中央線鉄道唱歌 第53番 朝日将軍・木曽義仲の育った地、宮ノ越 平氏を討てと旗揚げをした「南宮神社」

まずは原文から!

旭將軍(あさひしょうぐん)義仲(よしなか)の
育ちし里(さと)は宮の越(みやのこし)
傲(おご)る平家(へいけ)を討(う)たばやと
旗揚(はたあ)げしたる南宮社(なんぐうしゃ)

さらに読みやすく!

旭将軍(あさひしょうぐん)義仲(よしなか)の
育ちし里(さと)は宮の越(みやのこし)
傲(おご)る平家(へいけ)を討(う)たばやと
旗揚(はたあ)げしたる南宮社(なんぐうしゃ)

さあ、歌ってみよう!

♪あさひしょうぐん よしなかのー
♪そだちしさとはー みやのこしー
♪おーごるへいけを うたばやとー
♪はたあげしたるー なんぐうしゃ

(中央西線)
塩尻駅→洗馬駅→贄川駅→奈良井駅→藪原駅→宮ノ越駅→木曽福島駅→上松駅→須原駅→野尻駅→南木曽駅→坂下駅→中津川駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

藪原駅(やぶはらえき、長野県木曽郡木祖村)を出て、木曽路(きそじ)・中央西線を南下すると、宮ノ越駅(みやのこしえき、長野県木曽郡木曽町日義)に到着します。

宮ノ越駅(長野県木曽郡木曽町日義)

宮ノ越(みやのこし)は、源義仲(よしなか)が育った場所でございます。

源義仲は、あの源頼朝(よりとも)のいとこであり、朝日将軍または旭将軍(あさひしょうぐん)義仲(よしなか)、またの名を木曽義仲(きそよしなか)とも呼ばれます。

宮ノ越(みやのこし)は、あくまで義仲が「育った場所」であり、「生まれた場所」ではありません。
生まれた場所は埼玉県の秩父(ちちぶ)あたりの地域であり、幼少期に一家で木曽に移住してきたのです。
また、宮ノ越では巴御前(ともえごぜん)という幼馴染の女性も生まれています。

宮ノ越には、巴御前に由来する「巴淵(ともえぶち)」という峡谷があります。
この峡谷は、木曽川が深く入り組んだところにあり、中央西線の車窓から、窓の右側にわずかながら見ることができます。

1160年、平安時代末期
この頃は朝廷や貴族が自分たちの荘園(自力で耕した巨大な農地のこと)を略奪などから守るため、武士を深く重用していた頃でした。
それに伴い、武士の力はどんどん強くなっていった時期でした。強くなりすぎて、貴族と主従関係や力関係が徐々に逆転し始めている頃でもありました。
また平安時代後期は、あの藤原道長(ふじわらのみちなが)によって始められた摂関政治(せっかんせいじ)も、なんと100年にも及んで続いていた時期でした。

しかし、その摂関政治も、平安時代の終わりには途絶えることになりました。
なぜなら、藤原道長の血筋の後継ぎの子どもが生まれなかったからです。
これによって、摂関政治に不満を持っていた他の貴族にとってはチャンスとなります。
やがて「院政」といって、天皇自身はその座を退き、後継(後任の天皇)は息子などに任せて、自分は「院」という場所で仕切って事実上の支配者となる政治の形式が、平安時代後期に始まりました。

院政」のメリットは、天皇などのトップに責任を押し付けておきながら、自分が影のトップ・権力者になれることです。こうすれば、何か問題があっても自分が批判の矢面に立たされることはありません。
現代でも、自分が組織のトップを退いて息子に後を継がせておきながら、実際は裏で息子(トップ)に指図するという影の支配者である、といった事が行われる場合があります。
これを俗に「院政(を敷く)」と揶揄される場合があります。

話が少しズレましたが、平安後期にこの院政を行っていた者同士が権力争いするようになったのです。
そのため、片方は「源氏」の武士を、もう片方は「平氏」の武士を味方に付け、争いが勃発します。
これを1156年の「保元の乱(ほげんのらん)」といいます。

ちなみに源氏も平氏も、元々は朝廷から信頼されていた武士たちでした。
というのも、平氏は桓武天皇の子孫であり(桓武平氏)、源氏は清和天皇の子孫であり(清和源氏)、どちらも先祖が天皇に辿り着くという高貴な血筋の家系だったからです。

そして1159年・1160年の「平治の乱」。ついに源頼朝の父である源義朝(よしとも)が平氏に敗れ、息子の頼朝も伊豆に流罪となってしまいました。
この頼朝が流れ着いた場所は蛭ヶ小島(ひるがこじま)といい、伊豆箱根鉄道駿豆線(すんずせん)の韮山駅(にらやまえき、静岡県伊豆の国市)から向かうことができます。

頼朝はここで後に妻になる北条政子と出会っています。

頼朝が20年間を伊豆の国で過ごした後、1180年の以仁王の挙兵(もちひとおうのきょへい)において、全国の源氏に平氏打倒の命令が下ります。
これに伴い頼朝も挙兵しましたが、神奈川県の南西・真鶴(まなづる)あたりで起きた「石橋山の戦い」で敗れてしまいます。
敗れた頼朝は真鶴を船出して、相模湾と東京湾を渡り、房総半島の安房勝山駅(あわかつやまえき、千葉県安房郡鋸南町)のあたりに上陸します。

また、義仲も1180年の以仁王(もちひとおう)の呼びかけに応じて、今回のメインである木曽・宮ノ越(みやのこし)にて挙兵します。
宮ノ越には南宮神社(なんぐうじんじゃ)という神社があり、義仲はここで「(おご)り高ぶる平家を討て」と旗揚げ(はたあげ)したのでした。
よーし、平氏を倒すぞー!オーッ!」みたいなイメージですね。

義仲は、北陸・福井県の燧城(ひうちじょう)にて一旦敗北しましたが、富山県と石川県の県境にある倶利伽羅山(くりからやま)の戦いで、なんと「500の牛に火を付けて」平氏軍を脅かし、平家を撃退しました。これを「火牛の計(かぎゅうのけい)」といい、倶利伽羅峠のある津幡町(つばたちょう)の名物になっています。
その後、平氏軍を追って石川県の名前の由来にもなった手取川(てとりがわ)を渡ってゆき、北陸地方をどんどん南下し、近江国(滋賀県)に入ります。
そして比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を武力ではなく交渉で突破しました。

やがて義仲は、ここに念願の京都入りを果たします。

義仲は東の方向からまるで朝日のように登場したため、「朝日将軍(あさひしょうぐん)」「旭将軍(あさひしょうぐん)」の異名がつきました。

さて、見事に京都入りした義仲の運命はどうなるのか。
続きは、次回お話しします。

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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