中央線鉄道唱歌 第57番 木曽五木の歴史 江戸や伊勢神宮にも使われた高貴な木材とは

まずは原文から!

五木(いつき)の翠(みどり)鬱葱(うっそう)と
御料(ごりょう)の林 枝(えだ)榮(さか)え
伊勢(いせ)の内戸(うちと)の御(み)あらかに
奉行(ぶぎょう)は運ぶ宮(みや)ばしら

さらに読みやすく!

五木(いつき)の緑(みどり)鬱葱(うっそう)と
御料(ごりょう)の林 枝(えだ)榮(さか)え
伊勢(いせ)の内戸(うちと)の御(み)あらかに
奉行(ぶぎょう)は運ぶ宮(みや)ばしら

さあ、歌ってみよう!

♪いつきのみーどり うっそうとー
♪ごりょうのはやし えださかえー
♪いーせのうちとの みあらくにー
♪ぶぎょうははこぶ みやばしらー

(中央西線)
塩尻駅→洗馬駅→贄川駅→奈良井駅→藪原駅→宮ノ越駅→木曽福島駅→上松駅→須原駅→野尻駅→南木曽駅→坂下駅→中津川駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

列車は、長野県木曽郡木曽町(きそまち)あたりを走行中になります。

木曽の山々(長野県)

歌詞にある「五木(いつき)の緑」とは、いわゆる木曽五木(きそごぼく)のことをいいます。

木曽五木(きそごぼく)とは、木曽地域で採れる「ヒノキ(檜)」を始めとして、江戸時代より伊勢神宮江戸(東京)の家屋(かおく)などで使われてきた木材であります。

また木曽五木は、木曽を管轄していた尾張藩(おわりはん)から、「伐採してはならない」として厳しく統制されていた木材でもあります。

尾張藩とは、現在の名古屋市を中心に支配していた藩です。名古屋城がその拠点(藩庁)であり、木曽地域も尾張藩の管轄下にありました。
尾張藩は、いわゆる「徳川御三家(ごさんけ)」の1つである、「尾張徳川家」によって支配されていました。
つまり、徳川家康の約10人ほどいた子どもの一人が、尾張に派遣され、そこから代々支配してきたというイメージになります。

「徳川御三家」は、ほかに和歌山の「紀州徳川家」、茨城県の「水戸徳川家」があります。

以上を踏まえると、木材がたっぷり採れるこの木曽地域は、実質上徳川家の支配下にあったということができます。

ではなぜ、尾張藩は木曽五木の伐採を取り締まったのか。

戦国時代が終わると全国各地の町は戦禍により荒廃しており建て直す必要があったのと、また江戸時代以降の町の発展のために大量の木材が必要となりました。
そのために大量の木材が必要となり、木曽では多くの木々が伐採されてしまいました。

江戸時代の建物は大半が木造建築であり、そういった家屋は火事が起きるたびに、何回も木造家屋が消失し、再建のたびに木材の必要に迫られてきたわけです。
しかも江戸の家屋は狭い土地に密集していますから、一軒でも燃えると次から次へと隣の家に延焼(えんしょう)していきます。
火事と喧嘩は江戸の花」といわれるように、江戸の町は燃えては建てて、燃えては建てて・・・の繰り返しでした。
このため、江戸時代に何度も火事が起こるたびに、大量の木曽のヒノキなどの木材が必要になっていたわけです。

そのため、一時期には伐採が過剰に行われ、木曽の山は本当に「禿げ山」みたいな感じになったようです。

こうして木々を失った山は、保水能力を失ってしまい、ひとたび大雨が起きると簡単に洪水が起きてしまうのが問題になってきます。

こうした様々な事情により、木曽五木のみだりな伐採は、尾張藩によって規制されてきたのでした。
木1つ、首1つ」と言われたように、木を無断で一本取ったら即死刑みたいな感じで、とても重い厳罰が科されたのです。

