大船渡線で、岩手県・陸前高田市へ 東日本大震災のあとをめぐる旅
今回は、東北・岩手県・宮城県を結ぶ大船渡線(おおふなとせん)に乗って、岩手県・陸前高田市(りくせんたかたし)の奇跡の一本松を訪れる旅について書いてゆきます!
つまり、2011年3月11日に起きた東日本大震災で、甚大な被害に遭った場所を訪れるということになります。
まずは岩手県一関市(いちのせきし)の、東北本線・一ノ関駅(いちのせきえき、岩手県一関市)からスタートします。
一ノ関駅については、これまで本サイトでも何度も解説しておますので、以下の記事をご覧ください。
冬の【東京→北海道】鉄道旅18(最終回)(帰り)盛岡→仙台→東京
鉄道唱歌 奥州・磐城編 第32番 一ノ関に到着! ここから岩手県へ
一ノ関駅は、今回メインで扱う大船渡線(おおふなとせん)への分岐駅でもあります。
また上記の記事でも紹介している通り、一関市(いちのせきし)は岩手県最南端の市でもあるため、岩手県への「南からの入り口」ともいうべき、重要な街です。また東北新幹線の駅もあるため、東京などの首都圏と日帰りで往復することも可能です。加えて仙台・盛岡のそれぞれの大都市にも近いため、交通の便も非常に良い街でもあります。
そして一関市は、これまで周辺の町村と合併を繰り返してきた歴史があるため、市のエリアがとても広いです。なので、今回メインで乗る大船渡線(おおふなとせん)も、大半の駅が一関市のエリアということになります。
大船渡線の旅 一ノ関市をずっと過ぎてゆく
大船渡線(おおふなとせん)は、一ノ関駅を出ると、ずっと市街地を大きく迂回します。しかし一ノ関駅の次の駅は、一関市街地からはかなり離れた真滝駅(またきえき、岩手県一関市)となり、真滝駅までは駅が存在しません。
ここで、途中で「関が丘」という住宅地・団地の近く(横)を通るのですが、私(筆者)はここで、
“もしここに「関が丘駅」というような駅があれば、団地の住民の皆さんは(一ノ関駅周辺の)市街地まで出るのが簡単になるんじゃないかなぁ~”
とか、個人的に勝手に思ったりするのでした。
しかし恐らく、一関市の住民の大半の方々は自動車をお持ちだと思うので、もし単に「関が丘」の団地から一関市街地にまで出るために「列車を使う」というニーズは、ほぼ無いものと思われます。
そもそも昼間の時間帯は、真滝駅でも2時間に1本しか列車がありません。なので、もし「関が丘駅(仮)」で列車を待っていたとして、その間に自動車または自転車で一関市街地に着いてしまうことでしょう。なので、一関市街地に近い「関が丘」のエリアには駅が存在していない(そもそも、駅建設の声自体が上がらない)というわけですね。
真滝駅を過ぎると、今度は一関市の広大なエリアの、のどかな田園地帯の中を進んでゆきます。途中の陸中門崎駅(りくちゅうかんざきえき)からは北へ大きく迂回し、日本百景の猊鼻渓(げいびけい)の横を通ったあと、摺沢駅(すりさわえき)・千厩駅(せんまやえき)を過ぎてゆきます。
そして新月駅(にいづきえき)を最後に岩手県一関市のエリアは終わり、今度は宮城県気仙沼市(けせんぬまし)に入り、やがて気仙沼駅(けせんぬまえき)に至ります。
岩手県の三陸海岸までを結ぶ、大船渡線
大船渡線(おおふなとせん)は、現在では気仙沼駅(けせんぬまえき)までの路線ではありますが、かつては気仙沼駅からさらに北東の陸前高田駅(りくぜんたかたえき、岩手県陸前高田市)・盛駅(さかりえき、岩手県大船渡市)までを結ぶ路線でした。
盛駅(さかりえき)は大船渡市(おおふなとき)の駅なので、大船渡線(おおふなとせん)というわけですね。
この気仙沼駅~盛駅の区間は、2011年3月11日に発生した東日本大震災において発生した津波により甚大な被害を受けてしまい、線路はみんな津波に流されてしまいました。そのため、それ以降は鉄道は復旧することなく、不通となってしまいます。
その代わり、2013年からは「大船渡線BRT」として、バスが代わりに運行されています。BRT(Bus Rapid Transit)とは「バス高速輸送システム」のことであり、JR東日本が運営するバス路線になります。
