大分を出発し、別府方面へ
大分駅(おおいたえき、大分県大分市)を出ると、別府(べっぷ)方面へ向かってゆきます。
そして右には別府湾(べっぷわん)が広がり、高崎山(たかさきやま)の下を通ってゆき、別府駅(べっぷえき、大分県別府市)の方面へ向かってゆきます。
大分と別府を分け隔てる「高崎山」

高崎山(たかさきやま:標高628m)は、大分県大分市と別府市(べっぷし)および、由布市(ゆふし)との境界にある山です。別府湾にせり出したまるで巨大オニギリのような山で、そのインパクトある山容は、別府市の海からもその存在感をよく発揮します。
高崎山自然公園では、野生のサルに対して餌を与えています。そのため、高崎山には野生のサルさんたちがたくさんいます。
高崎山は、昔から山の頂上から四方を見渡せることから、四極山(しはつやま)と呼ばれてきました。
四方を見渡せる山というのは、軍事的にはとても重要です。360度のパノラマビューのため、敵が攻めてくる様子がどの方面からでも一発でわかりますし、また高い山の上から攻めてくる軍団を滅多打ちにすることもできるからですね。
奈良時代には山の上から「のろし」という、煙を上げて伝達するという古い通信手段が置かれていました。
つまり、煙によってお互いに通信していたというわけです。
難攻不落の高崎山

かつて高崎山の頂上には、高崎山城というお城が存在していました。高崎山城は「難攻不落の城」として知られていました。
これまでも何回も述べてきたように、戦国時代の九州では、豊後・大分の大友氏(おおともし)と、薩摩・鹿児島の島津氏(しまづし)が対立していました。戦国時代の九州は、まさにこの「二強(ツートップ)」が争っていたわです。
その島津氏が豊後・大分に侵入してきたとき、高崎山城は豊後・大友氏にとっての防御のための本拠地ともなりました。
先述の通り、山のように「高い位置」にある拠点は、まだ「お堀」などの技術が存在しなかった戦国時代初期あたりには、山の上は防御力が高くて重宝されたからですね。
高崎山城は、1593年に大友氏が廃絶(罰として遠くへ飛ばされてしまった)したことにより、廃城となっています。これは1593年に行われた豊臣秀吉による朝鮮戦役である「文禄の役」において、大友氏は敵前逃亡という失態をやらかしてしまったため、秀吉の怒りを買って豊後国(大分)を追われてしまったのです。それにともなって、高崎山城も廃止になったのでした。
現在では、お城の遺構(跡)のみが残っています。
交通の難所・高崎山のふもと

高崎山は、山全体が別府湾(べっぷわん)にせり出したような地形となっています。つまり、高崎山の海側のふもとは、昔は断崖絶壁みたいな感じになっていたのです。こんな感じだと、人々はなかなか安全に通れないので、昔は大分~別府の区間の往来はかなり難しいものでした。
この高崎山のために、大分と別府の間は、難所のルートとして知られていました。
もちろん、今では綺麗な道路(国道10号)や線路(日豊本線)などが整備されているため、あまり「難所」というイメージはないかもしれません。
つまり高崎山は、大分市と別府市を「分断」する山でもあったのです。
かつて別府・大分間の交通は、高崎山の裏側にある峠道が主なルートでした。つまり、内陸部が安全なメインルートだったわけですね。
もし近道をしようとすれば、舟で海のルートを選ぶのか、あるいはは干潮(かんちょう:海がひいて浅くなること)の時間が来るのを待って、海が浅くなって安全になってから、崖の下の「狭い道」を歩いて通るしかなかったのでした。
大分~別府間に、今のように海岸に沿った綺麗な道路が開通したのは、明治時代の1875年になってからのことでした。
現在では、国道10号という大きな道路や、日豊本線(にっぽうほんせん)という鉄道路線があります。
しかし昔は、先述の通り狭い崖の道を通るか、あるいは海の上を舟でゆくしかなかったのですね。
日本一の温泉街・別府市に到着
高崎山の下を過ぎ、さらに北上すると、やがて別府駅(べっぷえき、大分県別府市)に到着します。


