まずは原文から!
山梨縣廳(やまなしけんちょう)舞鶴城(まいづるじょう)
炊煙(すいえん)のぼる一萬戸(いちまんこ)
杖(つえ)曳(ひ)く園(その)に聳(そび)ゆるは
昔ながらの天守閣(てんしゅかく)
さらに読みやすく!
山梨県庁(やまなしけんちょう)舞鶴城(まいづるじょう)
炊煙(すいえん)のぼる一万戸(いちまんこ)
杖(つえ)引(ひ)く園(その)に聳(そび)ゆるは
昔ながらの天守閣(てんしゅかく)
さあ、歌ってみよう!
♪やまなしけんちょう まいづるじょう
♪すいえんのぼるー いちまんこー
♪つえひくそーのに そびゆるはー
♪むーかしながらの てんしゅかくー
(中央東線)
高尾駅→相模湖駅→上野原駅→四方津駅→鳥沢駅→猿橋駅→大月駅→初狩駅→笹子駅→(笹子トンネル)→甲斐大和駅→塩山駅→山梨市駅→石和温泉駅→酒折駅→甲府駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
武田氏の本拠地となってきた、甲府市
前回で、列車は甲府駅(こうふえき、山梨県甲府市)に着きました。
山梨県甲府市(こうふし)は、山梨県の県庁所在地です。
戦国時代は、甲府は武田信玄(しんげん)をはじめとする、武田氏(たけだし)によって支配されていました。
江戸時代は、甲府は徳川家の支配下に
しかしその武田家も、織田信長によって滅ぼされたため、江戸時代からは徳川家の支配下に入っています。
なので、現在ある甲府城は、江戸時代に徳川家によって建てられたものです。
「舞鶴城」とも呼ばれた甲府城
甲府城は、昔の人にとってはまるで「鶴が舞っているように見えた」ため、舞鶴城(まいづるじょう、ぶかくじょう)ともよばれました。
京都府の「舞鶴」も、語源は同じ
ちなみに京都府舞鶴市(まいづるし)も、実は名前の由来は似ています。
舞鶴(まいづる)は、元々「田辺(たなべ)」という地名でした。
しかし明治時代になり、「田辺」という地名は紀伊半島(和歌山県)にも存在するため、重複回避のために地名の変更を命じられました。
そこで、まるで田辺城(当時)が「鶴が舞うような形の城」であり「舞鶴城」と呼ばれていたことから、町の名前も「舞鶴」となった経緯があるというわけです。
江戸の一つ手前にある、軍事的・防衛面で重要だった甲府
甲府は、江戸時代には「江戸の一つ手前」にある、重要な防御拠点でした。
なぜなら、もし西日本の(関ヶ原の戦いで敗れて、石高を大きく減らされて遠くに飛ばされ、徳川家を恨んでいる可能性がある)大名たちがもし幕府を裏切って、甲府が攻めらたら大変なことになります。
もし甲府が西日本の大名たちに乗っ取られると、江戸が攻撃の射程圏内に入ってしまいます。
つまり、甲府が江戸攻略の拠点とされる危険性があったのです。
そうなると反逆側は、
- 西から次から次へと、兵力や食糧を取り寄せられる
- 兵士を甲府で休ませ、食べさせてから江戸に攻めさせる
ことが可能になりますからね。
これが、甲府が江戸時代に徳川家の直接支配下(天領)だった理由の1つといえます。
天領なので、「甲府藩」ではなかったわけです。
江戸時代、幕府は遠くの藩から常に攻められるリスクがあった
江戸時代には、先ほど少し述べた通り、(江戸から遙か遠い)東北・中国・九州地方には、徳川家に恨みをもっている大名がいました。
なぜなら、彼らは関ヶ原の戦いで(徳川に敵対する)「西軍」についたため、徳川家に信用されずに遠隔地に飛ばされた経緯があるからです(外様大名)。
江戸時代はそうした外様大名らの経済力を削ぐために、「参勤交代」といって江戸まで旅行・出張させ、多額の費用を使わせました。
現代でも、「外様(とざま)」という言葉はあまりいい意味では使われません。
例えば、「あいつは所詮外様(とざま)だ」などというと、「ヨソ者だ」という意味になるからです。
彼らがもし江戸へ攻めてきたとき、甲府を通る可能があった
もしそうした(徳川家に敵対する)藩や大名が江戸に進撃しようとした場合は、例えば
- 甲府(山梨)※西日本から
- 駿府(静岡)※西日本から
- 水戸(茨城)※東北地方から
- 浦和(埼玉)※東北地方から
