【埼玉】浦和宿・調神社・調公園に行ってきた!浦和・見沼の歴史もわかりやすく解説

埼玉県さいたま市における浦和宿・調神社・調公園および、浦和・見沼の歴史についても、わかりやすく解説してゆきます!

  1. 都心から気軽に行ける、埼玉日帰り観光
  2. 東北本線・浦和駅(さいたま市)に到着
  3. 浦和に浦はない?大昔の浦和は「海」だった
    1. かつて浦和にあった奥東京湾
    2. かつてさいたま市の位置に存在した「見沼」
      1. 「浦和」と「見沼区」の由来となった、見沼 今は干拓で存在しない
      2. 今では存在しない「見沼」
      3. かつては奥東京湾の海水が来ていた
      4. 海岸線が後退していった奥東京湾 陸地が増えて「沼」となった
      5. 氷川神社との関係?
    3. 江戸時代の見沼の干拓
      1. 人口が爆発的に増加・大量のお米が必要となった江戸時代
      2. 田んぼに、水を引っ張ってくるための工夫
      3. 八丁堤(はっちょうづつみ)とは?
      4. 灌漑によって、農地に水を引っ張ってくるための工夫がなされた
      5. 「見沼たんぼ」の完成
      6. 水を引っ張ってくるだけでなく、「舟のルート」としても使われた芝川
      7. 見沼地域は、農業が盛んな肥沃な地域に発展
    4. 戦国時代にかけて、戦場になった浦和
      1. 戦国時代、関東でも様々な戦乱が多かった
      2. 戦国時代の関東地方における、主な争いの構図
      3. 上杉氏が足利氏に討たれる「享徳の乱」
      4. 古河公方と関東管領の対立の場ともなった、現在のさいたま市の地域
      5. 鎌倉府とは?
      6. 鎌倉府のトップ・鎌倉公方
      7. 関東管領とは?
      8. さいたま市の北東・岩槻城
      9. 太田道灌とは?
      10. 関東地方における上杉氏の衰退
      11. 勢いづく後北条氏
    5. 1546年 川越夜戦
      1. 川越夜戦とは?
      2. 川越夜戦 後北条氏が上杉氏に勝利
      3. 後北条氏の滅亡 秀吉の天下統一
      4. 後北条氏支配の終焉(現在のさいたま市)
  4. 江戸時代のさいたま市
    1. 岩槻城(岩槻藩)
      1. さいたま市岩槻区あたる大部分は、岩槻藩の領地だった
      2. 日光御成街道の宿場町・岩槻宿
      3. 江戸時代の始めに存在した、浦和御殿
  5. 中山道の宿場町・浦和宿
    1. 浦和の名物「うなぎ」
      1. 山間部の多い中山道 うなぎは浦和で「食べ納め」の場所だった
  6. 調神社へ移動
  7. おまけ:筆者の自撮り写真

都心から気軽に行ける、埼玉日帰り観光

今回は、埼玉県さいたま市、また浦和の調神社つきじんじゃに行ったときの話をします。

前回も所沢市・川越市埼玉日帰り旅行について書きましたが、今回も都心から気軽に行ける日帰り旅行について書いていきたいと思います!

浦和・調公園に到着した筆者(埼玉県さいたま市浦和区)

東北本線・浦和駅(さいたま市)に到着

まずは東北本線(または宇都宮線)の、

  • 浦和駅うらわえき(埼玉県さいたま市)

に到着します。

浦和については、鉄道唱歌 奥州・岩城編にも歌われている通りです。
以下記事において、鉄道唱歌の歌詞および浦和の基本的な知識についても解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第4番 浦和と大宮
鉄道唱歌 奥州・磐城編の第4番の歌詞について、わかりやすく解説しています!浦和、大宮といった埼玉県主要都市がいかにして発展したのか、またその鉄道との歴史的な関わりとはどのようなものだったのか、わかりやすく解説しています!

