別府を出発 中津・行橋・小倉方面へ
この「南九州の旅」シリーズも、今回で最終回になります。
別府駅(べっぷえき、大分県別府市)を出ると、特急ソニックにしたがって中津(なかつ)・小倉(こくら)方面向かって進んで行きます。
「音速」の列車・特急ソニック
特急ソニックは、大分県から小倉・博多へと向かう車両です。ソニックは小倉駅に着いたら博多方面へと「折り返す」という形になります。そのため、車両の進行方向が小倉駅で「逆」に代わり、西の博多方面へと進みます。
このとき、西小倉駅~小倉駅の区間が、乗車券の重複区間となっています。というのも、博多方面へ向かう鹿児島本線と、大分方面へ向かう日豊本線のお互いの合流点・分岐点が、小倉駅の一つ西隣の西小倉駅になっているからです。
なので、西小倉駅から小倉駅へと向かうと、再び小倉駅~西小倉駅の区間を通ることになるため、重複するわけです。もちろん、この重複分の料金を取られるということはなく、特急ソニックに乗って大分~博多への移動するときは特例によって重複分の料金はかからないわけです。「重複回避のために西小倉駅で降りてもらう」だと小倉駅で降りたいお客様にとってはさすがに不便なので、このような例外措置が設けられているわけですね。
特急ソニックは、大分~小倉~博多の区間を高速で移動するための重要列車というわけですが、もし鹿児島県~宮崎県~大分県~福岡県を走る新幹線である東九州新幹線が出来たら、特急ソニックはその役割を終えて、引退することになるでしょう。
ソニックとは「音速」という意味です。
これが「スーパーソニック(SuperSonic)」だと「超音速」みたいな意味になるでしょうか。
つまり「音のように速い列車」という意味を込めて、「ソニック」という名前になっているわけですね。
「音速」の名に恥じないというだけあって、特急ソニックはかなり速い部類の特急列車になります。JR九州としても、その「速さ」と内装(インテリア)の「豪華さ」に自信を持っています。
狭くカーブの多い日本列島を高速で進んでゆくため、カーブを頻繁に走行することにより「揺れ」「遠心力」が発生し、これによって自律神経が乱れ「吐き気」「列車酔い」をもよおす可能性があります。特急列車はカーブを頻繁に高速走行するため、低速な普通列車と比べるとやはり”酔いやすい列車”であるといえるでしょう。
なので、こうした乗客の負担を少しでも減らすために、特急列車ではさまざまな仕組みや技術を駆使することによって、揺れと吐き気を軽減しているわけですね。
以下、余談です。
音速(時速約1,300km=マッハ1)を超えると「衝撃波」が発生し、爆音がしてしまいます。
これを「ソニックブーム」といいます。
そして普通の飛行機であれば、この音速を超えると「衝撃波」の発生により、空中分解・大破してしまいます。
なので「コンコルド(=2003年で廃止)」のような超音速の旅客機や、マッハで飛ぶ戦闘機などは、この音速・衝撃波に耐えられるようにシャープな形状・構造になっているのです。
ちなみにマッハ5で空を飛ぶという設定のウルトラマンは、実際には音速で飛ぶことはできないとされています。ウルトラマンは普通に「人の形」であり、戦闘機のような尖ったシャープな形ではないので、マッハ5で飛ぶと衝撃波で体が空中分解してしまうのです。まぁ、夢やロマンを壊すような元も子もない話ですね(^^;
しかしウルトラマンは故郷のM78星雲・光の国で、幼少期から厳しい特訓を受けてきいるため、たとえマッハ5で空を飛んでも体が空中分解してしまわないように(加えて、怪獣が吐く炎にも耐えられるような体にするために)修行して地球に来ているのでしょう。
以上、全然関係ない雑談すみませんでした。
国東半島の横(西)を走る
大分県の右上(北東)に突き出た丸い半島のことを、国東半島(くにさきはんとう)といいます。
国東半島(くにさきはんとう)では、奈良時代~平安時代に西隣にある宇佐市(うさし)の神社である宇佐神宮(うさじんぐう)の信仰、つまり「神道(しんとう)」の要素を取をり入れた仏教文化が形成されてゆきました。
宇佐神宮については、以下の記事でもわかりやすく解説しているため、ご覧ください。
