まずは原文から!
香煙(こうえん)細き三代(さんだい)の
廟(びょう)に額(ぬか)づく人もなし
躑躅が崎(つつじがさき)の址(あと)訪(と)えば
夏草(なつくさ)しげく荒れ果てゝ
さらに読みやすく!
香煙(こうえん)細き三代(さんだい)の
廟(びょう)に額(ぬか)づく人もなし
躑躅が崎(つつじがさき)の址(あと)訪(と)えば
夏草(なつくさ)しげく荒れ果てて
さあ、歌ってみよう!
♪こうえんほーそき さんだいのー
♪びょうにぬかづく ひともなしー
♪つつじがさーきの あととえばー
♪なつくさしげくー あれはててー
(中央東線)
高尾駅→相模湖駅→上野原駅→四方津駅→鳥沢駅→猿橋駅→大月駅→初狩駅→笹子駅→(笹子トンネル)→甲斐大和駅→塩山駅→山梨市駅→石和温泉駅→酒折駅→甲府駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
かつて武田氏が、三代にわたって治めた甲府
山梨県甲府市(こうふし)は、かつて甲斐国(かいのくに)の国府(こくふ)が置かれていました。
甲斐国(かいのくに)とは、現代の山梨県のことをいいます。
国(くに)とは、奈良時代の律令制におけるエリア分けのことで、現代でいうところの都道府県に該当します。
国府(こくふ)とは、その国の政治の中心機関のことであり、現代でいうところの県庁などに該当します。
「甲府」の由来は、甲斐国の国府(こくふ)があったことに由来します。
甲斐国では、
- 武田信虎(のぶとら)
- 武田信玄(しんげん)
- 武田勝頼(かつより)
の三代によって支配・統治されてきました。
「甲府」という地名を考えたのは、武田信虎だとされます。
歌詞一行目の「三代」とは、この3人のことをいいます。
かつての武田氏の本拠地・躑躅ヶ崎館(甲府市)
そして元々は、武田信虎が、躑躅ヶ崎(つつじかさき)というところに館(やかた)を構えていました。
躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、現在の甲府駅の北約1kmほどの場所にその跡地があります。
また、躑躅ヶ崎館跡の隣には武田氏を神様として祀(まつ)る、武田神社(たけだじんじゃ)も存在しています。

「館」とは?
館(やかた)とは、いわばお城の小さいバージョンであり、昔のお偉い人達が居(きょ)を構えるための、豪華な建物です。
「館」には「お城」のような防御機能は無いとは思いますが、周囲に土を盛り上げて造った土塁(どるい)などを構えていたりします。
また、要害山(ようがいさん)という、いざとなったら逃げるための山を、バックに持っていたりします。

