中央線鉄道唱歌の歌詞(木曽義仲の都入りと最期など)について、鉄道に詳しくない方にもわかりやすく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
霸業空しくくづほれし
地下の恨みやこむるらむ
鐘の音さびし徳音寺
さらに読みやすく!
覇業空しく くずおれし
地下の恨みや こむるらん
鐘の音さびし 徳音寺
さあ、歌ってみよう!
♪はぎょうむなしく くずおれしー
♪ちーかのうらみや こむるらんー
♪かねのねさびしー とくおんじー
塩尻駅→洗馬駅→贄川駅→奈良井駅→藪原駅→宮ノ越駅→木曽福島駅→上松駅→須原駅→野尻駅→南木曽駅→坂下駅→中津川駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
旭将軍・源義仲(木曽義仲)が育った、木曽・宮ノ越
列車は既に、長野県木曽郡木曽町の、宮ノ越駅(みやのこしえき)に到着しています。

宮ノ越からの木曽川の眺め(長野県木曽郡木曽町)
宮ノ越(みやのこし)は、前回解説した通り、源平合戦で活躍した旭将軍・義仲の育った場所になります。
旭将軍・義仲こと、源義仲は、前回も解説した通り、源平合戦で活躍した人物です。
木曽で育ったので、木曽義仲とも呼ばれます。
1180年の「以仁王(もちひとおう)の挙兵」において全国の源氏が挙兵すると、義仲も挙兵しました。
やがて北陸の倶利伽羅山(くりからやま)などの戦いに次々に勝利すると、 念願の京都に入りました。
詳しくは、前回の記事を御覧ください。

木曽義仲の京都入り~滋賀・粟津での滅亡まで
まるで朝日のように、京都に入る義仲
京都に入ったとき、義仲はまるで東の朝日のように登場したので、義仲は「朝日将軍(旭将軍)」の異名がつきました。
京都に留まるもトラブル続き・・・やがて京都を追われる
大勢の兵で京都におしかけ、京都は深刻な食糧難に
しかし、京都に入ってからが問題でした。
義仲が入ったときの京都は、深刻な食料不足でした。
そこへ義仲の軍隊が大量におしかけたため、京都の食料不足はさらに深刻化しました。
皇位継承問題に難癖、嫌われ者に
また、皇位継承問題(次の天皇を誰にするかという問題)において、義仲は自分にとって都合のいい天皇をゴリ推ししました。
しかしこれでは「平氏の二の舞になる」として、周りの多くの人から煙たがられました。
後白河法皇を幽閉という暴挙に
また義仲は、後白河法皇と揉めててしまい、法皇をお寺に閉じ込める(幽閉する)といった暴挙に出るなど、様々な奇行が目立つようになりました。
こうした義仲の問題行動は、京都で多くの人から嫌われ、人望をなくし、味方が次々に離れていき、義仲は弱体化してゆきました。
義仲の堕落ぶりに、頼朝が付け込む
この義仲の堕落ぶりをチャンスとみた源頼朝(よりとも)は、鎌倉から京都に向けて兵を送ります。
なぜ源氏同士で争うの?と思うかもしれませんが、当時は身内同士で争うことはよくありました。
それは手柄を独り占めしようとしたり、権力争いしたり、兄弟だと(例えば)「兄だけ優遇されるのに、弟は不遇な扱いを受けて不平不満を持つ」など、身内同士で争う動機は挙げればきりがありません。
源平合戦は、源氏同士の争いもあった
このように、「源平合戦」とはいっても必ずしも源氏VS平氏ではなく、義仲VS頼朝や義経VS頼朝のように源氏同士の戦いも含まれています。
そのため、「源平合戦」という名前は正確ではなく、「治承・寿永の乱(じしょうじゅえいのらん)」という呼び方の方が正しい、とする説もあります。
治承・寿永(じしょうじゅえい)とは、当時の元号のことです。
「宇治川の戦い」で敗北 命からがら京都を脱出
こうして、いとこの頼朝によって兵を送られた義仲は、京都の宇治川(うじかわ)で迎え撃ちます。
ここで、頼朝軍の佐々木四郎(ささき しろう)という武将が、手柄が欲しいがために我先にと突っ込んだのが、「佐々木四郎の先陣」です。
一方の義仲は、既に多くの兵士や味方を失っており、圧倒的不利な状況で戦って宇治川を突破され、敗北しました。
宇治川の戦いについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

宇治川での敗北 命からがら京都を脱出
この「宇治川の戦い」で完全敗北した義仲は、命からがら京都を脱出します。
そして、かつて倶利伽羅峠(くりからとうげ)でも大勝したことのある北陸地方への逃亡を試みます。
木曽義仲の最期 北陸への逃亡を図るも、滋賀県大津市・粟津にて滅ぶ
しかし、滋賀県大津市(おおつし)の琵琶湖に出て来たあたりで、追っ手に捕まってしまいます。
ここで、同じ宮ノ越(みやのこし)で育った幼なじみかつ愛人の女性・巴御前(ともえごぜん)とはここで分かれてしまい、巴御前はここで歴史の舞台から姿を消します。
やがて義仲は、大津市の粟津(あわづ)という場所において、深い田んぼに足を取られてもがいているところを、無名の兵士に矢で撃たれて亡くなってしまいました。
鉄道唱歌 東海道編 第41番でも
朝日将軍義仲の
滅びし深田(ふかた)はいづかたぞ
と歌われていますね。
粟津については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

木曽義仲の恨みを弔う「徳音寺」
木曽の宮ノ越には、義仲の恨みを弔うための徳音寺というお寺が存在します。
今でも、木曽義仲を尊敬する人は多く存在する
木曽義仲を尊敬する人は多くいます。
例えば、宮崎県延岡市(のべおかし)を本拠地とする旭化成(あさひかせい)という会社も、「朝日(旭)将軍」が由来となっています。
延岡市と旭化成については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

私(筆者)も、義仲を尊敬しております。というか、義仲の性格と私はよく似ているんですよね。
宮ノ越には、木曽義仲に関するミュージアムである「義仲館」があります。
義仲ファンの方は、是非とも寄ってみましょう。

宮ノ越駅(長野県木曽郡木曽町日義)
次は、木曽福島に止まります!
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