上越線:浦佐・小出の鉄道旅と、魚沼市の地理・歴史、さらにダム建設の歴史などについて、わかりやすく解説してゆきます!
上越線・六日町→浦佐→小出(→長岡・新潟)
前回は、主に南魚沼市の観光や地理などについてお話しました。
今回は、六日町駅(新潟県南魚沼市)を出て、浦佐駅(南魚沼市)・小出駅(魚沼市)・長岡・新潟方面へ向かってゆく行程となります!
上越線・越後湯沢→六日町までの行程については、前回の記事をご覧ください。

六日町駅〜五日町駅付近(右側)「越後三山」の登場
ここからは車窓の右側に、まさに景色のハイライトである越後三山の登場・競演です!
越後三山の一つ:八海山(はっかいさん)
八海山:越後三山の中でも、最も手前(南側)に見える山です。
ゴツゴツした岩が並ぶ、険しい山頂が特徴です。
所在地:新潟県・南魚沼市
古くから山岳信仰の対象とされてきた(つまり、山に神様が宿ると信じられてきた)、険しい岩峰を持つ名峰です。
「越後駒ヶ岳」「中ノ岳」とともに、越後三山の一つに数えられます。
日本酒の銘柄としても、全国的に有名ですね!
越後三山の一つ:中ノ岳(なかのだけ)
中ノ岳:先述の八海山の左奥に見える、越後三山の中で最も高い山です。
まるでピラミッドのような、力強い形をしています。
所在地:新潟県南魚沼市・魚沼市
いわゆる越後三山の最高峰(標高2,085m)になります。
この山は非常に奥深い場所にあり、しかも登山道も険しいため、越後三山の中でも(三つの山の中で)最も登る難易度が高いと言われています。
越後三山の一つ:越後駒ヶ岳(えちごこまがたけ)
越後駒ヶ岳:越後三山のなかで一番北側に見える、美しい三角形の山です。
所在地:新潟県南魚沼市・魚沼市
標高2,003mを誇り、日本百名山の一つに選ばれています。
どっしりとした風格があり、地元では親しみを持って「駒(こま)」というふうに呼ばれています。
浦佐駅(南魚沼市)に到着
やがて、上越新幹線も止まる駅である、
- 浦佐駅(新潟県南魚沼市)
に到着します。
浦佐駅と田中角栄の関係
この駅は、まさに「政治の力」と切っても切れない関係にあります。
まずは、駅前の巨大な銅像です。
浦佐駅の東口には、田中角栄元首相の大きな銅像が立っています。
すなわち、新潟県出身の田中角栄氏が、当時はまだ雪深くて不便だった地元を豊かにするために(後述)、新幹線や高速道路の整備(これも後述)を、強力かつ次々に進めていったのでした。
「なぜこの位置に駅が!?」論争
また、なぜこの場所に新幹線の駅が?とよく言われることもあるわけですが、浦佐駅は(後述するような)この地域の広域的な拠点として、また彼の強力なリーダーシップによって設置されたと言われています。
他にも、浦佐駅に新幹線駅が決定した理由として、
- もし六日町に新幹線駅を設置すると、越後湯沢に近すぎること
- もし小出駅の位置に新幹線駅を設置すると、線形が大きなカーブになること(小出駅の位置は、新幹線のルートからやや外れているため)
など、現代でも様々な議論がなされています。
田中角栄氏が「浦佐駅」にこだわった理由
また、浦佐の位置に新幹線の駅を作った理由として、魚沼地域の玄関口という点が挙げられます。
浦佐の地は、奥只見ダムの建設拠点であり、周辺の魚沼地域の全体をカバーできるような、まさにその中心地でした。
また、単なる駅ではなく、そこを拠点に大学(国際大学)や病院、道路を整備し、地域全体のレベルを底上げしようとしたのです。
大学ができれば、生徒や教授たちが増えて、人口が増えます。道路を作れば、雇用も増えて、人々の買い物もしやすくなるわけです。
さらには、政治的シンボルという点です。
まさに自分の故郷に近い場所に、未来への希望である新幹線を停めることで、地元の人たちに
という自信を与えたかったのかもしれませんね。
新潟より先に金沢を通すべきだった?
これについては、今でも鉄道ファンの間で熱い議論が交わされるテーマです!
当時はもちろん、北陸(金沢・富山)の方がむしろ産業の集積・発展があり、需要が高いため、そちら(北陸新幹線)を優先すべきという意見もありました。
また、新潟優先の理由という点です。
これには、やはり田中角栄さんという、すごい力を持った政治家の存在が大きかったです。
彼は「雪国の解消」を掲げ、最短ルートで日本海側(新潟)へ抜ける道を優先しました。
ただし、先に新潟へ通したことで、上越新幹線は「スキー観光」という巨大な市場を生み出し、湯沢の発展に繋がったという結果ももたらされました。
関越自動車道も田中角栄の功績?
また、東京と新潟をそれぞれ結ぶ高速道路である関越自動車道ができたのも、間違いなく田中角栄さんの最大の功績の一つと言えます!
- 関:関東
- 越:越後
日本列島改造論の一環
まずは、「日本列島改造論」の象徴という点です。
彼は、
- 「雪で閉ざされる裏日本(日本海側)を、
- 道と鉄道によって、表日本(太平洋側)とつなぐ」
という、なんとも壮大な計画を立てました。
「表日本」と「裏日本」の分断
なんだか「表日本」と「裏日本」というと結構強烈なワードですが、田中角栄さんがあえてその言葉を使った背景には、当時の深刻な格差がありました。
まずは、冬の絶望的な分断です。
新幹線や高速道路ができる前、冬の三国峠は雪で閉ざされてしまい、人や物の流れが完全に止まっていました。
また、経済の格差も深刻でした。
太平洋側が急速に工業化して豊かになる一方で、日本海側は「出稼ぎ」に行かなければ生活できないほど、経済的に取り残されていたのです。
したがって、彼は「日本列島改造論」によって、文字通り物理的な壁(山)をぶち破り、日本を一つに繋ごうとしたのですね。
「関越トンネル」への情熱
次に、彼の「関越トンネル」への執念についてです。
群馬と新潟を大きく分け隔てている、とても険しい谷川岳を貫くための「関越トンネル」は、当時の最先端の土木技術を集めまくってもそれでもなかなか進まないような難工事でした。
しかし、彼の強い後押しと、
という熱量により、実現したのでした。
これにより、冬でも新潟から東京へ野菜や魚、そして人を運べるようになったのです!
田中角栄氏は新潟県の生まれ?
そして、田中角栄さんは新潟県のこの地域のすぐ近くの生まれですよ!
すなわち、新潟県の日本海側に位置する、現在の新潟県柏崎市(旧・西山町)の出身です。
彼は、雪国の苦労をとてもよく知っている人でした。
幼い頃から、雪に閉ざされる故郷の不便さを、肌で感じていました。
だからこそ、
という強い思いで、上越新幹線や関越自動車道を引っ張ってきたのですね。
かつてダム建設の作業員で賑わった町・浦佐
浦佐と奥只見ダムの従業員たち
また、浦佐はダム建設における、多くの作業員たちがそこに待機・常駐する、重要な拠点・後方支援基地でした。
まず、奥只見ダム(銀山平)という山奥の険しい場所へ向かうため、材料などの物資は、まず上越線の浦佐駅や小出駅に集められました。
そして、ダム建設は「世紀の大工事」と呼ばれ、延べ600万人もの人々が携わりました。
そのため、浦佐周辺には、工事関係者たちが泊まるための宿舎や事務所が多く置かれ、当時は大変な活気に満ちていたそうです!
奥只見ダムの「ツワモノ」たちへの接待
そんな、浦佐や小出の街は、当時「ダム景気」で、凄まじい活気に溢れていました!
まず、給料はとても破格でした。
危険を伴う巨大プロジェクトだったため、作業員たちの給料は、当時としては非常に高額でした。
そして、厳しい現場で働く男たちが、休みの日には浦佐の街へと繰り出し、お酒や娯楽に、たくさんのお金を落としてゆきました。
そこはたくさんの飲食店や遊興施設が立ち並び、「山からお金が降ってくる」と言われるほど潤っていたそうです。
すなわち、彼らの活力こそが、戦後の日本の復興を支えていたというわけですね。
豪快に働く男の人たちを、美味しいお酒と温泉、そして温かい地元の人たちが迎えていたわけです。
小出駅(魚沼市)に到着
只見線との分岐駅・小出駅 (浦佐→小出)
小出駅(新潟県魚沼市)は、
- 上越線
- 只見線
とがそれぞれ接続する、魚沼市の玄関口となる駅です。
この駅の魅力は只見線という、秘境を走るローカル線への旅の始まりとなる点です。

