鉄道唱歌 東海道編の歌詞(京都の四条大橋や、足利義政の建てた銀閣寺など)について、わかりやすく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
冬は雪見の銀閣寺
櫻は春の嵯峨御室
紅葉は秋の高雄山
さらに読みやすく!
冬は雪見の 銀閣寺
桜は春の 嵯峨御室
紅葉は秋の 高雄山
さあ、歌ってみよう!
♪ふーゆはゆきみの ぎんかくじー
♪さくらははーるの さがおむろー
♪もみじはあーきの たかおやまー
京都駅→五条駅→四条駅→烏丸御池駅→丸太町駅→今出川駅
→(至・国際会館駅)
(山陰本線/嵯峨野線)
京都駅→梅小路京都西駅→丹波口駅→二条駅→嵯峨嵐山駅
→(至・保津峡駅、亀岡駅、園部駅)
※上記は全ての駅でなく、今回の京都観光に必要と思われる駅などを筆者の独断と偏見でピックアップしたもの
まだまだ続く、京都観光シリーズ 今回も京都の名所旧跡が盛りだくさん!
今回もまだまだ、京都の観光が目白押しです。
まだまだ続きますよ!!
それだけ京都の観光地は多いということです。
四条大橋と鴨川 祇園へと渡すその橋

四条大橋(京都府京都市)
四条大橋は、
- 四条河原町
- 東の祇園方面
とを結ぶ、鴨川にかかる橋となっています。
京都の若者のメインの遊び場所といえば、やはり四条河原町周辺だと思います。
そして、その鴨川にかかる四条大橋を渡ると、一気に風情のある、「祇園」と呼ばれるエリアに入っていきます。
祇園に建ち並ぶ、豪華で風情ある料亭
そこには、いわゆる「一見さんお断り」という高級料亭が並びます。
こうした高級料亭は、オーダーしてすぐ出来るのではなく、
- 何日も前から予約して、
- 最高級の食材を仕入れ、
- 熟練した料理のスペシャリストによって、
- 何日も何日も時間と手間をかけて作っていく
というわけです。
もちろん、これだけの高級食材を使い、また職人の手で何日もかけて作るため、1食最低でも1万5,000円~2万円程度から始まります。
そのため、こうした高級料亭はひとたびキャンセルされると、非常に困るといいます。
ただ近年は、社会全体の平均年収の低下などにより、より一般の人向けで入りやすいような店舗に変わってきている、という動きもあるようです。
祇園社にはじまる、スサノオを祀る八坂神社
また、前回も説明したように、祇園エリアには「八坂神社」という、スサノオ(素戔嗚尊)という神様を祀る神社があります。
「祇園」という地名は、かつて「祇園社」という名前だった八坂神社に由来します。
ちなみに、私は昔からよく祇園周辺は散策していました。
しかし、いつも日本人は私だけで、周りは外国人ばかりだった気がします(^^;)
私は珍しいタイプの日本人なんですかね?
そして、それだけ祇園は外国人に愛されている場所なんだなと実感しました。
足利義政の文化の象徴・銀閣寺
銀閣寺とは、正しくは慈照寺と呼ばれます。
慈照寺は、8代将軍足利義政によって建てられた、非常に価値の高い建物です。
足利義政の、後継者争い問題
足利義政は、妻である日野富子の将軍後継者の権力争いを巡って、応仁の乱と△いう、とんでもない戦乱を引き起こしてしまいました。
元々は、足利義政の弟が将軍になるはずだったのでした。
しかし、妻の日野富子に男の子が生まれたため、可愛い我が子を将軍にしたいという母親の意向と、優柔不断でどちらを将軍にするか決められない夫の足利義政のために、「子か弟か」という争いが勃発することとなったのでした。
そして、それぞれのバックに細川氏・山名氏という強力な武士達が、次々に付いて参戦し、両者入り乱れて戦うという、まさに「応仁の乱」が勃発してしまったのでした。
京都中を戦禍に巻き込んだ、応仁の乱
この「応仁の乱」は、1467年から約11年間、京都全体を戦火に包んだとてつもない戦いです。
しかし、約11年後にようやく戦いが終わると、時代はそのまま戦国時代に突入してしまいました。
応仁の乱は、最初はあくまで先ほど述べた後継者争いの闘いにすぎませんでした。
しかし、後にどさくさに紛れて、もはや本来の目的だったはずの後継者争いはどうでもよくなり、自分たちの強さを誇示して支配欲を満たしたいための、いわばドロ沼の戦いとなってしまったのでした。
応仁の乱は、その後11年間も続いてしまい、京都の街を灰に変えてしまったのでした。
応仁の乱から、波乱の戦国時代へ
しかもその戦乱はそれのみならず、なんとそのまま戦国時代へつながるきっかけとなってしまいました。
その結果、力さえ強ければどんな者でも一人前になれるという、群雄割拠の時代になるのです。
それまでは、たとえどんなに武術が強くて能力が高かったとしても、身分が農民であれば出世はできない・偉い立場の人にはなれないという、不遇な時代でした。
しかし戦国時代になると、その常識が覆されました。
あの豊臣秀吉も、元々は農民という身分でしたが、実力で天下に上り詰めた人でした。
戦乱をよそに、趣味・文化に没頭した足利義政
一方、将軍職をゆずって政治をやめてからの足利義政は、自分のやりたいことに没頭します。
そのやりたいことというのが、文化と芸術です。
彼は、京都の東側にある山である「東山」の麓の地域で、その文化を開花させたのでした。
そのため、このときの室町時代の文化を「東山文化」と呼ばれます。
東山文化は、室町幕府三代目将軍であった足利義満の築いた北山文化と並んで、室町時代を代表する文化となっています。
その東山文化は、日本庭園だったり、「畳」や「襖」などからなる和室などがにはじまります。
そしてそれらは、現代にも通じる、そして外国人にも好んで愛される日本独特の襖と畳と庭園の文化となっています。
政治には向いていなかったが、文化には才能があった足利義政
はっきり言って、彼は政治家には向いてなかったのでしょう。
もしかしたら、発達障害の気質もあったのかもしれません。
つまり、苦手や興味がないことには全く無関心で、努力しようともしないわけです。
しかし、好きなことになるととことん追求して努力を惜しまないのは、典型的な発達障害の気質であると思います。
足利義政は、政治に関してはてんでダメでしたが、 文化に関しては一流の才能を発揮しました。
人は例え過去にうまくいっていなくても、どこで才能開花するか分からないものです。
現代でも、例えば会社員として全く務まらなかった人が起業して成功したり、また転職した瞬間に適材適所に配置されて、うまくいくケースもありますよね。
日本文化を愛したクイーン(QUEEN)
私はクイーン(QUEEN)というイギリスのロックバンドが好きなのですが、彼らは日本庭園とはじめとする日本の文化が大好きだったそうです。
歌を担当していたフレディ・マーキュリーは、日本庭園を自宅に持っていたそうです。
また、ギターのブライアン・メイも、日本の畳が大変気に入ったそうです。
クイーンは1973年のデビューのとき、本国イギリスでは散々「時代遅れだ」などと批判され、酷評されていたのでした。
しかし、日本に初めて来たときに多くの日本のファンから歓迎され、そこから彼らは日本が大好きになったそうです。
「Teo Torriatte(手を取りあって)」という(サビのみですが)日本語の曲があるほどです。
クイーンのメンバーは何度もプライベートで日本に来たり、京都を訪れていたといいます。
足利義政が残した日本の文化は大きかった
もし、この時の足利義政による、現代の日本文化にも通じる文化人としての努力と才能が無かったら、もしかしたらクイーンのメンバーがあれだけ日本を愛することはなかったかもしれません。
そして、日本の文化がこれだけ多くの外国人から愛されることもなかったかもしれません。
※ただし日本庭園自体は、平安時代の「平等院鳳凰堂」の頃から存在していました。
古くから皇室の別荘地だった、嵯峨御室
嵯峨御室、つまり仁和寺は桜の景色がすごく優れた場所で有名です。
この桜は、「御室桜」と呼ばれ、京都でも特に遅咲きの桜として知られます。
仁和寺は、真言宗御室派の総本山のお寺として知られます。
御室(または、「みむろ」)とは、天皇陛下の居所、つまりお住まいのことです。
実際、この場所は平安時代の西暦900年代に宇多天皇の居所になったことに由来します。
宇多天皇は、かつてより仏教に対する興味が深かったため、息子の醍醐天皇に位を譲ると、出家して法王となりました。
ちなみに、「出家」とは僧侶として修行に出ることであり、「法王」とは出家した天皇のことをいいます。
さらに、宇多天皇は学問の神様・菅原道真を重用した天皇であり、また次の醍醐天皇のときに左遷されています。
また、嵯峨野という地域は、その約100年前に嵯峨天皇による離宮が置かれたことに由来します。
離宮とは、天皇の別荘のことであり、御用邸の大きいバージョンになります。
嵯峨野については、以下の各記事でも解説していますので、ご覧ください。


