【姫路城】観光・歴史について、わかりやすく解説!

姫路城について、観光・歴史などをわかりやすく解説してゆきます!
初心者の方にもやさしく解説してゆきます!

  1. 世界遺産・姫路城
  2. 姫路城の由来
    1. ​姫路城は、なぜ「日本の城郭建築における最高峰」と呼ばれるのか?
      1. ​とても美しい、完成度の高さ
      2. ​保存状態の良さ
      3. ​日本独自の城郭構造
    2. 西国(西日本)監視・防衛の拠点だった姫路城
    3. ​なぜ、姫路城は「西国の防衛拠点」だったのか?
    4. ​姫路城は、なぜ「戦略的な立地」だったのか?
      1. そもそも「西国」とは?
    5. ​姫路城は「幕府の権威の象徴」でもあった!
  3. 姫路城の存在する、播磨の中心都市・姫路
    1. 姫路の由来
      1. ​姫路の名前の由来は、神話からきている?
    2. ​『播磨国風土記』とは、どんな書物?
      1. ​現在残っているのは「写本」
    3. 播磨国の国府・姫路
      1. ​そもそも「国府」や「播磨国」とは?
      2. ​播磨国は、昔のルールでは「大国」だった!
    4. ​姫路城は、もともと播磨国・国府のあった「姫路」にあった!
  4. 姫路城および播磨国の歴史
    1. ​平安時代から鎌倉時代にかけての姫路
    2. 赤松氏の存在をメジャーにした、赤松則村
      1. 後醍醐天皇とともに、鎌倉幕府を倒す
      2. 足利尊氏を助け、新田義貞を撃退
    3. ​江戸時代の姫路
    4. ​明治時代の姫路
  5. 赤松氏の歴史
    1. ​嘉吉の乱で、室町将軍を倒してしまう
      1. 前代未聞 ​赤松満祐は、なぜ将軍を殺したのか?
      2. 一旦滅亡した​赤松氏は、どのようにして復活したのか?
      3. ​「守護」と「国司」は、どう違う?
  6. 黒田官兵衛と姫路城には、深い関係があった?
    1. ​黒田官兵衛、秀吉に姫路城を譲る
    2. ​秀吉、播磨国を手に入れる!
      1. 三木合戦
      2. 秀吉・英賀城の攻略
    3. ​秀吉、天下を統一!
  7. ​江戸時代の姫路城
  8. おわりに・姫路城まとめ

世界遺産・姫路城

姫路駅からの、姫路城の眺め(兵庫県姫路市)

姫路駅からの、姫路城の眺め(兵庫県姫路市)

​今回は、世界遺産にも登録されている​姫路城について、一緒に見ていきましょう。
白鷺しらさぎが羽を広げたような、その美しい姿は、まさに圧巻ですよね!

しかし、姫路城の魅力は、その美しさだけではありません。
その裏には、戦国時代から現代に至るまでの、壮大でドラマチックな歴史が隠されているのです。
歴史のロマンを感じながら、一緒に姫路城の世界を巡っていきましょう。
きっと、今よりもっと姫路城が好きになるはずです。

姫路城の由来

姫路城(兵庫県姫路市)

姫路城(兵庫県姫路市)

姫路城は、まるで白鷺しらさぎが羽ばたくような美しい姿をしていますよね。

​実は、姫路城は「不戦の城(※)」とも呼ばれています。
なぜなら、城が築かれてから、大きな戦乱に巻き込まれることがほとんどなかったからです。

※戦時中も、姫路城不発弾やカモフラージュなどの様々な要因により、奇跡的に焼失を免れました。
これも姫路城が「不戦の城」と呼ばれる所以ゆえんです。

そのため、その美しい姿を今に残すことができたのかもしれませんね!

​姫路城は、なぜ「日本の城郭建築における最高峰」と呼ばれるのか?

