山陰鉄道唱歌の歌詞を、わかりやすく解説しています!
鉄道旅行を楽しむためのノウハウを、初心者の方にも楽しめるよう解説してゆきます!
↓まずは原文から!
早き流れをながむれば
舟は矢よりも更に疾く
見る見る岩にかくれ行く
さらに読みやすく!
早き流れを ながむれば
舟は矢よりも 更に疾く
見る見る岩に かくれ行く
さあ、歌ってみよう!
♪はやきながめをー ながむればー
♪ふーねはやよりも さらにとくー
♪みるみるいわにー かくれゆくー
京都駅→二条駅→嵯峨嵐山駅→亀岡駅→園部駅和知駅→綾部駅→福知山駅→上川口駅→下夜久野駅→上夜久野駅→梁瀬駅→和田山駅→養父駅→八鹿駅→江原駅→豊岡駅→玄武洞駅→城崎温泉駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
嵯峨嵐山を出て、トンネルをくぐり、保津峡駅へ
嵐山を過ぎてトンネルをくぐると、保津川の景色とともに、保津峡の険しくも美しい渓谷が姿を現します。

やがて、
- 保津峡駅(ほづきょうえき、京都府亀岡市保津町)
に着きます。

保津峡駅は、山と山に囲まれた険しい谷にできており、駅と線路の下に保津川が流れます。
保津川は、京都市内では桂川と名前を変えます。
このように、同じ川でも地域や県によって川名が変化することはよくあります。
例
- 山梨県→桂川、神奈川県→相模川
- 奈良県→吉野川、和歌山県→紀ノ川
江戸時代、角倉了以が開削した保津川
保津川は、江戸時代に 角倉了以 という豪商が開削したことで知られます。
豪商とは、簡単に言えば「お金持ち商人」のことです。
江戸時代、大きな利益を挙げた商人です。
江戸時代は争いのない平和な世の中だったため、武士が日本全体に貢献できるようや成果を出すことは、むしろなかなか難しいものでした。
いわば、武士にとってはそこまで活躍の機会が多いわけではなく、年収が上がらない時代でした。
また、「文武両道」といって、武術だけでなく、学業も修めていないといけない時代にもなっていました。
もしも大きな戦(いくさ)があって、それに大勝利した武士であれば、大きな給料・恩賞・やりがいを手にできたかもしれません。
しかし平和な世の中だと、それは難しいのでした(いや、むしろ世の中平和なことに越したことはないのですが)。
むしろ江戸時代は、大きな利益を挙げる商人の方が、よほど大きな力と財力を持っていました。
そのため、武士が商人に借金したりと、身分の上下関係が置き換わってしまうほどでした。
開削(かいさく)とは、自然のゴツゴツした川を削って、舟を通りやすくすることです。
保津川の開削によって、大きな船を通すことが可能となりました。
川は自然の状態ではゴツゴツしていますから、そのままでは舟を満足に通すことができません。
そのため、角倉了以のような方(金持ち)が私財を投入して、保津川を開削して、舟を通りやすくしたのです。
これによって、舟にたくさんの荷物を載せて運ぶことができます。
昔は長距離トラックや貨物列車などありませんでしたから、舟に荷物を載せて運ぶというやり方が効率よかったのです。
特に、京都の西側には亀岡市(かめおかし)という街があります。
亀岡市は「京都の台所」と呼ばれており、「京野菜(きょうやさい)」がたくさん採れました。
そのため、お偉いさんたちが食べる高貴な食材を、京都へ供給していくためにも、川の存在は重宝されてきたことでしょう。
「京野菜」は、京都の料亭で使われる高級野菜です。

保津川のレジャー「保津川下り」
保津川のレジャーに、保津川下り(ほづがわくだり)というものがあります。
それは舟に乗って保津川を勢いよく下るという行為を楽しむものです。
保津川は、歌詞にある通り
であるため、とてもスリル満点だと思います。
しかしそれだけにリスクも高く、救命胴衣の着用が全員に義務付けられるなど、事前に様々な確認が必要です。
次は、丹波方面へ
保津峡駅を出てさらにトンネルをくぐると、丹波(たんば)地域の
- 亀岡(かめおか)
- 園部(そのべ)
方面へ向かってゆきます!
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