鉄道唱歌 山陽・九州編 第35番 宇佐神宮を参拝!和気清麻呂も訪れた八幡神社の頂点
このように、国東半島では「仏教」と「神道(しんとう)」の要素がお互いにが合わさって出来た仏教が栄えてきた、という形になります。いわゆる「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」の一つですね。日本の宗教では、大昔からこのように「神道」と「仏教」がお互いに混じりあい、それぞれが同じ神様として祀(まつ)られる(信仰される)ということが多くありました。
神道(しんとう)とは、日本に仏教が伝わってくる以前から元々存在していた、日本オリジナルの宗教です。いわば「古事記」や「日本書紀」に書かれている日本神話も「神道」からの教えであり、また例えば「神社へのお参り」「初詣で(はつもうで)」なども神道の行事の一種になります。我々の日本人の生活のなかには、このように意外にも「神道」の行事は存在しているのです。一方、仏教は538年に大陸から日本に入ってきた宗教なので、それ以前より日本に存在していた「神道」と比べると「仏教」は比較的新しい宗教になります。
そして、国東半島では、山岳地域の険しい山道を歩くという「峰入り(みねいり)」と呼ばれる難行(なんぎょう:仏教の厳しい修行のこと)が行われるようになったのでした。
現在でも国東半島の内陸部を中心に、「両子寺(ふたごじ)」をはじめとする多数のお寺があり、観光名所となっています。
大分県国東市(くにさきし)は、江戸時代のキリスト教徒であり、また日本人として初めてイスラエルの首都・エルサレムを訪れた、ペトロ・カスイ・岐部(きべ、岐部茂勝/きべ しげかつ)という人物の出身地でもあります。彼は当時の日本としては珍しくヨーロッパを渡り歩いたため、「日本のマルコ・ポーロ」と呼ばれます。
ちなみにマルコ・ポーロとは、1200年代に今のイタリアにあたるヴェネチアに生まれた人物であり、当時の日本などを含めた東洋のことを西洋(ヨーロッパ)に対して「東にはこんなにすごい国があるよ」と広く紹介しくれた人物です。当時はインターネットやSNSもありませんでしたから、はるか海の向こうからやってきた人が直接教えてくれるという以外にはなかったのですね。マルコ・ポーロはヨーロッパに対して日本のことを「黄金の国ジパング」と紹介してくれました。
国東半島の付け根・豊後高田市
国東半島の北西の付け根には、豊後高田市(ぶんごたかだし)という自治体があります。豊後高田市は、宇佐市(うさし)の右隣にある街になります。
ちなみに「高田市」という名前の自治体は、全国的にみても比較的多い地名になります。
高田市(たかだし) :新潟県(ただし現在では合併して上越市に)
陸前高田市(りくぜんたかたし) : 岩手県
大和高田市(やまとたかだし):奈良県
安芸高田市(あきたかたし): 広島県
豊後高田市(ぶんごたかだし): 大分県
それぞれ市名の重複を避けるために、「豊後」などのような旧国名(昔の「国」の名前)を冠しているパターンが多いといえます。
また、「たかた」と「たかだ」の二パターンがあります。
大分県豊後高田市は、先述の宇佐神宮と距離的に近いため、宇佐神宮と歴史的に深い関わりを持ってきた市でもあります。また、後述する吉弘統幸(よしひろ むねむき)という武将が生まれた地でもあります。
石垣原の戦い 大分氏が豊後奪還を目指すも敗北
江戸時代の少し前にあたる1600年に、別府で挙兵した大友氏(おおともし)に対して、現在の豊後高田市出身の武将である吉弘統幸(よしひろ むねゆき)が大友氏の呼びかけに応じました。
つまり、大友氏の味方についたわけですね。吉弘氏(よしひろし)は、鎌倉時代に大友氏が豊後・大分にやってきた頃から、ずっと大友氏に忠実に仕えてきた一族です。
ではなぜ大友氏が、江戸時代の少し前に別府で挙兵したのかというと、かつての領地「豊後(大分)」を再び奪うためです。
大友氏は戦国時代にとても栄華を誇ったのですが、1593年の豊臣秀吉による朝鮮戦役である「文禄の役(ぶんろくのえき)」において敵前逃亡してしまうという失態をおかしてしまい、豊臣秀吉の怒りを買ったために改易(かいえき:遠くへ左遷されてしまうこと)されてしまっていたのでした。