浦和に浦はない?大昔の浦和は「海」だった

浦和に浦は無けれども

と歌われているように(先述の鉄道唱歌より)、確かに浦和に浦(海)はありません。
しかし、大昔の浦和は「海」だったのでした。

かつて浦和にあった奥東京湾

その大昔、浦和には奥東京湾おくとうきょうわんという海がありました。
これは、現在と大昔では海岸線が異なっていたためです。
つまり、海面の高さが違っていたため、海の水が深い内陸部(浦和の位置)まで入り込んでいたわけですね。

かつてさいたま市の位置に存在した「見沼」

後述する通り、江戸時代まではさいたま市には見沼みぬまという大きな沼があり、これは奥東京湾の一部であるとされています。

現在さいたま市の北東部にも、見沼区みぬまくという地名が残っていますよね。

「浦和」と「見沼区」の由来となった、見沼 今は干拓で存在しない

江戸時代までは、

  • 浦和うらわ
  • さいたま市見沼区みぬまく

の由来となった、見沼みぬまという大きな沼がありました。

今では存在しない「見沼」

見沼みぬまは、大昔の海だった奥東京湾の一部であり、また江戸時代の享保の改革において、後述の通り干拓かんたくによって埋め立てられてしまったのでした。

そのため、今では見沼は存在しません。

かつては奥東京湾の海水が来ていた

先述の通り、縄文時代にはさいたま市の一帯には奥東京湾の海水が入り込んでいました。
つまり、ここは「海」だったというわけです。

昔は海だったため、この地の周辺には「貝塚」が点在しています。
つまりここの海で縄文人たちが、貝を採って食べて捨てていたということがわかるというわけです。

浦和にも、浦があったんですね!

海岸線が後退していった奥東京湾 陸地が増えて「沼」となった

奥東京湾は、弥生時代に入ると海水がどんどん減ってゆき、海岸線が後退していきます。
この現象を海退かいたいといいます。こうして陸地が多くなってゆき、(内陸部に)残された海の部分はとなってゆきます。

そして、さいたま市のやや北東地地域は、見沼みぬまなどの多数の沼が連なっている、広大な沼地となっていったのでした。

氷川神社との関係?

大宮の有名な神社である

  • 氷川神社ひかわじんじゃ

は、この見沼にいるとされる「水の神様」をまつったことから始まった、とする説があるそうです。

大宮の氷川神社ひかわじんじゃは、島根県・出雲国いずものくににある斐伊川ひいがわの上流で、ヤマタノオロチを倒してクシナダヒメと結婚したスサノオという神様をまつる神社です。氷川ひかわという名前は、斐伊川ひいがわからきてきます。
斐伊川は、JR木次線きすきせんに沿って流れる川でもあります。

出雲の斐伊川については、以下の記事でも解説しているため、ご覧ください。

山陰鉄道唱歌 第30番 奥出雲へと通じる、斐伊川 ヤマタノオロチを討った、スサノオの武勇
山陰鉄道唱歌の歌詞を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

そして見沼近辺(さいたま市)には、氷川神社のほかに、中氷川神社(現在の中山神社)・そして氷川女体神社といった複数の神社が存在します。

氷川女体神社ひかわにょたいじんじゃは、先述のスサノオの妻であるクシナダヒメを祀る神社になります。

江戸時代の見沼の干拓

江戸時代に入ると、それまではずっと手付かずであった見沼干拓かんたくが始まったのでした。
干拓とは、水を干上がらせて、陸地を造ることです。
これによって田圃たんぼが増えるために、新田開発の手段として江戸時代にはよく行われました。

人口が爆発的に増加・大量のお米が必要となった江戸時代

江戸時代は戦争が無くて平和な世の中であり、平均寿命が伸びて人口が爆発的に増加していました。

そのため、大量のお米が必要となり、新田開発が必要になったのです
なので、沼や湖を干上がらせて陸地(田んぼ)を作る干拓が、どんどん行われていくようになったのでした。

江戸時代初期の1629年、関東地方を治める郡代ぐんだい(今でいう市長あたり?)のお役人(お偉いさん)が、まずはたくさんの新田に対して、水を供給していくための工事にとりかかります。


なぜなら、いくら田圃たんぼを増やしたところで、水がないと稲は育ちませんからね。なので水を供給するための用水路の工事に取りかかったわけです。

田んぼに、水を引っ張ってくるための工夫

まずは多くの新田が開発されてきた地域である、

  • 芝川しばかわ(見沼区を今でも流れている川)

下流地域にあたる、現在の川口市にあたる地域の水を確保するために、約800メートルにもおよぶ

  • 八丁堤はっちょうづつみ

とよばれる堤防(ダム)を建設して、水を溜めてゆきました。

八丁堤(はっちょうづつみ)とは?

