今回は、長野県飯田市の天竜峡の観光と、飯田線の原型となる明治時代の伊那電気鉄道の歴史などについて、わかりやすく解説してゆきます!

天竜峡の景色(長野県飯田市)
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天竜峡駅
前回で、天竜峡駅(てんりゅうきょうえき、長野県飯田市)に着きました。

天竜峡駅(長野県飯田市)
天竜峡駅は、伊那盆地(いなぼんち)または、伊那谷(いなだに)の南の端にあたる、観光地「天竜峡」を見下ろす川沿いの位置に駅が存在しています。

天竜峡(長野県飯田市)

天竜峡(長野県飯田市)
「四つの平」の一つ・伊那平(伊那谷)
伊那谷(いなだに)または伊那平(いなだいら)は、長野県南部、諏訪湖(すわこ)の南西に広がる平野・盆地のことです。

伊那谷からの、中央アルプスの景色(飯田線の車窓より)(長野県)
伊那谷は、真ん中を縦(南北)に天竜川が流れており、この天竜川が作り出す平地の中に、たくさんの民家や農業地などが広がっています。
また、東には
- 甲斐駒ヶ岳(かいこまがたけ、標高2,967m)
- 北岳(きただけ:標高3,193m)
西には標高2,900mにもおよぶ中央アルプス(木曽山脈)がそびえ立ちます。
長野県では平野のことを「~平(たいら)」といいます。
長野県歌「信濃の国」では、伊那谷は「四つの平(よっつのたいら)」の一つとして歌われています。
ちなみに「信濃の国」で歌われている平(たいら)は、以下の4つとなります。
- 松本平(まつもとだいら):松本市を中心とする平野。
- 伊那平(いなだいら):先述の通り、長野県南部の伊那市(いなし)や飯田市(いいだし)などを中心とする平野。「伊那谷(いなだに)」とも。
- 佐久平(さくだいら):小諸市(こもろし)や佐久市(さくし)を中心とした平野。北陸新幹線の駅名にもなっている。
- 善光寺平(ぜんこうじだいら):長野市がある、善光寺(ぜんこうじ)を中心に発展してきた平野。ちなみに「長野県」の由来は、この善光寺平がとても「長い野原」だったことに由来している。
そして歌によれば、これら四つの平は「肥沃(ひよく)の地」であると歌われています。
つまり「たくさんの作物が採れる(それによって信濃・長野の人々は豊かな暮らしができる)」という意味となります。
かつての三信鉄道・伊那電気鉄道の境界駅だった、天竜峡駅
天竜峡駅は、1927年に現在の飯田線の前身の私鉄会社である
- 「伊那電気鉄道(いなでんきてつどう)」
による路線の起点駅として開業しました。
その後1937年に、愛知県・静岡県側から延びてきた私鉄会社の
- 「三信鉄道(さんしんてつどう)」
が南から乗り入れてきて、伊那電気鉄道と三信鉄道の「境界駅」となったのでした。
それ以降、天竜峡駅は、上記の
- 「伊那電気鉄道」
- 「三信鉄道」
をそれぞれ繋ぐための、重要な位置付けの駅となったのでした。
もちろん今でも、
- 北の伊那(いな)方面
- 南の北遠(遠州北部:静岡県西部)方面
のそれぞれの境界駅としての地位・位置づけは変わっていません。
その後1943年、「伊那電気鉄道」と「三信鉄道」の両社は国によって買い取られ、国有化されました。
国有化の理由は、断崖絶壁に線路を引いていくという難工事によって、建設費があまりに高くつきすぎたために、運賃が高くなりすぎたため、国に買い取ってもらって料金を安くしてもらうためでした。
この「国有化」により「飯田線」として統一・統合されたため、天竜峡駅は「途中駅」となりました。
しかし、なにせ「平野部」と「山岳地帯」とのさかい目にある駅であるため、先述の通り”重要駅”としての地位・位置付けは変わりませんでした。
現在でも「天竜峡駅止まり」「天竜峡駅始発」の列車が数多く設定されています。
飯田線を走る特急列車「伊那路(いなじ)」も、全ての列車が天竜峡駅に停車します。それだけの重要駅だということがわかります。
そして天竜峡駅は、その名前の通り
- 天竜峡(てんりゅうきょう)
への観光地の駅として役割を果たしています。
天竜峡

天竜峡(長野県飯田市)
天竜峡(てんりゅうきょう)とは、長野県飯田市にある、天竜川の峡谷です。
国の名勝に指定されています。
天竜峡は、天竜川の激しい流れと膨大な量の水が切り開いた、美しい断崖絶壁が続く渓谷(けいこく)となります。
天竜峡では、非常にたくさんの川の水が勢いよく南へ向かって流れてゆきます。この川の水が、いずれは静岡県浜松市の、遠州灘(えんしゅうなだ)の海に注ぐのです。
私(筆者)が天竜峡に行ったときは、本当に激しいけども綺麗な流れ・景色で、驚きました!!

