山陰鉄道唱歌の歌詞を、わかりやすく解説しています!
鉄道旅行を楽しむためのノウハウを、初心者の方にも楽しめるよう解説してゆきます!
↓まずは原文から!
工兵隊も見て行かん
昔語りの大江山
北へ數里の道の程
さらに読みやすく!
工兵隊も 見て行かん
昔語りの 大江山
北へ数里の 道の程
さあ、歌ってみよう!
♪こうへいたいもー みてゆかんー
♪むーかしがたりの おおえやまー
♪きーたへすうりの みちのほどー
京都駅→二条駅→嵯峨嵐山駅→亀岡駅→園部駅和知駅→綾部駅→福知山駅→上川口駅→下夜久野駅→上夜久野駅→梁瀬駅→和田山駅→養父駅→八鹿駅→江原駅→豊岡駅→玄武洞駅→城崎温泉駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
天橋立の観光を終わり、福知山へ
日本三景・天橋立(あまのはしだて)の観光を終えると、再び
- 綾部駅(あやべえき、京都府綾部市)
に戻ります。
現代の行程ならば、
になります。
もちろん、単に天橋立から福知山まで移動することが目的であれば、宮津駅から「宮福線」に乗れば、西舞鶴駅と綾部駅を経由せずに、ダイレクトに福知山駅まで来ることができます。
綾部駅を出て、山陰本線を少し西へ進むと、窓の景色はだんだんと都会的な様相(ようそう)を呈(てい)してきます。
立派な城の天守を右にして、やがて
- 福知山駅(ふくちやまえき、京都府福知山市)
に到着します。

福知山城(山陰本線)