ここで八丁堤はっちょうづつみとは、長さが八丁(約800m)あるダムであることから、この名前がつきました。
現在でも武蔵野線・東浦和駅の近くに、その跡地があります。

一丁(一町)とは、今でいう約109mに該当します。

灌漑によって、農地に水を引っ張ってくるための工夫がなされた

このダムを作って溜まった水による貯水池は、見沼溜井みぬまためいと呼ばれました。
この見沼溜井から、灌漑かんがい用の水を引っ張っていったわけです。

灌漑かんがいとは、農業に必要な水を引っ張ってくることです。

「見沼たんぼ」の完成

芝川しばかわとは、見沼に注ぎ、さらには見沼から流れ出て荒川あらかわに注いでいた川を原型とする川です。

見沼は、八代将軍・徳川吉宗よしむねのもとで行われた享保の改革において、1728年に干拓されて、見沼田圃みぬまたんぼになりました。
つまり、沼の水を干上がらせて、田んぼに変えたわけです。

これによって沼は無くなり、陸地(田んぼ)になったわけですね。

水を引っ張ってくるだけでなく、「舟のルート」としても使われた芝川

ちなみに芝川は、下流部も舟が通れるように改修されて、江戸干拓地とを繋ぐための「船が通れるルート」としても用いられたのでした。
つまり江戸と舟で結ぶ「水のルート」にもなったわけです。

これによって、見沼の地域で採れた大量のお米が、江戸に向けて運びやすくなったというわけですね。

こうして見沼干拓した後は、大金持ちの商人(今でいう株式会社)たちによる「投資」もどんどん行われていった関係で、次々に新田開発が進んでゆきました。

見沼地域は、農業が盛んな肥沃な地域に発展

やがては、東京ドーム約200個分にもおよぶ広大な「見沼田圃みぬまたんぼ」が完成してゆきました。

それ以後、この見沼地域肥沃ひよく穀倉地帯(たくさんの農作物が取れる地域)となってゆき、とても大きな生産力を誇っていったのでした。

戦国時代にかけて、戦場になった浦和

見沼」の話で前置きがかなり長くなりすみません(^^;

では果たして、戦国時代のさいたま市はどんな感じだったのでしょうか。
教科書や歴史の授業でも、なかなかあまり習う機会は少ないと思います。

戦国時代、関東でも様々な戦乱が多かった

まず、戦国時代の関東地方では、京都の応仁の乱にも負けじと劣らず、たくさんの戦乱が起こっており対立仕返しなどを繰り返すような争いが、あちこちで勃発していました。

さいたま市の地域もその例外ではなく、その戦乱の舞台となっていったのでした。

戦国時代の関東地方における、主な争いの構図

戦国時代の関東地方では、

  • 室町幕府側の「足利氏
  • 室町幕府に反逆をする「足利氏(関東側)」
  • そして関東の足利氏と対立する「上杉氏

の争いが主体となってゆきます。

上杉氏が足利氏に討たれる「享徳の乱」

また、1455年には

  • 関東管領かんとうかんれい上杉氏

  • 鎌倉公方かまくらくぼう足利氏

に討たれるという

享徳の乱

が勃発しました。
すると、関東地方は本格的に戦国時代へと突入してゆきます。

つまり京都でいう「応仁の乱」と同じです。

古河公方と関東管領の対立の場ともなった、現在のさいたま市の地域

現さいたま市のエリアは、

  • 古河公方こがくぼう(茨城県古河市へと逃げた足利氏)

の側と、

  • 関東管領(上杉氏)

側との対立の場ともなったのでした。

鎌倉府とは?

鎌倉府かまくらふとは、室町幕府が、

  • かつて鎌倉幕府のあった「鎌倉(神奈川県鎌倉市)
  • 関東地方

監視するために置いた機関です。

鎌倉府のトップ・鎌倉公方

また、鎌倉府のトップは

  • 鎌倉公方かまくらくぼう

と呼ばれ、京都にある室町幕府のトップである足利氏の子孫が鎌倉公方を世襲してゆきました。
しかし時間が経つにつれ、京都の室町幕府と対立してゆきます。

関東管領とは?

関東管領かんとうかんれいとは、先述の鎌倉公方を補佐するための役職です。
上杉氏うえすぎしが世襲してゆきました。

しかし時間が経つにつれ、その鎌倉公方とも対立するようになってゆきます。
その後は神奈川県の後北条氏ごほうじょうしと対立して負けてしまったため、越後(新潟県)に逃れます。
これが越後のスーパーヒーロー・上杉謙信のはじまりです。

さいたま市の北東・岩槻城

また、さいたま市の北東にある岩槻城いわつきじょうは、

  • 関東管領側上杉氏の家臣(部下)である太田道灌おおたどうかんの親子による築城であるとする説
  • それと対立する、古河公方側の築城であるとする説

とがあります。

太田道灌とは?