そして2019年になると、不通となっていた区間について「鉄道事業をもはや廃止します」という届け出が、国土交通省に対して正式に提出されたため、2020年には正式に廃止となったのでした。これにより、未来永劫(みらいえいごう)鉄道として復活することは無くなったのでした(もちろん、今後もし日本の人口が爆発的に増えて鉄道がまた必要になれば、話は別かもしれませんが・・・)。
「ドラゴンレール」の愛称で呼ばれる、大船渡線
1992年にJR東日本は、大船渡線の愛称を公募したのでした。
そこで、当時は故・鳥山明(とりやま あきら)さん作のアニメ「ドラゴンボールZ」がとにかく大人気だったこともあり、「ドラゴンレール」という案が集まってきたのでした。
これは、後述するように大船渡線の曲がりくねった線形が、まるで「ドラゴンボール」に出てくる神龍(シェンロン)の形にそっくりであることに加え、しかも大船渡線の沿線においても昔から龍の伝説があったことから、まさにピッタリだということで「ドラゴンレール大船渡線」と決定しました。
ちなみに神龍(シェンロン)とは、作中において「どんな願いも叶えてくれる竜」のことです。これは、たとえ死んだ人であっても生き返らせることができます。シェンロンは「ドラゴンボール」とよばれる球体を7つ集めることで現れます。ドラゴンボールは世界中に散らばって転がっているため、そのまま探すのは容易ではなく、「ドラゴンレーダー」とよばれるアイテムを使って探すことになります。
なぜ竜の形をしている?それは大正時代の「政治事情」にあった!
では、大船渡線(おおなたとせん)はなぜこんなドラゴンレールと呼ばれるような形になったのか。それは大正時代の政治問題がかなり関係してきています。
昔は、特に大正時代は、まだ自動車が一般的でなかったために、人々の移動手段として鉄道は特に重要でした。鉄道は明治時代の1872年に始まったわけですが、それ以降は鉄道はものすごい勢いで発展してゆき、多くの人が利用するようになりました。
そうなると、多くの人々が集まる「駅の周り」はとても発展していくことになります。逆に、鉄道の誘致に失敗して、自分達の町に「駅」が存在しないと、自分達の町は衰退のリスクがありました。もし隣の「駅がある町」に人々が集まる「活況」を奪われてしまうと、自分達の町は衰退するリスクすらあったのでした。
なので大正時代は、全国のあちこちの町が、自分達の町に鉄道が通るようにしようと、駅の誘致に必死だったのです。
こうした中で、大船渡線でも各地から駅の誘致合戦が繰り広げられたのでした。それも地元の政治家の力を頼って、政治の力で線路と駅を誘致するという活動が繰り広げられたのでした。
当初の計画では(当然といえば当然かもしれませんが)、陸中門崎駅(りくちゅうかんざかえき)から千厩駅(せんまやえき)へと真っ直ぐに抜けることになっていました。
ちなみに陸中門崎は「りくちゅうかんざき」と読みます。「もんざき」ではないので、注意しましょう。
しかし、この陸中門崎駅から、北へ大きく迂回して、摺沢駅(すりさわえき、岩手県一関市)を経由するという案がもちがったのです。これも、地元の誘致合戦が関係しています。
岩手県出身の原敬(はら たかし)が率いる立憲政友会(りっけんせいゆうかい)のサポートによって、摺沢の地元の政治家が「摺沢を経由して、千厩を通らずに直接、大船渡(おおふなと)へ向かう」というように、計画が変更されたのでした。
しかし、これでは千厩(せんまや)の町では困ります。なので千厩の町では、憲政会(けんせいかい)の政治家の力に頼って、駅の誘致活動を展開するようになってゆきました。
やがて千厩(せんまや)からの支持をベースにした憲政会(けんせいかい)が選挙において勝利すると、千厩の政治家の意見が反映されるようになったため、千厩を通るように、再び計画が変更されたのでした。
そして、こうした紆余曲折(うよきょくせつ)を経た結果、現在のような「ドラゴンレール」ともいえる線形となったのでした。
【当初の案】
陸中門崎→(まっすぐ)→千厩(せんまや)
※最もシンプルな案