大分県別府市(べっぷし)は、大分県で2番目に人口が多い都市です。別府温泉(べっぷおんせん)で特に有名であり、これまでにも毎年800万人を超えるというとんでもない数の観光客が訪れてきたほどの、まさしく「温泉都市」「観光都市」になります。
別府市では、市内の各地でたくさんの温泉が湧き出ています。温泉が湧き出てくる「源泉」の数は、全体でなんと2,300ヶ所以上も存在します。この数字は、日本全体のすべての源泉の数のなんと約1割を占めています。日本全部の温泉の1割(10%)って、とんでもない数の多さです。
また「お湯が湧き出てくる量(湧出量/ゆうしゅつりょう)」も、日本で最多の量となります。
ザ・ドリフターズ(ドリフ)の曲「いい湯だな」でも、第4番で別府温泉が歌われています。
現代の我々は「ガス」でお湯をわかすことができますが、大昔はそのようなインフラ技術は無かったため、自然のお湯である「温泉」は、観光のみならず「人々の生活」にも広く使われてきました。例えば明礬(みょうばん)という原料の生産から、自然のお湯のエネルギーで発電を行う地熱発電(ちねつはつでん)、さらにはお湯の力で病気やケガを治す湯治(とうじ)などにも使われてきました。
ガスでお湯を沸かすことができなくても、自然のお湯が豊富にある別府は、昔からとても重宝されてきたわけですね。
別府市は大分市にとても近いため、大分市のベッドタウンとしての役割も担っています。つまり大分市に買い物に出かけたり、通勤・通学されたりする方がとても多いわけなので、大分市とは経済面でのつながりもとても強く大きいといえるでしょう。
日本一の温泉「別府温泉」
別府温泉(べっぷおんせん)は、まさしく日本一の温泉です。それは先述の通り、お湯が湧き出てくる「源泉(地面のお湯が出る穴)」の数や、お湯が湧き出てくる量(湧出量/ゆうしゅつりょう)が、ともに日本一の数字になっているからです。
こうしたことから、温泉街である別府市は「泉都(せんと)」とも呼ばれます。
別府市の裏側にある鶴見岳(つるみだけ:標高1,375m)は活火山であり、まさしく別府の地にたくさん湧き出る「お湯」の源になっています。歴史的に火山の存在は噴火によって人々に困難を与えてしましたが、その一方で「温泉」という恵みを人々にもたらしてきました。
この鶴見岳のふもとにお湯が沸いて出てくるということは、古くから知られていました。そして島根県・出雲大社で有名な神様である大国主命(おおくにぬし)が、愛媛県にある道後温泉(どうごおんせん)に対して、海底ケーブル(?)を張って、別府からお湯を引っ張ってきて提供したという日本神話のエピソードまであるのです。
それは伊予国(いよのくに:現代の愛媛県)の大昔の歴史について記した「伊予国風土記(いよふどき)」によるものであり、かつて大国主命が鶴見岳のふもとから湧き出る別府のお湯を、海底に管(くだ)を通してから道後温泉(どうごおんせん)へとお湯を導き、少彦名命(スクナビコナ)という神様の病を癒した、という神話が残っているというわけです。
別府の名物「地獄めぐり」
別府は「地獄めぐり」もとても有名です。「地獄めぐり」は、別府のお湯が作り出すとても奇妙な光景を楽しもう、というものです。
「地獄」というだけあってそれなりに危険なお湯であり、昔は人々が近づくのも憚(はばか)られるような、「地獄」はかなり厄介な存在だったようでした。
しかし、時代とともに安全対策が施されてゆき、人が安全に近づけるようになり、徐々に「観光地」や「名所」として成立するようになってゆきました。
例えば、本来は別府温泉目的でやってきた観光客が、いわゆる「怖いもの見たさ」で地獄を「のぞき見」するようになったといわれています。それは安全対策により、地獄に近づきやすくなったからですね。
やがて明治時代終わりの1910年からは、本格的に料金を徴収して、「地獄めぐり」が観光施設として本格的に商業化(観光地化)されるようになりました。
「地獄」は別府のあちこちにあるため、歩いて回るのには大変でした。そのため、大正時代に入ると、自動車が「地獄めぐり」の遊覧に用いられるようになりました。
昭和初期にかけて、地面にある小さな噴気孔(=お湯が出てくる穴)を意図的に掘削(くっさく:掘ってゆくこと)して広げてゆき、わざと人為的に大きな噴出をさせるということが盛んに行われてゆきました。それはやはり地獄のスケールが大きいほど観光客は喜んでくれますし、さらにそれがウワサや評判となって(今でいうとバズって)さらに観光客を呼び込める効果が期待できたからですね。
その結果、地獄がどんどん工事によって拡張されてゆき、大正時代の1922年には鉄輪地獄(かんなわじごく)、1923年には龍巻地獄(たつまきじごく)など、次々に新たなたくさんの地獄が出現したのでした。
そして鉄輪地獄(かんなわじごく)のあるエリアにおいては、様々な「地獄の開発」が相次いでゆきました。
しかし地獄同士がお互いに接していたことで、それまで存在していた泉源のお湯の湧出量が低下するといった事態となってしまいました。つまり、お湯を他の地獄に奪われてしまった形になってしまったのです。
そのため、これをきっかけにみだりに掘りすぎるということは止め、新しく地獄の開発することは止められてしまい、1920年代でその数は頭打ち(ストップ)となったのでした。
遊覧バスと、全国初の女性バスガイド 油谷熊八さんの功績
別府は日本初のバスガイドとしても有名です。
先述の通り、別府温泉はとても広範囲にわたるため、徒歩で回るのはとても困難でした。なので大正時代から、自動車などによる遊覧が行われていました。
「地獄」を遊覧して回るために、大正時代の1917年頃には初めて「ハイヤー」を使った遊覧が行われました。ハイヤーとは、英語の「Hire(雇う)」から来た言葉であり、完全予約制で文字通り雇われて運行する車のことです。「タクシー」に似ていますが、ハイヤーは完全予約制であるという点において、町のどこでもいつでも利用できる「タクシー」とは若干異なります。
しかし、このハイヤーでの輸送・遊覧にも限界があり、これでは例えば団体客(例えば修学旅行や、社員旅行など)のような大勢の観光客を運ぶためには十分ではありませんでした。
そこで1928年、「亀の井ホテル」の創業者である油谷熊八(あぶらや くまはち)さんという別府の偉人ともいえる人物が、現在の「亀の井バス」を設立し、地獄めぐりを「遊覧バス」によって運行することにしたのでした。つまり、熊八さんのアイデアにより、より多くの人々に地獄めぐりをしてもらうために、多くの人を一度に運べるバスが利用され始めたというわけです。

