったのです。

ちなみに、歌の原文は


新治(にいはり)筑波(つくば)を過ぎて 幾夜(いくよ)か寝つる


かがなべて 夜(よ)には九夜(ここのよ) 日には十日(とおか)を

になります。
それぞれ五・七・七の歌であり、五・七・五・七・七ではないことに注意する必要があります

ちなみに「新治(にいはり)」とは、恐らくですが現在の茨城県筑西市(ちくさいし)・桜川市(さくらがわし)あたりの地域ではないかと思われます。
JR水戸線新治駅(にいはりえき、茨城県筑西市)、大和駅(やまとえき、茨城県桜川市)という名前の駅があるので、恐らくこの辺りがヤマトタケルノミコト(日本武尊)のゆかりの地(出発の地、訪れた地)ではないかと思われます。

なお、茨城県かすみがうら市にも「新治」という地名がありますが、こちらは恐らく無関係だと思われます。

新治は、関東(または板東、東国)を征伐した尊(みこと)が地元の大和(奈良県)へ戻ろうと出発した(過ぎていった)茨城県の場所です。

かがなべて」とは、日を重ねてという意味です。

酒折駅を出ると、身延線(みのぶせん)の線路が左側から徐々に迫ってきて、やがて合流します。

身延線(みのぶせん)は、甲府駅を南へ進み、はるか南の静岡県富士市(ふじし)に至る路線です。
身延線は富士川(ふじかわ)沿いに進み、日蓮宗(にちれんしゅう)の総本山である身延山(みのぶやま)・久遠寺(くおんじ)の沿線も通ります。
身延線ができるまでは、富士川の上を舟でこぎ、人々や荷物を載せて運んでいたのでした。

そして、甲斐善光寺(かいぜんこうじ)の近くを通ります。
善光寺(ぜんこうじ)は、本来は長野県長野市にあるものが本場です。
長野の善光寺の本尊は、「日本で最も古い仏像」といわれ、誰も見ることができない「絶対秘仏」とされています。

ちなみに奈良の「法隆寺」は「日本で最も古い木造建築のお寺」なので、間違わないようにしましょう。

秘仏(ひぶつ)とは、いわば見てはいけない仏様ということになります。
秘仏は壁と扉によって仕切られており、厳重に管理されています。
まるで「三種の神器」が天皇陛下すら見ることができないのと似ていますね。それだけ神聖ということです。

長野県の県庁所在地・長野市は、善光寺を中心に栄えてきた町なので、現在の善光寺は長野市にとっては欠かせない観光地でもあります。

この長野の善光寺の仏像(善光寺如来)が、戦国の世の中において何度も場所を移され、その際に武田信玄によって信州(長野)から甲斐国(山梨県)に持って来られたのが、この甲斐善光寺です。
武田信玄は、戦場となった善光寺平(ぜんこうじだいら。長野市がある平野のことです)を上杉謙信の手から守るという名目で、自分の地元である甲斐国(かいのくに。現在の山梨県)のこの地に善光寺如来の仏像を移してきました。
長野(信濃)の善光寺も、「川中島の戦い」によって荒れ果ててしまいました。
武田信玄は甲斐国にこの仏像を持ってきたことで、まるで「この仏像を持っている自分たちこそが、真の権力者なのだ」という雰囲気もあったことでしょう。

しかし、上杉謙信も地元の新潟県上越市(じょうえつし)の浜善光寺(はまぜんこうじ)にこの仏像を移したという説もあります。

また、1582年に武田勝頼が織田信長に滅ぼされた後、仏像は織田氏によって地元の美濃国(みののくに。現在の岐阜県)に移されたり、その後また徳川家康によって地元の遠江国(とうとうみのくに。現在の静岡県浜松市あたり。家康が若いときの地元)に移されたりしました。

しかし織田氏が美濃国に仏像を移した後に「本能寺の変」が起こってしまい、これは「善光寺如来の祟りだ」という噂が広がり、また「善光寺如来を持ち出した者は呪われる」という噂まで立つようになりました。
これに恐怖した家康は、焦って甲斐善光寺に仏像を戻したといいます。

そしてその後、1597年に豊臣秀吉によって、甲斐善光寺から京都の方広寺(ほうこうじ)に移されました。
これは方広寺が(前年の1596年に起きた)地震の被害に遭い、「京の大仏」が破損してしまい、その代わりに威厳ある仏様をお招きしたいという秀吉の意向によって、善光寺如来を移動させたとされています。
しかし元々は大仏の置いてあった大きな台に、サイズ的に小さい善光寺如来の仏像を置いたことには違和感があり、かなり馬鹿にされたとも言われています。

しかし翌年の1598年に、豊臣秀吉は病に倒れてしまいました。これは「善光寺如来を無理に移動させたから、その祟りだ」と噂されるようになりました。
挙げ句の果てに、秀吉は仏像が「信濃善光寺に戻りたい」と言い出す夢まで見てしまいました。
これに恐怖し焦った秀吉は、仏像を長野市信濃善光寺に戻すことに決めました。これにより、仏像は約30年ぶりに、長野市の信濃善光寺まで戻って来ることになりました。
しかし焦って仏像を返却したにも関わらず、秀吉はそのまま1598年に病死してしまいました。

この実に30年もの間、善光寺如来の仏像は武将によって各地を転々と「引っ越し」していたことになります。

善光寺の仏像はなにせ「秘仏」であり、天皇家における「三種の神器」と同じくらい神聖なアイテムなので、これを持っている者や国が絶対的神聖権力者である、と主張したくなる気持ちもわかります。
戦国の世の中は「負け=死」ですから、みんななりふり構っていられなかったわけですね。

話が長くなりましたが、次でいよいよ甲府に着きます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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