天竜峡より(長野県飯田市)

天竜峡からの景色(長野県飯田市)

天竜峡からの景色(長野県飯田市)
飯田線の原型の1つ・明治時代の私鉄「伊那電気鉄道」
現在の飯田線のうち、
- 天竜峡駅
- 辰野駅(たつのえき、長野県上伊那郡辰野町)
のそれぞれを結区間は、明治時代に
- 伊那電気鉄道(いなでんきてつどう)
という私鉄会社が、その原型となります。
伊那電気鉄道(いなでんきてつどう)は、長野県で開通した最初の私鉄であり、現在の飯田線の前身の1つとなる鉄道会社です。
明治時代に中央本線が開通すると、伊那谷はそのルート(鉄道のメインルート)から外れてしまったため、鉄道を辰野駅から南へ引っ張ってくるアイデアが、当時の地元のお金持ち達の間で広まっていったのでした。
こうして
という感じで、自力での鉄道建設を考え、伊那谷・飯田(いいだ)方面へと至る電気の敷設を打ち出したのでした。
当時珍しかった、長野県初の「電車」
伊那方面の列車は、それまでの「蒸気機関車」とは異なる「電車」で計画されました。
明治時代の当時「電車」はまだ珍しいものでした。
明治時代の国内の主な電車には
- 「京都電気鉄道(伏見線)」
- 神奈川県・川崎大師(かわさきだいし)へと向かう大師電気鉄道(だいしでんきてつどう)
などがありました。
この「大師電気鉄道」の建設に携わっていた人物が、伊那地方の電気鉄道の建設に関わっていったのでした。
さらには、当時諏訪(すわ)地方の製糸工場がとても急成長しており、工場はたくさんの電気を必要としていたのでした。
そのため、こうした製糸工場に対して電気を送ってあげることを目指して出来た諏訪電気株式会社(後に中部電力の一部となる会社)という電力会社がありました。
この「諏訪電気」と配電契約を結び、伊那電気鉄道に対して電気を供給できるようにしたのでした。
こうして、
- 「大師電気鉄道」のノウハウがあったこと
- 「諏訪電気」と電気の契約を結べたということ
が、伊那で「電車」を走らせることができるきっかけとなったようです。
最初の開業区間は1909年の
- 辰野駅(たつの)
- 松島駅(現・伊那松島駅)
をそれぞれ結ぶ間となりました。
最初はなかなか株が集まらなくて資金不足もあったものの、その後に徐々に資金を調達してゆき、路線を南へ延ばしていく、という延伸工事が少しずつ繰り返されてゆきました。
やがて2年後の1911年には、伊那町(現・伊那市)までの区間が開通したのでした。