只見線の車窓(新潟県・福島県)
すなわち、只見線は、
- 福島県の会津若松
まで、山深い自然の中を縫うように走ります。
只見線については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

したがって、小出駅は、
- 上越線の利便性
- 只見線の旅情
がそれぞれ交差する、鉄道ファンにとっては特別な場所というわけです。
ここから只見線に乗ると、日本の原風景に出会えるような、感動的な旅が待っていると思いますよ!
只見線の終点が小出駅である理由
ちなみに、なぜ只見線の終点が、例えば長岡駅などのような大きな駅ではなく、小出駅となったのか。
それはシンプルに小出駅は、古くから魚沼地方の交通の要所だったからでした。
つまり、魚沼地方の中心地(=小出駅の位置)に線路を通したかったからというわけです。
小出は魚野川に面しており、かつては川を使った輸送と、陸路が交わる場所でした。
つまり、船で運んだ荷物を、陸での運搬に引き継ぐための(逆もしかり)、重要な場所でした。
また只見線が全通するときには、当時すでに交通の大動脈・メインルートだった上越線に接続させて、福島方面からの物資や人をスムーズに運べるようにしたいという狙いがあったわけです。
したがって、只見線の終点が小出駅となっているのは、当時の小出町(現在は魚沼市)が地域経済の中心だったことが大きな理由ですね!
魚沼市について (上越線:浦佐→小出)
「魚沼」という名前の由来
「魚がたくさんいたから?」と思われがちですが、実は諸説あります。
まずは、「いぬ」説です。
すなわち、この地域が入り組んだ地形で、道に迷いやすかったことから「いぬ(迷う)」が転じたという説。
次に、「魚の沼」説です。
こちらは、まさに読んで字のごとくの説です。
つまり、アユなどの魚が豊富に獲れるという、
という意味も含まれていると言われています。
地名:魚沼と六日町・小出、どっちが古い?
歴史の深さ・長さでいうと、圧倒的に「魚沼」の方が古いです!
魚沼という地名は、古代からありました。
奈良時代の記録(正倉院文書など)にはすでに「魚沼」という名前が登場します。
すなわち、「魚沼」は1300年以上の歴史があるほどの、由緒正しい・伝統的な地名であるというわけです。
ちなみに、六日町・小出は、中世〜近世にかけて登場した地名です。
これらは市場が開かれるようになった中世から江戸時代にかけて、町として発展し名前が定着しました。
したがって、大きなエリアとしての「魚沼」が先にあり、その中に「六日町」などの集落ができていったという流れです。
次回は、越後川口・小千谷方面へ
おわりに:さて次回は、越後川口・小千谷・長岡・新潟方面へ向かってゆきます!
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