​姫路城は、その美しい姿から「白鷺城しらさぎじょう」という別名でも親しまれています。

​しかし、美しいだけではなく、日本の城の最高峰と言われる理由は、次の3つが挙げられます。

白鷺しらさぎ:全身の羽が白い、サギとよばる鳥類の総称です。
岐阜県の下呂温泉げろおんせんには、温泉の由来となった白鷺伝説しらさぎでんせつがあります。
他にも、特急列車における「しらさぎ」は、主に名古屋敦賀を結ぶ特急列車です。

​とても美しい、完成度の高さ

これは言うまでもありません。
姫路城は 白鷺城しらさぎじょうと呼ばれるぐらい、まるで白鷺しらさぎのように美しいお城の形になります。

​保存状態の良さ

​多くの日本のお城は、老朽化などの理由で、今はほとんど残っていません。

​すなわち、姫路城は、今に至るまでボロボロにならず、奇跡的保存されてきたのです。

​日本独自の城郭構造

姫路城は、日本独自の城郭構造じょうかくこうぞうを最もよく示しているお城です。

城郭構造じょうかくこうぞう:敵からお城を守るための、様々な仕組みや工夫のことです。

​したがって、このお城を見れば、昔の人々がどのようにして敵と戦い、お城を守ろうとしたのかがわかります。

西国(西日本)監視・防衛の拠点だった姫路城

​​姫路城は、シンプルに美しいというだけではなく、実は「西国さいごく監視・防衛の拠点」という、とても重要な役割も担っていました。

​なぜ、姫路城は「西国の防衛拠点」だったのか?

​江戸時代、姫路城は、その頑丈な構造と、戦略的にとても良い立地のおかげで、次のような重要な役割を担っていました。

  • 西日本にいる大名の監視
  • ​幕府を防衛し、その権力を守る

​すなわち、姫路城は、江戸幕府にとって、重要な軍事拠点だったのです。

​姫路城は、なぜ「戦略的な立地」だったのか?

姫路城は、瀬戸内海せとないかいに近く、西国さいごくへのアクセスが良い場所に位置していました。

そもそも「西国」とは?

​そもそも、西国さいごくとは、昔から京都奈良といった都(畿内)から西にある国々(地域)を指した言葉です。

畿内きない:大昔の日本において、以下の5つの国のことをいいます。

  1. 大和国やまとのくに:現在の奈良県
  2. 山城国やましろのくに:現在の京都府南部
  3. 河内国かわちのくに:現在の大阪府東部
  4. 和泉国いずみのくに:現在の大阪府南部
  5. 摂津国せっつのくに:現在の大阪府北部と兵庫県南東部

まあ、畿内=ほぼ関西地方、と覚えておけばよいでしょう。

また、時代文脈によって「西国」の範囲は異なりますが、かつては特に九州地方を指すことが多かったようです。
しかしその後、中国地方四国地方も「西国」の中に含まれるようになりました。

​したがって、西国からの反乱侵略を防ぐための、重要な防衛拠点としての役割を担っていわけですね!

​姫路城は「幕府の権威の象徴」でもあった!

​江戸時代、西日本には、かつて関ヶ原の戦いで敗れたため、江戸幕府に恨みを持つ大名もたくさんいました。
​そんな西国大名たちにとって、姫路城の存在は、常に幕府の力を意識させるものでした。
すなわち、幕府に反逆して江戸に攻め込ませないための、重要な抑止力よくしりょくだったのです。

これは江戸幕府もよく理解していたので、攻め込まれる前に姫路城で食い止めるという、防衛拠点としての役割は、本当に重要だったのですね!

姫路城の存在する、播磨の中心都市・姫路

姫路の由来

姫路城へのアクセス拠点・姫路駅(兵庫県姫路市)

姫路駅(兵庫県姫路市)

姫路のという地名は、お城が建っている「姫山」という場所の昔の名前「日女路ひめじの丘」に由来すると言われています。

​「ひめじ」という響きが、なんだか可愛らしいですよね!

実は、この名前には、とても古い歴史があるのです。

​姫路の名前の由来は、神話からきている?

姫路という地名は、古くは『播磨国風土記はりまのくにふどき』に登場する「日女道丘ひめじおか」という丘の名前から来ていると言われています。

​この「日女道丘ひめじおか」は、神話の中でも

  • 神様の船が流れ着いた場所」とされています。

そして、その時に流れ着いた「蚕子ひめこ」が転じて、「ひめじ」と呼ばれるようになった、と伝えられています。

​そもそも、昔はカイコのことを「ひめこ」と呼んでいたそうです。
したがって、この地域は、昔、養蚕業ようさんぎょうがとても盛んだったのかもしれませんね!

​『播磨国風土記』とは、どんな書物?