太田道灌おおたどうかんは、江戸城川越城を造った人物でもあります。
徳川家康は、あくまで江戸城を改修(大幅なバージョンアップ)をしたのであり、江戸城を初めて造ったわけではない(つまり、太田道灌が造った)ため、ここは勘違いしないように注意しましょう。

関東地方における上杉氏の衰退

その後、関東地方における上杉氏の力はどんどん消耗してゆき、衰退してゆきます。

先述の通り、相模・伊豆の後北条氏ごほうじょうしの勢力が次第に拡大することとなったため、上杉氏は越後・新潟県へと逃れたのです。
そして上杉謙信の誕生です。

勢いづく後北条氏

後北条氏はどんどん影響力をつけてゆき、神奈川県のある南側からどんどん北上してきて、埼玉県にまで侵入してくるというイメージとなりました。

このころからさいたま市は、岩付(岩槻)太田氏の勢力と、南からやってくる後北条氏の勢力の接点となってゆきました。

1546年 川越夜戦

やがて1546年に起きた

  • 川越夜戦かわごえやせん

にて、後北条氏の北条氏康うじやすの軍が勝利します。

川越夜戦とは?

ここで川越夜戦とは、前回も解説した埼玉県川越市かわごえしで起きた戦いであり、「日本三大奇襲」とも呼ばれます。

ちなみに、あとの二つの戦いは、

  • 毛利元就の「厳島の戦い
  • 織田信長の「桶狭間の戦い

になります。

ちなみに、源義経による「一ノ谷の戦い」も、三大奇襲の一つとされることもあります。

川越夜戦 後北条氏が上杉氏に勝利

川越夜戦は、攻めてくる側の後北条氏が、守る側の上杉氏を、たくみな方法で油断させ、夜になって一気に奇襲をかけて勝利したのでした。

こうして武蔵国(埼玉県・東京都)における後北条氏勢力拡大は、さらに本格化してゆきます。
そのような状況において、やがて1564年には太田氏が父・北条氏康の味方につくようになります。
つまり、大田氏は後北条氏についたのです。

その結果、関東地方の一帯は後北条氏の天下におかれることとなりました。
少なくとも豊臣秀吉が出てくるまでは、です。

後北条氏の滅亡 秀吉の天下統一

しかし1590年には、豊臣秀吉による小田原征伐(神奈川県小田原市の、小田原城を攻めた戦い)において、後北条氏は秀吉によって滅ぼされてしまいました。

また、さいたま市の岩付城(岩槻城)も陥落してしまいました。

後北条氏支配の終焉(現在のさいたま市)

これにより、後北条氏による現在のさいたま市の支配は終わりました。

そして、豊臣秀吉の命令により、代わって徳川家康が関東地方の領地を与えられ、徳川家康が関東入りしました。
これが江戸幕府のきっかけとなってゆきます。

江戸時代のさいたま市

江戸幕府を開いた徳川家康は、関東における支配をどんどん強く固めていくことにします。
そのため江戸の近くには、

  • 幕府が直接支配する(藩ではない幕府領
  • 徳川家にとって信頼できる(つまり、裏切って幕府に反乱を起こす心配のない)武士である、旗本はたもと譜代大名ふだいだいみょう

を、どんどん多く配置してゆきました。

岩槻城(岩槻藩)

こうした江戸時代の「幕藩体制」を強化していくなかで、さいたま市に置かれた藩としては、岩槻城いわつきはん藩庁はんちょう(藩の中心機関)とする、

  • 岩槻藩いわつきはん

がありました。

さいたま市岩槻区あたる大部分は、岩槻藩の領地だった

つまり、現在のさいたま市のうち、さいたま市岩槻区いわつきくにあたる大部分は、岩槻藩の領地だったというわけです。

しかし、さいたま市のその他の地域は、

  • 幕府が直接支配する「幕府領
  • 旗本が保持する「旗本領

などが中心になっていたため、「藩」による支配とはいえない状況でした。
さいたま市江戸に近いため、藩をおかずに幕府が直接支配した方が都合がよかったわけですね。

つまり江戸時代のさいたま市は、岩槻藩だけが唯一の城下町だった、ということです。

日光御成街道の宿場町・岩槻宿

またこの岩槻藩にあった岩槻宿は、徳川将軍による日光参詣や、また岩槻藩の大名さまが参勤交代のときに江戸と往復するための経路として用いられた

  • 日光御成街道にっこうおなりみち

の宿場町でした。

日光御成道とは、徳川歴代将軍が栃木県の日光にっこうに参拝するために整備された道のことです。
日光には徳川家康が埋葬されているため、その偉大なる家康さまを拝むためにも、後世の徳川歴代将軍にとって日光参拝はとても重要だったのでした。