油谷熊八(あぶらや くまはち)さんは別府駅の前にも像があり、また「旅人をとにかく大事にせよ」という言葉をとても重んじておられました。
現在、全国で見られる「女性バスガイド」は、この時に油谷熊八さんが考案したことに始まります。
2009年に亡くなられた村上アヤメさんは、当時に採用された最初期のガイドの一人として知られています。
村上アヤメさんは「七五調による観光案内」を行い、バスガイドとして大好評となったのでした。ちなみに七五調(しちごちょう)とは、七文字・五文字の繰り返しによる、日本の伝統的な詩の詠みかたです。明治時代の鉄道唱歌(てつどうしょうか)においても、「♪きてきいっせい(汽笛一声) しんばしを(新橋を)」という具合に、「七語調」で歌われていますよね。
鉄道唱歌の詳細については、以下の記事でもわかりやすく解説していますのでご覧ください。
鉄道唱歌 東海道編 第1番 新橋を出発!東海道線の鉄道の旅へ
話がズレましたが、この村上アヤメさんをはじめとする最初期のバスガイドさんたちによる遊覧バスの成功が、地獄めぐりの人気を大きく上げ、より決定的なものとしたのでした。
そして、現在も「亀の井バス」により運行されている「別府地獄めぐり」は、国内で最も長い歴史を持つ観光バスとして大人気となっています。
別府の海を観光
別府の海は、とてもきれいです。
たとえ別府の高級旅館などに泊まれる余裕のない「低予算旅行」であっても、せめて別府の海の景色くらいは楽しめます!旅行初心者であっても、せめて別府の海は楽しむとよいでしょう。

海の向こう側は愛媛県であり、また左側には国東半島(くにさきはんとう)の姿もあります。
別府駅を出て、次は国東半島・中津・小倉方面へ
次回で最終回になります。長かった・・・
次回は別府駅を出て、国東半島の横を通り、中津(なかつ)・行橋(ゆくはし)・小倉(こくら)、そして門司(もじ)へと戻ってくる予定です。
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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