​ここで『播磨国風土記はりまふどき』とは、奈良時代にまとめられた、今の兵庫県にあたる播磨地方はりまちほうの地理や歴史、伝説などを記録した書物です。

なにせ大昔の書物であるため、現代人の我々にはわけのわからないフォント(万葉がななど)で書かれており、よほどの専門家でない限り、読むことは難しいでしょう。

​現在残っているのは「写本」

​ちなみに、現在残っている風土記は、原本ではなく、何度も書き写されてきた「写本しゃほん」だけです。
つまり、コピー機がない時代に、手書きで写された「コピー」ということです。
そのため、時の権力者によって、都合の悪い記事が削除されたり、内容が書き換えられたりした可能性も指摘されています。
​現在残っている写本は、平安時代に書かれたもので、国宝にも指定されています。

古代の播磨国はりまのくにの人々の生活や文化を知る上で、とても貴重な資料となっているのですね!

播磨国の国府・姫路

​​姫路は、奈良時代に播磨国はりまのくに国府こくふが置かれた場所でもありました。

姫路城が建てられるずっと前から、この場所はとても重要な場所だったのですね!

​そもそも「国府」や「播磨国」とは?

播磨国はりまのくにとは、今の兵庫県南西部にあたる地域のことです。
播州ばんしゅう」という別名でも知られています。

​そして、国府こくふとは、奈良時代から平安時代にかけて、今の都道府県にあたる場所に置かれた「地方政治の中心地」のことです。
つまり、今の県庁所在地に似ていますね。

すなわち、国府には、都から派遣された国司こくしという役人が、政治を行うための建物や、倉庫・住居などを建てていました。
つまり、ある種の「地方の都市」を形成していたのです。

​播磨国は、昔のルールでは「大国」だった!

播磨国はりまのくには、奈良時代の法律である律令制りつりょうせいでは、「山陽道さんようどう」というエリアに属していました。

昔は「どう」というと、単なるルートのことではなく、大きなエリアを指すことばでもありました。
現在でも「北海道ほっかいどう」に、その名残がありますよね。

​また、当時の法律である延喜式えんぎしきというルールでは、なんと「大国たいこく」に格付けされていました。
大国たいこくとは、今の都道府県で言うと、人口が多く、重要な役割を担う場所のことです。
当時の播磨国は、とても重要な地域だったことがわかりますね!

​姫路城は、もともと播磨国・国府のあった「姫路」にあった!

播磨国はりまのくにでは、国府国分寺こくぶんじが、現在の姫路市に置かれていました。

国分寺こくぶんじとは、奈良時代に建てられた、国ごとに一つずつ置かれたお寺のことです。
つまり、姫路という場所は、昔から政治文化の中心地だったのです。

その場所に、後に姫路城が築かれたというのは、なんだか運命的なものを感じますね!

国分寺こくぶんじとは何か?については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

中央線鉄道唱歌 第7番 川越方面への分岐点、国分寺に到着 聖武天皇勅願による寺のあと
中央線鉄道唱歌を、小学生にもわかりやすく解説しています。鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説します。

姫路城および播磨国の歴史

​平安時代から鎌倉時代にかけての姫路

​平安時代から鎌倉時代にかけて、姫路では荘園しょうえんという大きな田んぼが広がっていきました。

荘園しょうえんとは、昔のエライ人たちが耕しまくって出来た、巨大な田んぼ・農園のことです。
ドロボーや不当な税金からの取り立てから防御・防衛するために、さまざまな工夫がこらされていました。

荘園について詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

鉄道唱歌 関西編 第19番 亀山を出発し、紀勢本線を南下 一身田駅を過ぎ、やがて津市へ
鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の歌詞を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

​その後、鎌倉時代の終わり頃、14世紀の初めには鎌倉幕府に対して不満を抱いた、「悪党」と呼ばれる勢力が現れるようになってきます。

鎌倉時代終盤および「悪党」について詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

鉄道唱歌 関西編 第40番 高田駅を出て、窓の右にそびえる大和葛城山と金剛山 そして千早城の戦い
鉄道唱歌 関西・参宮・南海編を、小学生にもわかりやすく解説しています。鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説します。

そして以下で解説する通り、赤松則村あかまつのりむらが兵を挙げ、鎌倉幕府を倒すための戦いに参加しました。

赤松氏の存在をメジャーにした、赤松則村

赤松則村あかまつのりむら鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将です。

後醍醐天皇とともに、鎌倉幕府を倒す

後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動(元弘げんこうの変)に加わり、足利尊氏らとともに、鎌倉幕府を滅ぼすための戦いで活躍しました。

元弘げんこうの変について詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

鉄道唱歌 関西編 第10番 笠置山と元弘の変 鎌倉幕府を倒すための戦い
鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の歌詞を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