といった江戸に近い場所は、必ず通ることになります。
もしこれらの都市が乗っ取られたら、そこを拠点にして江戸へと攻められるため、幕府としても甲府をはじめとする上記地域の守りは、とても固かったのです。
実際、甲府城は江戸時代は徳川家のものでしたから、江戸幕府としても信頼のおける人物(裏切る可能性の低い、身内の人物)を甲府に配属していた理由がわかるでしょう。
余談:幕府に長年にわたり、恨みを持っていた長州藩
ちなみに余談・補足になりますが、徳川家に恨みをもっていた藩の代表格が、いわゆる「長州藩(ちょうしゅうはん。現代の山口県西部)」です。
長州藩の毛利家は、毛利元就(もとなり)の時代に全盛期を築きました。
しかし「関ヶ原の戦い」で(徳川家に敵対する)西軍についたため、石高を大きく減らされ、広島から萩(はぎ)に転封(てんぽう)されるという不遇措置を受けました。
この長州藩の不遇措置に対する長年の恨みこそが、幕末の「薩長同盟」などへとつながり、やがて長州藩は薩摩藩とともに幕府を倒すことになります。
そして明治政府関係者は「伊藤博文」など、長州藩出身の人で固められました。
現代でも、「岸信介」や「佐藤栄作」など、山口県出身の政治家が多いのはそのためですね。
少子高齢化に苦しむ、甲府の中心地
以下に、甲府市の「不の側面」を書きます。
※あくまで「街の経済の研究・批評」が目的であり、甲府市のイメージダウンに繋げる意図は毛頭ありませんので、ご理解・ご了承ください。
東京に近く、東京への人の流出が深刻な甲府市
甲府市は残念ながら、市街中心部の経済苦境が深刻になっています。
理由としてはまず一つに「少子高齢化」が挙げますが、それと同時に東京に近く、東京への人口や消費者の流出が増大しているからです。
鉄道とバスの競合により、東京方面へのアクセスが非常に便利に
なぜ甲府から東京への流出が著しいのかというと、
- 中央線の「特急かいじ」「特急あずさ」の増発に伴う、列車のスピードアップ
に加えて、さらに
- 「中央自動車道」などの高速道路が充実し、それに伴って高速バスの増発や「低料金化」が著しくなっている
ためです。
しかも鉄道と高速バスは競合しているため、お互いに増発や低料金化を繰り返してきたのでした。
そのため、現代では「日帰り」で甲府と東京を往復できるようになっています。
「ストロー効果」の深刻化
これにより、甲府市街中心部で購買活動(つまり、買い物)が行われず、休みの日はみな東京(新宿や渋谷・池袋など)に買い物に行くという現象が起こっています。
もちろんユーザー(甲府市民)としては、安く早く東京まで買い物・進学・就職に行けるため、大喜びです。
しかしこれによって、甲府市街中心部では「シャッター通り」の増加や、「百貨店などの相次ぐ閉店」などが起こるようになり、苦境に陥ってしまいます。
このように、地方都市が東京などの大都市に客を奪われる現象を、「ストロー現象」といいます。
まるで東京がストローのように、お客さんを吸い取ってしまう現象です。
ストロー現象の、多地域での例
こうした「ストロー現象」は甲府に限った話ではなく、他にも以下の地域で起こっています。
- 北海道各地→札幌(札幌一極集中)
- 秋田・山形・盛岡→仙台・東京
- 神奈川・千葉・静岡・長野・新潟・群馬・栃木・茨城→東京(東京一極集中)
- 岐阜・三重→名古屋
- 和歌山・奈良・滋賀・徳島→大阪・京都・神戸
- 山口(下関)・九州各地→福岡
などのような形で起こっています。
(他にもまだまだあります)
昔は、険しい峠道が江戸との交通を困難にしていた
昔の甲府はまだ「中央線(特急)」や「中央自動車道」などはありませんでした。
なので、
- 小仏峠(こぼとけとうげ)
- 笹子峠(ささごとうげ)」
などの難所を自力で越えなければ、東京(江戸)に行くことは出来ませんでした。
そしてそんな険しい峠を越えてまで、わざわざ東京(江戸)へ行きたいと思う人はいなかったからですね。
なので、逆にある意味、人々の買い物・消費活動は山梨県内で収まっていたわけです。
「リニア中央新幹線」が出来たらどうなる?
