まずは原文から!
都(みやこ)に入(い)りし甲斐(かい)もなく
霸業(はぎょう)空(むな)しくくづほれし
地下(ちか)の恨(うら)みやこむるらむ
鐘(かね)の音(ね)さびし徳音寺(とくおんじ)
さらに読みやすく!
都(みやこ)に入(い)りし甲斐(かい)もなく
覇業(はぎょう)空(むな)しくくずおれし
地下(ちか)の恨(うら)みやこむるらん
鐘(かね)の音(ね)さびし徳音寺(とくおんじ)
さあ、歌ってみよう!
♪みやこにいーりし かいもなくー
♪はぎょうむなしく くずおれしー
♪ちーかのうらみや こむるらんー
♪かねのねさびしー とくおんじー
(中央西線)
塩尻駅→洗馬駅→贄川駅→奈良井駅→藪原駅→宮ノ越駅→木曽福島駅→上松駅→須原駅→野尻駅→南木曽駅→坂下駅→中津川駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
旭将軍・源義仲が育った、木曽・宮ノ越
列車は既に、長野県木曽郡木曽町の、宮ノ越駅(みやのこしえき)に到着しています。
宮ノ越(みやのこし)は前回解説した通り、源平合戦で活躍した朝日将軍(あさひしょうぐん)義仲(よしなか)の育った場所になります。
朝日将軍(あさひしょうぐん)義仲(よしなか)こと、源義仲(みなもとの よしなか)は、前回も解説した通り、源平合戦で活躍した人物です。木曽で育ったので、木曽義仲(きそよしなか)とも呼ばれます。
1180年の「以仁王(もちひとおう)の挙兵」において全国の源氏が挙兵すると、義仲も挙兵しました。
やがて北陸の倶利伽羅山(くりからやま)などの戦いに次々に勝利すると、 念願の京都に入りました。
詳しくは、前回の記事を御覧ください。
中央線鉄道唱歌 第53番 朝日将軍・木曽義仲の育った地、宮ノ越 平氏を討てと旗揚げをした「南宮神社」
京都に入る義仲 まるで朝日のように登場
京都に入ったとき、義仲はまるで東の朝日のように登場したので、義仲は「朝日将軍(旭将軍)」の異名がつきました。
京都に留まるもトラブル続き・・・やがて京都を追われる
しかし、京都に入ってからが問題でした。
義仲が入ったときの京都は、深刻な食料不足でした。
そこへ義仲の軍隊が大量におしかけたため、京都の食料不足はさらに深刻化しました。
また、皇位継承問題(次の天皇を誰にするかという問題)において、義仲は自分にとって都合のいい天皇をゴリ推ししました。
しかしこれでは「平氏の二の舞になる」として、周りの多くの人から煙たがられました。
また義仲は、後白河法皇と揉めててしまい、法皇をお寺に閉じ込める(幽閉する)といった暴挙に出るなど、様々な奇行が目立つようになりました。
こうした義仲の問題行動は、京都で多くの人から嫌われ、人望をなくし、味方が次々に離れていき、義仲は弱体化してゆきました。
この義仲の堕落ぶりをチャンスとみた源頼朝(よりとも)は、鎌倉から京都に向けて兵を送ります。
なぜ源氏同士で争うの?と思うかもしれませんが、当時は身内同士で争うことはよくありました。
それは手柄を独り占めしようとしたり、権力争いしたり、兄弟だと(例えば)「兄だけ優遇されるのに、弟は不遇な扱いを受けて不平不満を持つ」など、身内同士で争う動機は挙げればきりがありません。
このように、「源平合戦」とはいっても必ずしも源氏VS平氏ではなく、義仲VS頼朝や義経VS頼朝のように源氏同士の戦いも含まれています。
そのため、「源平合戦」という名前は正確ではなく、「治承・寿永の乱(じしょうじゅえいのらん)」という呼び方の方が正しい、とする説もあります。
治承・寿永(じしょうじゅえい)とは、当時の元号のことです。
「宇治川の戦い」で敗北 命からがら京都を脱出
いとこの頼朝によって兵を送られた義仲は、京都の宇治川(うじかわ)で迎え撃ちます。
ここで、頼朝軍の佐々木四郎(ささき しろう)という武将が、手柄が欲しいがために我先にと突っ込んだのが、「佐々木四郎の先陣」です。
一方の義仲は、既に多くの兵士や味方を失っており、圧倒的不利な状況で戦って宇治川を突破され、敗北しました。
この「宇治川の戦い」で完全敗北した義仲は、命からがら京都を脱出します。
そして、かつて倶利伽羅峠(くりからとうげ)でも大勝したことのある北陸地方への逃亡を試みます。
北陸への逃亡を図るも、滋賀県大津市・粟津にて滅ぶ
しかし、滋賀県大津市(おおつし)の琵琶湖に出て来たあたりで、追っ手に捕まってしまいます。
ここで、同じ宮ノ越(みやのこし)で育った幼なじみかつ愛人の女性・巴御前(ともえごぜん)とはここで分かれてしまい、巴御前はここで歴史の舞台から姿を消します。
やがて義仲は、大津市の粟津(あわづ)という場所において、深い田んぼに足を取られてもがいているところを、無名の兵士に矢で撃たれて亡くなってしまいました。
鉄道唱歌 東海道編 第41番でも
「粟津(あわづ)の松にこと問えば 応(こた)えがおなる風の声
朝日将軍義仲の 滅びし深田(ふかた)はいづかたぞ」
と歌われていますね。
義仲の恨みを弔う「徳音寺」
木曽の宮ノ越(みやのこし)には、義仲の恨みを弔(とむら)うための徳音寺(とくおんじ)というお寺があります。
義仲を尊敬する人は、今でも多くいる
木曽義仲を尊敬する人は多くいます。
例えば、宮崎県延岡市(のべおかし)を本拠地とする旭化成(あさひかせい)という会社も、「朝日(旭)将軍」が由来となっています。
私(筆者)も、義仲を尊敬しております。というか、義仲の性格と私はよく似ているんですよね。
宮ノ越には、木曽義仲に関するミュージアムである「義仲館」があります。
義仲ファンの方は、是非とも寄ってみましょう。
次は、木曽福島に止まります!
注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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