そのために豊後・大分を追われてしまった大分氏が、再び豊後・大分を奪還するために、挙兵したのです。
改易されたばかりの当初は大友氏は囚われの身でしたが、豊臣秀吉が1598年に病死したため、それがきっかけで晴れて「自由の身」となっていたのでした。
そして大友氏についた吉弘統幸は、別府市における「石垣原の戦い(いしがきばるのたたかい)」で挙兵し、対抗してくる福岡・中津(なかつ)の黒田氏の軍と戦いました。吉弘統幸は一時は黒田軍を追い詰めるなどかなり善戦したのですが、残念ながら最期は討ち死にをしてしまいます。
「石垣原の戦い」トータルでの結果は大友氏の敗北となり、豊後・大分の奪還はなりませんでした。
なお石垣原(いしがきばる)とは、別府駅(べっぷえき、大分県別府市)のやや北西のエリアのことです。
別府公園のやや北には、石垣原古戦場跡があります。
国東半島の秘境・姫島
国東半島の北東には「姫島(ひめしま)」という、なんとも秘境的な島があります。
姫島はなんと村長が親子にわたって長年ずっと同じという「独裁の島」として知られます。それは1960年から藤本熊雄(ふじもと くまお)さんと、息子の昭夫(あきお)さんの2代にわたって、現代に至るまで60年以上もの間、事実上の「独裁」が続いているからです。また2016年まではずっと「無投票」の状態で村長が選ばれ続けていたのでした。
これに関しては大人の教養TVというYouTubeチャンネルにおいて、詳しくわかりやすく解説されております。興味ある方は「大人の教養TV 姫島」でぜひ検索してください。
古くから海上ルートの重要拠点だった姫島
姫島は、周防灘(すおうなだ)と伊予灘(いよなだ)とのまさに間に位置しています。つまり、周防国(すおうのくに:山口県)や伊予国(いよのくに:愛媛県)が近いという位置にあります。そのため、姫島は古くから多くの舟がゆきかう、海上における交通ルートの重要拠点としても発展してきたのでした。
それはやはり、舟も「ずっと航行しっぱなし」だと、舟人たちもさすがに疲れてくるため、途中で停泊(寝泊まりしたり、飲食したり)するための町が必要になってきます。いわば「宿場町」みたいなイメージです。姫島は、そんな周防灘や伊予灘の海をゆきかう舟人たちにとっての、「憩いの場」としても機能してきたのでした。
また、姫島産の黒曜石(こくようせき)という材質(石材)で作られた石器が、中国地方や四国地方におけるあちこちの縄文時代の遺跡から発掘・発見されています。
このことから、姫島は縄文時代には既に中国地方・四国地方との交易(トレード、物々交換)が行われていたことがわかります。つまり昔の姫島の人々は、姫島の黒曜石で作られた石器をあちこちに売って、逆にあちこちの(姫島では作れない貴重な)産物を仕入れてくることで、利益をあげて生活をしていたのだということが想像できます。
鎌倉時代の頃からは、姫島は大友氏の水軍の本拠地の1つとなりました。「水軍」とは、いわば「海の上で戦う武士たち」のことです。今でいうところの「海上自衛隊」ですね。
つまり姫島は、大友氏にとって海を守るための、ガードの拠点だったわけです。
江戸時代の姫島の「塩づくり」を支えた、入浜式塩田
江戸時代には、姫島では塩を造ったり、サツマイモを栽培したりするなどして、村人たちの生活が豊かになっていくように務めてゆきました。これは江戸時代に姫島を支配していたリーダーによる、懸命の努力が大きいです。そして、塩の製造は特に姫島では重要であり、明治時代になるまで村民にとっての貴重な収入源となっていました。
しかし明治時代になり、それまでの塩の作り方が「時代遅れ」となり、他の地域の「機械化された製塩業」に負けてしまったため、もはや売れなくなった塩づくりはあきらめて「エビの養殖」にシフトしています。エビの養殖によって出来た「姫島車えび」は、現代の姫島にはなくてはならない名物になっています。
話を元に戻します。
江戸時代の姫島では、いわゆる「潮の満ち引き」を利用して潮を作る「入浜式塩田(いりはましきえんでん)」が行われてきました。これは、海が満潮になったときを利用して、海水を堤防で仕切って止めて(蓄えて)おき、海水を太陽の光で蒸発させ、塩を取り出すという手法です。これは同じく塩が盛んな兵庫県の赤穂市(あこうし)でも歴史的に行われてきた製法です。