伊那電気鉄道の最初の終着駅だった、伊那松島駅(長野県上伊那郡箕輪町)
つまり、最初は辰野駅から、写真の
- 伊那松島駅(いなまつしまえき、長野県上伊那郡箕輪町)
まで、少しずつ南へと線路を伸ばしていったというわけです。
諏訪地方の電力不足 伊那地方への電気はどうやったのか
列車の源動力となる「電気」は、先述の諏訪電気という電力会社と契約することによって、電機の供給を受けていたのでした。
しかし、諏訪電気はもともと諏訪で盛んだった製糸工場に向けて電気を供給することを目的としていた会社だったため、しだいに伊那電気鉄道への電気までは作れなくなり、電車に必要な電気が不足するようになってゆきました。
諏訪地域では、工場の発展や人口の増加などにより、電力需要が急激に伸びていった時期でした。
これによって、諏訪電気における発電能力の整備がだんだん追いつかなくなってゆきました。
それどころか、本来の目的である諏訪地域への配電・電気供給すらままならなくなるという、電気需給の逼(ひっ)迫状態に陥っていたのでした。
こうした状況に対して、諏訪の製糸業者たちは、自分たちにとってメリットが無い伊那電気鉄道に対して、不満を抱くようになってしまいます。
こうした電気不足が深刻となったため、諏訪の製糸業者たちは、新たに別の電力会社を設立することを計画したのです。
新しく電力会社が増えれば、電力不足の問題が解決されることになります。
そのため、諏訪地域への(工場含めた)電気供給が安定していくだろう、と考えたわけです。
また諏訪電気は、それまで本社が同じだった伊那電車軌道の経営を、自社から分離することに決定しました。
つまり、諏訪電気は伊那電車軌道の電気の面倒をみることはもうせずに、電気供給の事業を伊那電車軌道に自分で行わせることにしたのでした。
その代わり、後述するように
- 下諏訪町(しもすわまち)を流れる川である砥川(とがわ)について、
- この砥川の水を自由に使っていいという権利(水利権)を伊那電気鉄道に与えて、
- 伊那電気鉄道が自分たちで自由に水力発電ができるようにした
のでした。
諏訪地方だけでも電気が足りなくなっているのに、伊那地方にまで(電車にも)電気を回していると到底足りなくなってしまいますからね。
こうして諏訪電気は下諏訪町にある砥川(とがわ)の水利権を伊那電車軌道へと譲渡し、新たに電気事業の許可を受けた伊那電気鉄道による電気事業がスタートしたのでした。
つまり
という具合に、電力を伊那電気鉄道に対して委任・譲渡したわけですね。
こうして自社の電気を自らの手でまかなうことになった伊那電気鉄道は自前で発電所を作ることになったのでした。
そして、伊那地方に次々に電力を送り、伊那地方の電力を次々に拡大させていったのでした。
各私鉄の全通 長大な1本の線路へ
こうして1927年になると、ついに天竜峡駅~辰野駅間の区間が全通したのでした。
めでたしめでたし、ですね。
1937年に三信鉄道(さんしんてつどう)が全通しました。
三信鉄道は同じく飯田線の原型となる私鉄会社であり、現在の飯田線の最後の真ん中の部分、つまり現在の
- 三河川合駅(みかわかわいえき、愛知県新城市)
- 天竜峡駅
をそれぞれ結ぶ区間を建設・運営していた会社でした。
これによって、まだこの時点では4つの私鉄会社に分離はされているものの、
という、現代の飯田線につながる、完全な形の1本の線路につがったわけです。
これにより、天竜峡駅から南へは、
- 三信鉄道を介して三河川合駅へ、
- さらにそこから鳳来寺鉄道(ほうらいじてつどう)に乗り入れて大海駅(おおみえき、愛知県新城市)へ、
- さらにそこから豊川鉄道(とよかわてつどう)で、豊橋駅へと通じる
ようになったのでした。
こうして1937年にすべての区間がつながったことで、
の区間で、4社の直通運転を開始したのでした。
これは、現在でも豊橋駅~辰野駅、あるいはその先の岡谷駅(おかやえき、長野県岡谷市)まで、普通列車が乗り換えなしで直通しているのと同じですね。
全部乗り通すと、途中下車無しでも6時間以上かかります。
つまり、今の飯田線が全通したのです。
戦時中の「配電統制令」により、電気事業からの撤退
1941年になると、配電統制令が出されます。
これは戦時中の法律である国家総動員法の一つであり、電気をすべて国が管理して、来るべき戦争に備えていつでも自由に国が(電気などの)資源を許可なく利用・統制・制限できるようにしたものです。
これは逆にいえば、民間の電力会社は好き勝手に電気を発電・供給・安売りができないことを意味します。
それは、いざ戦争になったときに「電気が足りない」といった事態を防ぐためです。
例えば、兵器や戦闘機、軍艦などを製造する軍事工場は、電気を大量に消費することになります。
そんな貴重な電気を、民間会社に勝手に商売させないように(また、お客様の側も大量に電気を消費させない・使わせないように)したのです。
ちなみに国家総動員法は、国民の資源などを「戦争のため」という名目で自由に没収できるという理不尽な法律です。
違反したら「非国民だ!」というレッテルを貼られるわけですからね・・・。
そのため、戦時中の国民は本当に苦しい生活を強いられたのでした。
もちろんこんな法律は現行憲法(日本国憲法)には違反するため、現行憲法下では無効となります。
1945年に国家総動員法はGHQにより廃止となっています。
話がズレましたが、この配電統制令によって、電力会社は国が認めたわずか9つのみになりました。
つまり、新たな電力業者が参入できないようにしたのです。
新規参入なし、値段も売り方も決められない、自由に売れない、電力会社同士での「競争」もなし・・・。
まるで現在の「電力自由化」とはまったく真逆のことですね。
そんな配電統制令によつて認められた9つの電気会社のうち、名古屋にできたのが中部配電という会社になります。
これは現在の中部電力の前身です。
1942年にこの中部配電に対して、伊那電気鉄道は電気供給を行っていく事業のための全ての資産設備を譲り渡したのでした。つまり、伊那電気鉄道の電気事業は、みな中部配電に対して渡され、統合され、引き継がれたのでした。
こうして伊那電気鉄道は、「電力会社」としての機能を失いました。
国鉄「飯田線」となり、伊那電気鉄道の生滅
一方、残っている鉄道事業についても、戦時中の1943年に国によって買収されたため国有化されて「飯田線」となったため、電気・鉄道の全ての事業を失った伊那電気鉄道は、これをもって解散したのでした。
明治時代にはまだ珍しかった「電車」を長野県で初めて動かした伊那電気鉄道は、常に電気不足との戦いであったのでした。
次回は、飯田方面へ
次回は「飯田線」の名前の由来ともなっている飯田(いいだ)方面へと向かってゆきます!
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
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