足利尊氏を助け、新田義貞を撃退

また、その後の後醍醐天皇による建武の新政に不満を抱いた足利尊氏が、後醍醐天皇と新田義貞にったよしさだに対して挙兵することとなりました。

そのとき、新田義貞の軍に追われて九州へ敗走するときに、播磨の上郡かみごおりにあった白旗城しらはたじょうに立て込もって、新田軍の追っ手を迎え撃ち、足利軍の九州落ち・再起を助けました。

上郡かみごおり:現在の相生駅あいおいえき(兵庫県相生市)のやや北西にある、山陽本線・上郡駅かみごおりえきのある場所です。
また、鳥取方面へと続く智頭急行ちずきゅうこうとの分岐点であります。

その後、足利尊氏は九州から復活して、楠木正成らを倒し、室町幕府を成立させたのでした。その後、赤松則村はその功績によって播磨国守護に任じられ、赤松氏を室町幕府を支える有力な守護大名に押し上げました。

​江戸時代の姫路

​そして、時代は移り、関ヶ原の戦いの後、池田輝政いけだてるまさ姫路城を改築し、この地を支配しました。

​その後、この地域には、

  • 姫路藩ひめじはん
  • 明石藩あかしはん
  • 赤穂藩あこうはん

などが置かれました。

それぞれ、今の姫路市ひめじし明石市あかしし赤穂市あこうしを中心とした地域ですね!

​明治時代の姫路

​明治時代になると、1871年の廃藩置県はいはんちけんによって、兵庫県ひょうごけん姫路県ひめじけんに分かれました。

廃藩置県:昔の藩を廃止して、を置くという、明治政府が行った行政改革のことです。

しかし、その後、姫路県は飾磨県しかまけんと名前を変え、さらに1876年には兵庫県に編入されました。

​ちなみに、現在の姫路市街地にある本町遺跡ほんまちいせきは、昔の国衙こくがの跡だと考えられています。

国衙こくが国府と似ている言葉ですが、国府は国衙のある都市全体であるのに対して、国衙は行政機関そのものを指します。

赤松氏の歴史

​嘉吉の乱で、室町将軍を倒してしまう

赤松一族の歴史は、それは波乱万丈なものでした。

前代未聞 ​赤松満祐は、なぜ将軍を殺したのか?

赤松満祐は、嘉吉かきつの乱という事件で、室町幕府の第6代将軍、足利義教あしかがよしのりを暗殺しました。
なぜなら、義教が多くの人々を恐怖で支配していたからです。

足利義教あしかがよしのり:室町幕府の第6代将軍(在職:1429年~1441年)です。父は第3代将軍の足利義満で、第4代将軍の足利義持の弟にあたります。
兄である第4代将軍・足利義持が跡継ぎを決めないまま亡くなったため、くじ引きによって後継者が選ばれることになりました。
この「くじ引き」で選らばれたという経緯から、「くじ引き将軍」とも呼ばれています。

しかも、将軍になった経緯が、なんとくじ引きだったそうです。
義教のやりたい放題な政治は、もはや貴族、そして各地の大名たちを恐怖に陥れたのでした。

そして、赤松満祐足利義教恐怖政治の標的(ターゲット)となり、自分の立場が危うくなったため、暗殺を決意したのです。
そしてついに、​1441年(嘉吉元年)、赤松満祐京都にある自分の屋敷のうたげ足利義教を招き、殺害しました。

その後、赤松満祐は自分の領地である播磨国に戻りますが、室町幕府は赤松氏を「幕府に反乱した敵」として討つため、討伐軍を播磨へと派遣しました。
そのため、最終的に、赤松氏一族は幕府軍に敗れて滅び、赤松満祐も自害しました。

しかし、足利将軍が殺害されるという、このなんとも前代未聞の事件は、室町幕府の権威を大きく傷つけました。
また、幕府が混乱したことで、有力な大名たちが領土を奪い合う動きが加速しめゆき、後の応仁おうにんの乱へとつながっていきました。

一旦滅亡した​赤松氏は、どのようにして復活したのか?

​嘉吉の乱で、一度は滅びた赤松氏ですが、今度は赤松政則あかまつまさのりが中心となって再興(復活)されました。

彼は、応仁の乱をきっかけに、播磨はりまの戦国大名として、再び力をつけていきました。

なんとも、すごい執念ですね!

​「守護」と「国司」は、どう違う?