和気清麻呂にゆかりある、高雄山・神護寺
高雄山は神護寺といわれ、和氣清麻呂によって建てられたお寺です。
もちろん、東京都八王子市の高尾山とは異なります。
昔は、お寺のことを「山」とも呼んでいました(山号)。
お寺を開くことを「開山」といいます。
また、格式の高いお寺を「総本山」「大本山」などのようにいいます。
和氣清麻呂は奈良時代に、九州の大分県・宇佐神宮に赴いたことで知られます。
奈良時代は、仏教勢力があまりに強くなりすぎ、政治に意見介入するようになっていたことは、これまで何度も説明してきた通りです。
しかし、このときついに「道鏡」という仏教勢力の人物が「天皇になりたい」とまで言い出す状況までに発展しました。
和気清麻呂は、それが本当に正しいのかを神様に尋ねるために、わざわざ九州まで赴き、宇佐神宮で「道鏡は天皇に相応しくない」という、神様の答えを得たのでした。
この結果に道鏡は当然ながら怒りました。
その後に、和気清麻呂は罰として左遷されてしまったのでした。
和気清麻呂の宇佐神宮訪問のことは、鉄道唱歌 山陽・九州編 第35番でも歌われていますね。
詳しくは、以下の記事で解説していますので、ご覧ください。

まだまだ続く、京都観光 次回も頑張って勉強しよう
京都編は、まだまだ続きます。
そろそろ飽きてきたり疲れてきたりする人もいるかもしれませんが、頑張ってこれらの話題についてきていただければ幸いです。
では、次回に続きます!
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