というか、江戸時代には「塩」はとても重要だったため幕府によって「専売」となっていました。塩は海のない内陸部では採れませんし、また当時の「入浜式塩田」では、干潮と満潮で海の高さにあまり差ができない日本海側ではとれませんでした。逆に、姫島を含む瀬戸内海あたりの海は、干潮と満潮の差がとても激しくなるため、入浜式塩田には有利だったのでした。塩はこのように、生活必需品であるのにも関わらずに「造られる地域」がとても限られていたため、とても重要だったのでした。
なぜ入浜式塩田が姫島で行われてきたのかというと、姫島の海岸は、遠くまで浅い「遠浅(とおあさ)の海」が続いていたからです。そういった地形のメリットを生かして、塩を作るための塩田(えんでん)を開いていったわけです。
戦国時代の終わりから江戸時代のはじまりまでの年間には、塩田(えんでん:塩を採るための土地)が開かれていたのでした。
ここで塩が作られていたというわけです。
幕末~明治にかけての姫島
幕末の1864年に起きた下関戦争では、イギリスやアメリカなどの連合艦隊と、長州藩など「外国を追い払ってしまえ!」という攘夷(じょうい)勢力が戦いました。そのとき、下関市の関門海峡にほど近く防御の要である姫島をバリアーにして防衛拠点としたのでした。
しかし下関戦争は、イギリスやアメリカなどの強大な戦力の前に敗れてしまい、「外国とこれ以上戦うのは無理だ!だったら江戸幕府を倒せ!」となって、大政奉還(=15代将軍・徳川慶喜による政権返還)となったのですね。
1965年には、姫島と本土との間に海底ケーブルが敷設されました。これによって、それまで電気が不足していて停電もよく起こっていた姫島に対して、電気の供給も安定して開始されてゆきました。
1960年代といえば高度経済成長期であり、人口が全国的に爆発的に増えていた時代ですから、どこも電力不足に悩まされていました。そのため、どの家も停電に悩まされていたのです。なので当時は、全国のあちこちでダムを作って水力発電などをやったりと、発電所を作ることは急務だったのです。
また、先述の「入浜式塩田」による塩の製法は江戸時代までは主流だったのですが、先述の通り明治時代になってオワコン化(斜陽化)してしまい、「機械化」の波に負けてしまいました。そのため、姫島では新たな収入源として「エビの養殖」が本格的にスタートしていったのでした。
宇佐→中津→行橋→城野→小倉へと移動
特急ソニックで、引き続き小倉駅(こくらえき、福岡県北九州市)まで戻ります。この区間については、別途以下の記事でも詳しく解説しています。
宇佐神宮(うさじんぐう)について
鉄道唱歌 山陽・九州編 第35番 宇佐神宮を参拝!和気清麻呂も訪れた八幡神社の頂点
宇佐(うさ)~中津(なかつ)の区間について
鉄道唱歌 山陽・九州編 第34番 英彦山を窓のはるか向こうに眺めながら、宇佐に到着
大分県中津市(なかつし)、耶馬渓(やばけい)について
鉄道唱歌 山陽・九州編 第33番 中津に到着!頼山陽の耶馬溪、そして福澤諭吉生誕の地
中津~宇島(うのしま)~行橋(ゆくはし)~城野(じょうの)~小倉(こくら)について
鉄道唱歌 山陽・九州編 第32番 九州の東海岸沿いを南へ 城野・行橋・宇島を過ぎ、やがて中津へ
小倉・門司に到着 東京へ帰還
長い南九州の旅も終え、ゴールの小倉(こくら)・門司(もじ)へと到着しました。
あとは東京へ帰るだけです。
2011年の九州新幹線の開業・全通によって、関西圏と熊本県・鹿児島県が短時間で結ばるようになり、九州の経済や文化は大きく変化しました。もし「東九州新幹線」が出来たら、南九州の経済や文化は、果たしてどのように変わってくるのでしょうか。
今回で、この「南九州」のシリーズはおしまいです!
お疲れさまでした!
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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