江戸時代の始めに存在した、浦和御殿

また、江戸時代の始めには、浦和御殿うらわごてんというご立派な建物がありました。

御殿ごてんとは、立派なお屋敷のことです。
静岡県の富士山近くにある御殿場ごてんばも、元々はエラい将軍様が江戸(東京)と駿河(静岡)を行き来するときに、そこにご立派な建物を築いていたことに由来しています。

立派なお屋敷がある場=御殿場

というようなイメージですね。

中山道の宿場町・浦和宿

浦和は江戸時代に、中山道なかせんどうの宿場町として栄えてきた歴史があります。

中山道なかせんどうとは、昔の人が20日間かけて、群馬県・軽井沢・諏訪・塩尻から木曽路きそじを抜けて名古屋、さらには京都へ出ていた道です。
詳しくは、以下の記事をご覧ください。

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第5番 蓮田・久喜・栗橋の埼玉県北部を北上する
鉄道唱歌 奥州・磐城編の歌詞を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

かつて浦和には、中山道3番目の宿場町・浦和宿うらわしゅくがありました。

しかし、浦和宿江戸からは近すぎたため、宿場として利用する客はあまりいなく、どちらかというと「休憩所」としての利用が多かったようです。

明治天皇も、大宮の氷川神社ひかわじんじゃへのご参拝のときに、浦和宿行在あんざい(天皇陛下が一時的に滞在されたり、休憩されること)されたようです。

浦和の名物「うなぎ」

浦和駅周辺にはうなぎ店が多く、うなぎ(鰻)の名所となっています
また、浦和は「うなぎ店激戦区」とも呼ばれていたりまします。

浦和には江戸時代にはが多くて、たくさんのうなぎが採れました。昔は「沼」の存在はとても重要でした
それは生活用水や、先述の通り農作物の用水にとてと使われたからです。

しかし時代とともにダムなど出来たりすると、

  • それまでの沼は「用済み」となって埋め立てられたり、
  • また先述のように、干拓かんたくによって田んぼに変えられたり

していったため、当時の沼はおそらくほとんど残っていないことでしょう。

山間部の多い中山道 うなぎは浦和で「食べ納め」の場所だった

話を戻しますが、その時の「うなぎ」が、旅人たちにとって大変おいしかったようで、繁盛したようでした。

また、浦和宿で旅人たちが食べるうなぎはとても貴重であり「うなぎの食い納め」とも言われていました。
中山道においては、ここから先はうなぎを食べられる機会がなくなるため、浦和は「うなぎの名所」になったというわけです。

というのも、中山道では、ひとたび浦和を離れると、もう次の「海」といえるような場所は長野県の諏訪湖すわこまでは存在せず(しかも諏訪湖は海ではなく「湖」)、そこからは木曽の谷を抜けるまで、ずっと険しい山岳地帯が続くわけです。

それだけに、「浦和のうなぎ」はとても貴重だったことでしょう。

調神社へ移動

浦和にある調神社つきじんじゃは、ウサギの神社ともいわれます。
月のうさぎは、おもちをペッタンペッタンつきます。なので、

もちを「つく」→「つき神社」→「うさぎの神社

になった、ということです。

うさぎは、昔からとても縁起のいい神様の動物だと信じられてきました。

例えば、日本神話において因幡の白兎いなばのしろうさぎを治した大国主命おおくにぬしの故事から、「病気治癒」などにご利益があります。
大国主命は、その医学の知識で、ウサギを治したのでした。

また、うさぎは繁殖能力がとても高いことから、安産祈願のご利益があるとされています。
さらには、うさぎはピョンピョンと跳ねることから、「飛躍」のご利益があるとされているわけです。

おまけ:筆者の自撮り写真

浦和・調公園にて(埼玉県さいたま市)
浦和・調公園にて(埼玉県さいたま市)
浦和・調公園にて(埼玉県さいたま市)

これは2024年3月に行ったときですが、個人的にちょっと体調不良でいろいろあった時期であり、あるお願い・お祈願をするために行ってきました!

男性の方がとても優しくしてくれたので、嬉しかったです(^^;

今回はここまでです!

お疲れ様でした!

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