また、時代とともに法律などによっても伐採の基準が厳しく規制されてくるのです。 

木曽地域の林業は、木曽川の開削(かいさく)を行い、自然のゴツゴツした(しかも川幅が広くなったり、狭くなったりする)川を船が通りやすいようにし、それによって木材を載せた船が通りやすくなりました。
その船が大量の木材等を載せて、江戸・伊勢方面に運んでたことも考えられます。
江戸方面へは、木曽川の下流から伊勢湾に出て、そこから太平洋を通って舟で運んだか、あるいは険しい甲州街道を通って運んでいたのでしょう。

そして、木曽の「ヒノキ」や「五木」は、江戸幕府に関連深い尾張藩によって直接管理・運営されてきました。
つまり、木曽は尾張藩の直轄地(ちょっかつち)でした。
御料林(ごりょうりん)とは、幕府または政府などの公的機関が直接管理運営する林、ということになります。

幕府の直接管理する「直轄地(天領)」には、江戸幕府から(徳川家に近しい)信頼できる人物(武士)を派遣されるという、「奉行(ぶぎょう)」という役職があります。

これは佐渡奉行(さどぶぎょう)や木曽材木奉行(きそざいもくぶぎょうしょ)、長崎奉行(ながさきぶぎょう)など、幕府や徳川家の直接管理(いわゆる「直轄地」「天領」)とされた地域には、幕府から命じられた(信頼できる)奉行が派遣されることになるのです。

ではなぜ幕府はこういった場所に「奉行」を派遣し、「藩」を置かず、幕府が直接する「直轄地」にしたのか。

それは、単純に「儲かる」「幕府への反逆を防ぐ」などの目的があったからでしょう。

まず、例えば佐渡金山であれば、金がザクザク出てくるのだから単純に儲かります。
しかしこれが直轄地ではなく「佐渡藩」だとすると、採れたことによる税金(年貢)は幕府の直接の利益ではなく、藩に「中抜き」されて納められます。
つまり、佐渡金山・労働者・税金などを管理する仕事をするのが「佐渡藩」であれば、その報酬として「佐渡藩」は「仲介手数料」と言う形で中抜きして、その差額の税金を幕府に納めることになります。
これでは幕府の収入は下がります。

まずこれが直轄地にせずに「藩」を置くことの、幕府側のデメリットの1つだと考えられます。

もう一つは、徳川幕府のセキュリティ上の問題です。
佐渡は「金」で儲かり、木曽は「木材」で儲かり、長崎は「貿易」で儲かります。
だとすると、(ありえないですが)もし佐渡藩・木曽藩・長崎藩などが実在したら、多大な財力をつけ、多くの武器を購入し、多くの兵士を雇えます。
特に長崎は外国に近いですから、幕府を裏切って外国と仲良くし、外国からたくさん武器や購入したり、外国からたくさん兵士を雇うことも考えられます。
そして佐渡藩・木曽藩・長崎藩が団結して江戸に攻めてきたら、もはや江戸幕府はお手上げです。徳川家の滅亡にも繋がってしまいます。
もちろんこんな戦争になれば、国内で多くの命が失われることも意味します。
(実際にこれに近いことが、幕末の薩摩藩・長州藩によって起こされました。)

これがもう一つの、幕府の直轄地にしないことのデメリットです。

江戸幕府は江戸時代、いかに各地の藩が反乱を起こさないか、財力を下手につけて反乱を起こさないか、逆に藩を締め付け過ぎて欲求不満を増大させないようにするにはどうすればいいか、などの、あの手この手の工夫をしていたわけですね
そういう意味では江戸時代は、反乱や戦乱の比較的多い日本の歴史の中では、かなり安定的にまとまっていた時代でもあります(江戸時代は「天下泰平(てんかたいへい)の世の中」とも言われていました)。

話が長くなりましたが、「奉行」とは、人民・働く人・税金・治安などを取り締まる役であり、歌詞によればその奉行が運んでいたのが、伊勢神宮の柱となる木曽の木材ということになります。

今回は木材の話題ばかりになり恐縮ですが、現代の我々の生活でも当たり前に存在する木材が、どんな歴史を辿ってきたのかに関する皆さんの興味関心につながれば幸いです。

次は、「木曽のかけはし」「寝覚めの床」の話題となります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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