​鎌倉時代には、守護しゅご国司こくしという、2つの重要な役職がありました。

それぞれの役割は、以下の通りです。

  • 守護
    • 鎌倉幕府が選び、その国の武士を統率し、治安を守る役割を担っていました。
    • ​現代でいう県知事+警察本部長のような非常に強い権限を持ったトップというイメージです。
  • 国司
    • 朝廷ちょうていが選び、法律に基づいた仕事を行っていました。
    • ​今でいうと、県知事のような役割ですね。

​どちらも県知事レベルの権限は持っているため、当初はこの二者で二重行政のような状態でした。
しかし、次第に守護の方が力を持つようにってゆき、国司の権限はどんどん形骸化してゆきました。

したがって、

国司の権限は、少しずつ弱まっていった

というわけです。

黒田官兵衛と姫路城には、深い関係があった?

​黒田官兵衛、秀吉に姫路城を譲る

織田信長が中国地方へと勢力を広げていく中で、当時は家臣(部下)だった羽柴秀吉はしばひでよしが、播磨国はりまのくににやってきました。

その時、秀吉の勢力に恐れを抱いてしまった黒田孝高くろだよしたか、つまり黒田官兵衛くろだかんべえは、自分の城である姫路城を秀吉に譲ることにしました。
つまり、「長いものには巻かれよ」という感じで、無理に抗って滅ぼされるよりは、素直に秀吉に協力しておいたほうが、後々いいことがあると判断したわけですね。

これにより、姫路城織田家(+秀吉)がこれから中国地方毛利氏を攻めていくための、重要な拠点となったというわけです。

​秀吉、播磨国を手に入れる!

​1576年、中国攻めを進める信長の命令で、秀吉播磨国に来ました。
すると、播磨の武士たちは、

  • 織田氏に味方する派
  • 毛利氏もうりしに味方する派

に分かれて、激しく対立しました。
まさに、戦国の世ですね。

三木合戦

しかし、1580年には、秀吉が三木合戦みきがっせん三木城みきじょうを攻め落とすことになります。

三木合戦みきがっせんは、1578年から1580年にかけて、現在の兵庫県三木市で行われた合戦です。
相手側の別所長治べっしょながはるは、難攻不落とされた三木城みきじょう籠城ろうじょうしましたが、秀吉は城への兵糧ひょうろうの搬入路を断ち、約2年にわたる兵糧攻めを行いました。

これにより城内では多数の餓死者が出たとされ、この戦いは「三木みき干殺ひごろ」とも呼ばれています。
最終的に別所長治は、お城の兵士たちの助命を条件に、一族と共に切腹し、三木城は開城しました。つまり、彼は自らの命と引き換えに、城の人々の命を救ったわけです。

これにより、織田側の羽柴秀吉軍勝利しました。

秀吉・英賀城の攻略

三木城を落とした秀吉は、続いて英賀城あがじょうなどを攻め落としてゆき、見事に播磨国を手中に収めました。

英賀城あがじょうは、かつて兵庫県姫路市のやや西側にあったお城です。
中世には「播磨最大の都市」とも呼ばれ、栄えましたが、 織田信長播磨攻略により、羽柴秀吉の攻撃を受け、1580年に落城しました。

​秀吉、天下を統一!

​1582年6月、秀吉は、主君の信長を裏切って殺害した明智光秀あけちみつひでを倒し、天下統一への道を歩み始めました。

その後、1583年には、天下統一の拠点として築いた大坂城おおさかじょうへと拠点を移しました。
姫路城には、弟の豊臣秀長とよとみひでながが入りました。

この後、秀吉が日本を統一したことは、あなたもご存知の通りです。

​江戸時代の姫路城

​江戸時代になると、「西国将軍」や「姫路宰相ひめじさいしょう」と呼ばれた池田輝政いけだてるまさが姫路藩を創設しました。
そして、姫路城を現在の姿に改築しました。

そして、冒頭に述べた通り、江戸時代の姫路は、西日本の大名の監視拠点として重要な役割を果たしてきました。

黒田官兵衛から秀吉、そして池田輝政へと、姫路城は日本の歴史の中心で、様々な人物によって受け継がれてきたのですね!

おわりに・姫路城まとめ

さて、今回は姫路城の歴史を、様々な角度から見てきましたが、いかがでしたでしょうか。
単なる美しいお城ではなく、日本の歴史を動かしてきた、多くの人々の想いが詰まった場所だったのですね。

黒田官兵衛や​池田輝政といった、歴史上の有名人物たちによって、姫路城が現在の姿にまで守り抜かれてきたことを知ると、なんだか感動してしまいますよね。
次に姫路城を訪れる際は、ぜひ今回学んだ歴史を思い出しながら、ゆっくりと散策してみてくださいね!

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