甲府の場合は、躑躅ヶ崎館の北東に要害山があり、いざとなればここに逃げ込み、山の頂上から矢などを打ち込み、敵を撃退すればよかったというわけです。
余談・補足 甲府以外の、「館」に由来する地名
※甲府とは関係ない、「館」関連で北海道の話題です。興味ある方は呼んでみてくださいね!
甲府とは関係ないですが、北海道の「函館(はこだて)」という地名も、ちょうど同時期(15世紀頃)に館(やかた)があったことに由来します。
まるで箱のような館だったので、「箱館」→「函館」というわけです。
渡島半島にあった、道南十二館
厳密には、北海道の左下に突き出た渡島半島(おしまはんとう)に、「道南十二館(どうなんじゅうにたて)」という12個の館があったことに由来します。
これらの館は、アイヌ民族と日本人が、北海道でしか採れないシャケや熊の皮と、本州でしか採れないお米(※)や漆器などを物々交換するための拠点でした(※現代では米の品種改良が進み、北海道でも道北の北端部分を除いて稲作は行われています)。
アイヌとの交易をめぐる、様々な争い
しかし、この物々交換をめぐって後にトラブルを起こし、1457年の「コマシャインの戦い」などに発展することになるのです。
簡単にいえば、本州人に有利でアイヌ人に不利なレートで物々交換していたからですね。
もちろん本州人とアイヌ人の間で歴史的に紛争が絶えなかった理由には他にも様々な要因がありますが、ここでは省略します。
アイヌ民族の商売と場所請負制について詳しくは、以下の記事でもさらにわかりやすく解説していますのでご覧ください。
戦国時代、とにかく強かった武田信玄
少し話しがズレましたが、本題に戻ります。
武田信虎(のぶとら)は、甲府の地盤を築いた人物だったのには違いないのですが、なんでも「暴君」だったともいわれています。
また、信玄との不仲もあり、信虎は甲府を追放されてしまいます。
武田氏は、2代目の武田信玄(しんげん)の時に全盛期を迎えました。
この時はあまり強く、越後(えちご。現代の新潟県)の上杉謙信(うえすぎ けんしん)と5回にわたって「川中島の戦い」で戦っています。
上杉謙信は「無敗の軍神」などのように言われていましたから、その上杉謙信と互角ということは、それだけ武田信玄が凄かったということです。
川中島の戦いについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
武田信玄は、1573年の最期はあくまで病気で亡くなったわけです。
「戦死」ではなく、あくまで「病死」によって亡くなったわけで、つまり生前は誰も武田信玄を倒すことができなかったことを意味します。
それだけ武田信玄が戦上手(いくさじょうず)だったことがわかります。
あの織田信長も、武田信玄が生きている間は太刀打ちできなかったのでした。
織田信長の勢いがついてくるのは、武田信玄が亡くなって息子の武田勝頼(かつより)の時代になってからです。
武田信玄のあとをついだ、武田勝頼
信玄の死は、仲間や周囲がやる気を無くさないように(士気が低下しないように)、何ヶ月間かはその情報が伏せられていたようです。
しかし、それも織田信長にバレてしまいます。
そして息子の武田勝頼の時代になって、それまで信玄に抑圧されてきた織田信長が、メキメキと頭角を表してくるようになるわけです。
長篠の戦い 織田信長と戦う
やがて信玄の死後の2年後の1575年、「長篠の戦い」が行われました。
「長篠の戦い」において武田勝頼の率いる騎馬隊が織田信長の鉄砲隊に破れると、武田氏は急速に衰退してゆきます。
長篠の戦いについては、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。
長篠での敗北、求心力を失い、衰退する勝頼
武田勝頼は、それ以降も何度も出兵を繰り返して予算を使いまくり、そのシワ寄せを甲斐国の民衆に対する増税で賄(まかな)おうとしたため、甲斐国からの人望も無くしてゆきます。
次々に仲間に裏切られ、尾張(名古屋)→木曽路→諏訪湖と攻めてくる織田信長の軍を防ぎきれませんでした。
また、遠江(静岡県浜松市)→伊那谷(いなだに)→諏訪湖という(現在のJR飯田線の)ルートで攻めてくる徳川軍をも防ぐことができませんでした。
諏訪湖を乗っ取られると、いよいよ甲斐国に攻めて来られるのも時間の問題となります。
躑躅ヶ崎館の廃止、新府城の破却→逃亡
こうした武田勝頼の時代に、三代続いた躑躅ヶ崎館は廃止となったのでした。
代わりに、甲府市よりちょっと北西にある新府城(しんぷじょう)に新しく城を構えます。
しかもこれもかなりのコストであり、城は結局造りかけで完成しませんでした。
天目山において、武田家の滅亡
しかしこの新府城も追っ手に捕まり、勝頼は新府城を焼き払って、甲府のはるか東の天目山(てんもくざん)へと逃げたのでした。
しかし追っ手に捕まり自害となり、ここに武田氏三代は終焉を迎えます。
天目山における武田家の終焉ついては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
躑躅ヶ崎館跡に今も残る、武田氏の栄華のあと
しかしそれも、今や夢の跡。
現在の躑躅ヶ崎館はもぬけのからであり、建物の遺構も残されておらず、歌詞にあるように、ほぼ夏草が生い茂って荒れ果てています。
現在では、わずかながらに「ここに館があったんだなぁ」と感じさせる面影はあるものの、風になびく夏草が、武田氏三代の栄華と衰退を、虚しく今に伝えます。

松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅において、岩手県・平泉(ひらいずみ)を訪ねたときに詠んだ、
夏草や 兵どもが 夢の跡
(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
という詩句・フレーズが浮かんできますね。
次回は、甲府駅から昇仙峡へ
甲府駅から躑躅ヶ崎館と武田神社の方面へは比較的バスも出ていますから、甲府駅で降りた際には是非とも訪れてみましょう。
次は、甲府の秘境・昇仙峡(しょうせんきょう)・仙娥滝(せんがたき)の話題となります!
おわりに・ちゅうい!
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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