福知山駅(京都府福知山市)
福知山線との合流点・福知山駅
福知山駅(ふくちやまえき)は、福知山線(ふくちやません)との分岐点でもあります。
明治時代に大阪と舞鶴(軍港)を結ぶための路線である、
- 「阪鶴鉄道(はんかくてつどう)」
も、福知山を経由していました。
1907年の「鉄道国有化」をもって、阪鶴鉄道のうち、
- 神崎(かんざき:現在の「尼崎(あまがさき)」)
- 福知山
のそれぞれを結ぶ区間は、「福知山線」と改められ、現在に至ります。
山陰鉄道唱歌が出来たのは明治時代後期の1911年なので、
の区間は、まだ「阪鶴鉄道」と呼ばれていたものと思われます。
ただ実際には、この区間も官設鉄道のものでした。
しかし、阪鶴鉄道がこの区間を国からレンタルしており、
という形をとり、福知山駅での乗り換えの手間を省いていたようです。
福知山線は、
- 宝塚(たからづか)
- 池田(いけだ)
- 伊丹(いたみ)
を経由して、兵庫県の尼崎(あまがさき)へと至ります。
明智光秀の本拠地・福知山市
京都府福知山市(ふくちやまし)は、
- 明智光秀(あけちみつひで)
の本拠地として知られます。
明智光秀(あけち みつひで)は、言わずと知れた、織田信長を1582年の
- 「本能寺の変」
で自害に追いやった人物として知られます。
生まれは岐阜県・美濃国(みののくに)であり、
- 恵那市(えなし)より南の明知鉄道(あけちてつどう)沿線
- または、可児市(かにし)の明智駅(あけちえき)
あたりが、諸説ありますが生誕地の候補として挙げられています。
また、明智光秀は2020年のNHKの大河ドラマ「麒麟がくる(きりんがくる)」の主人公にもなりました。
今でも明智光秀は、織田信長に負けず劣らずで一定数の人気を誇っています。
明智光秀は、元々は織田信長の家臣でした。
中国地方を支配していた毛利家の警戒のために、織田信長に命じられて、福知山を一帯とした丹波国(たんばのくに)の地域の支配を任されていました。
これを「丹波平定(たんばへいてい)」といいます。
丹波国(たんばのくに)とは、京都府北部のことをいいます。
ちなみに、京都府南部のことは山城国(やましろのくに)といいます。
ではなぜ明智光秀が、福知山をはじめとする丹波の支配を任されたのか。
それは恐らく、もし毛利家が山陰地方を経由して京都に攻めてくる、といったケースを想定し、
だと思われます。
「本能寺の変」急に信長へ離反した、明智光秀
そして1582年、同じく織田信長の部下だった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、中国地方の毛利家と戦っている最中でした。
その応援のために、織田信長も安土城(琵琶湖の東)を出発、1582年6月1日、京都の本能寺に入って宿泊していました。
本能寺は、これまでも織田信長の宿泊施設として利用されてきたという実績がありました。
明智光秀も、6月1日の夜は京都の少し西の亀山城(現在の亀岡市)に滞在していました。
明智光秀の軍が中国地方へ向かうには、まず亀岡市を南東に進んでゆき、そこから京都市を流れる桂川(かつらがわ)まで出て来きます。
そこから、西の大阪方面へ進んでいく必要があるわけです。
実際、深夜から早朝にかけて、明智光秀の軍は桂川に着きました。
しかし、こともあろうに明智光秀はここで西へ進まず、急にこんなことを言いだしました。
そう言い放つと、京都の(朝方、まだ織田信長が寝ている)本能寺に向けて、明智光秀の軍は進行方向を変えます。
1582年6月2日の早朝、本能寺はあっという間に明智光秀の軍に包囲され、激しい物音で織田信長は目を覚ましました。
織田信長 「謀反だな?誰の仕業だ!」
側近 「明智光秀の軍かと・・・」
織田信長 「是非に及ばず(仕方ない)。」
織田信長はそう言って、やむを得ず弓を引っ張り、大勢の明智軍と戦いはじめました。
しかし、いくら織田信長とはいえども、大勢の軍を前に弓だけで戦うのは無謀すぎます。
ついにその弓も使用不能となり、今度は槍を持って戦おうとします。
しかし自身が体に攻撃を受けて負傷し、織田信長は負けと最期を覚悟して、奥の部屋に閉じこもりました。
そして、側近の女性たちに
「お前達は逃げるがよい!」と言って外へ逃がしました。
織田信長が閉じ込められた本能寺は、瞬く間に燃え上がり、とうとう織田信長が籠もっている奥の部屋も炎に包まれました。
織田信長は死の直前、「敦盛(あつもり)」という舞踊を炎の中で舞っていたといいます。
敦盛(あつもり)とは、源平合戦で神戸・須磨(すま)の一ノ谷(いちのたに)で敗れた平敦盛(あつもり)のことす。
織田信長は、「敦盛」の舞踊が大好きだったといいます。
ここに、数多くの戦いを勝ち抜けてきた戦国のスーパースター・織田信長は、明智光秀の手によって、悲劇の最期を迎えたのでした。
ほんの一瞬の栄光も束の間 秀吉に「山崎の戦い」で討たれる
その後、中国地方で戦っていた羽柴秀吉は主君・織田信長の死を知り、毛利氏と和解して、急いで京都に引き返します。
そして大阪府と京都府の間で起こった「山崎の戦い」において、秀吉は明智光秀を倒しました。
ここに、明智光秀もその最期を迎えることとなったのでした。
ちなみに、これは私が昔知人から伺った話ですが、以前テレビに明智光秀の末裔(まつえい)の方と、織田信長の末裔の方が出演して対面し、明智さんが織田さんに対して「すみません・・・」と仰っていたそうでした(^^;)
さすがに子孫に罪はありませんよね(^^;
かつて軍隊のインフラを支えた「工兵隊」
歌詞にある「工兵隊」とは、軍隊の様々なインフラを造る部署です。
いわゆる、自衛隊でいうところの施設科(しせつか)にあたります。
つまり、戦場で「橋」を造ったり、簡単な基地や住居などを造ったりする部門です。
自衛隊は、戦場において最早(もはや)味方の補給が望めない状態に陥ったときにでも生存できるよう、サバイバルみたいな訓練を受けています。
つまり、食べられそうな野草を探して調理したり、橋をかけたり、寝るための住居を建ててりする知識や技術を持っているのです。
こうした自衛隊のノウハウが、震災などの災害支援に役立っているのです。
福知山の北にそびえる「大江山」
大江山(おおえやま)とは、福知山の北にある標高832mの山であり、歌詞にある通り北へ約10kmほど離れた場所にあります。ちなみに「一里=約4km」です。

大江山には、なんでも鬼の伝説があります。
その鬼とは、酒呑童子(しゅてんどうじ)と言われ、酒が大好きな(けど怖い)鬼といわれます。


次は、
- 和田山(わだやま)
- 養父(やぶ)
- 豊岡(とよおか)
方面へ向かってゆきます!
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