これが「リニア中央新幹線」ができると、品川~甲府間がわずか20分~30分ほどで行き来できるようになります。
すると、さらにストロー現象が進むことも考えられます。
「ちょっと東京行ってくるわ。すぐ帰るから」
的な感じです。
もはや、「どこでもドア」ですね・・・。
必ずしもデメリットのみならず、メリットもある?
ただ逆に、リニアで東京への通勤が可能になれば、住居を甲府市に置いたまま東京へ勤務するということも考えられます。
それに伴って住民税が甲府市に納められるという可能性も否定できないため、「ストロー現象」などのデメリットばかりでもないわけです。
そうなると、甲府市が東京の「ベッドタウン」として整備され、発展していく可能性まで考えられます。
甲府のみならず、日本全体が「ストロー現象」「少子高齢化」に悩んでいる
話を戻しますが、今の日本の地方都市は、どこも少子高齢化や「ストロー現象」などによって、苦境にあえいでます。
それは
- 「駅前のシャッター通り」
- ローカル線の廃止
- 学校の統廃合
- 閉校・空き家の増加
- 高齢者の孤独死
など、今の日本の地方都市の課題は、挙げればきりがありません。
みんなで地方へ旅行・観光へゆき、または「ふるさと納税」などの仕組みを駆使するなどして、地方を元気にしてゆきましょう!!

決して、日本の未来はよくないことばかりではないよ!
「杖引く園」甲府城からの眺め
甲府城は、今でもその景色は壮観です。
歌詞にある「杖引く園(その)」の天守跡からは、甲府市街地が一望できます。
歌詞にある「杖引く」とは、たとえば松尾芭蕉のような旅人が、杖を引いて旅をするようなイメージでしょうか。
甲府城からは、日本一の富士山と、日本第二位の北岳(きただけ)が、なんと同時に眺められます(ただし、北岳は右を向く必要があります。なので以下の写真には収まりきれていません)。

太宰治・富嶽百景のラスト「酸漿に似ていた」とは?
太宰治の小説・富嶽百景(ふがくひゃっけい)のラストでは、
「富士を見ると、甲府の冨士は、山々の後ろから、三分の一ほど顔を出している。
酸漿(ほおづき)に似ていた。」
と書かれています。
酸漿(ほおづき)とは、逆三角形の花びらを持つ花のことです。
酸漿の花言葉は「偽善者」であり、まるで太宰治が富士山をディスっているようにも思えます。
まあ、「富嶽百景」では太宰治は富士山を終始ディスってますので、富士山を「見かけが美しいだけの偽善者」などのように言いたかったのもあるかもしれません(これには様々な諸説あり)。
富嶽百景では、ストーリーが進むにつれて作者の富士山に対する評価が変わっていったりするわけなので、必ずしも悪い意味ではない、とも考えられます。
しかし甲府城から見る富士山は、下半身を山に隠れて、まるで酸漿のような三角形にも思えます。
なので「偽善者」とかそんな意味ではなく、単純に「酸漿の花びらの形のようだ」と思ったのでしょう。
私(筆者)は富士山大好きですが、私も甲府城から富士山を見たとき、太宰治と同じで「酸漿(の花びら)に似ている」と思いました!

甲府からの富士山は、酸漿の花びらのようにとても美しいよ!
富嶽百景については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
次は、山梨県の英雄・武田信玄(しんげん)の話題となります!
ちゅうい!おわりに
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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