【立憲政友会の案】
陸中門崎→摺沢(すりさわ)→千厩はスルー→大船渡(おおふなと)
※摺沢の町を「ひいき」したような形のルート
【憲政会の案】
陸中門崎→摺沢→千厩
※現代の形。千厩にも配慮したルート。これが「ドラゴンレール」の形。
今でこそ「ドラゴンレール」という雅称(がしょう)がついていますが、当時は「鍋弦線(なべづるせん)」などと揶揄されていました。
そしてこれは、いわゆる「我田引鉄(がでんいんてつ)」の代表例とされています。
「我田引鉄(がでんいんてつ)」という言葉は、簡単に言うと「自分達のエゴで、鉄道を引いてくる」というような意味合いの言葉です。もちろん、マイナスの意味の言葉です。
この「我田引鉄」は「我田引水(がでんいんすい)」という言葉からきています。これは、自分の田んぼに水を「我先(われさき)に」と引っぱってきたりしたりすることです。
「ドラゴンレール」の線形は正解だったのか
このように大船渡線(おおふなとせん)は、大正時代にさまざまな議論が重ねられた結果、線路は北へ大きく迂回する形になってしまいました。
なので大船渡線は、気仙沼(けせんぬま)・大船渡(おおふなと)などの三陸海岸地域と、一ノ関駅といった内陸部の地域を「最短で結ぶ」という機能は、残念ながら果たすことは出来ないという形になりました。
しかしこの線形により、「日本百景」にも選出された観光地である猊鼻渓(げいびけい)の近くを経由することになりました。
これで、猊鼻渓を訪れたいという観光客を乗せるための観光路線としての役割を果たすことができるようになったのでした。
さらに、猊鼻渓の近くで採れる石灰石(せっかいせき)という(日本では貴重な)資源を運ぶための貨物路線としても活用する需要ができたため、こうした役割も果たすことができたのでした。
なので「ドラゴンレール」とも呼ばれる北へ大きく迂回するルートは、必ずしもマイナス面ばかりではありませんでした。
しかしながら、トータルではやはりデメリットの方が大きかったというものでした。例えば、鉄道であれば一ノ関駅から千厩駅(せんまやえき)までは、実に40km近くの距離があります。
しかし自動車でならば、国道284号経由でおよそ24kmの道のりであり、車ならばかなりのショートカットになります。
これが後に「鉄道が自動車に負けていく」ことの要因となってしまうのてす。
国鉄時代には「急行列車」の設定があったりして、それなりに素早く移動することも可能でした。
つまり昔の大船渡線は、宮城県仙台市~岩手県一関市と、三陸の太平洋側の各都市との間を素早く結ぶための路線として、当時はそれなりに重要な交通手段でもあったのでした。
しかし鉄道(大船渡線)は、時代とともに自動車に負けるようになってくるのです。
時代とともに先述のような「線形の悪さ」が大きなデメリットとなってしまい、線路と並行する「高速道路」や「より綺麗で広い道路」が、次々に建設・整備されていくのです。また、便利な自動車も一般家庭にどんどん普及していくようになります。
すると、鉄道(大船渡線)は次第に自動車に負けていくようになっていくのです。
そして今や「高速バス」などに、ほとんどその機能やシェアを奪わる形になっています。
気仙沼駅に到着 ここからはBRT(バス)にて、陸前高田へと移動
大船渡線の終着駅である気仙沼駅(けせんぬまえき、宮城県気仙沼市)に到着すると、ここからはBRT(バス)に乗り換えて、陸前高田へと向かいます。
バスとはいってもJR東日本の区間なので、7日間11,300円で乗り放題となる「北海道&東日本パス」でも乗ることが出来ます。
また、ここから先は「津波で線路が流された区間」をバスで通っていくため、途中で東日本大震災のときに津波で浸ってしまった区間を通ったりもします。あの時、ここを津波が襲ったのだと思うと、なんだか当時の惨状が想像されます。
陸前高田市に到着
やがて、陸前高田駅(りくぜんたかたえき、岩手県陸前高田市)に着きます。ただしBRT(バス)なので、「駅」とはいっても、どちらかというと「バス停」に近い感じ・イメージにはなります。
陸前(りくぜん)とは、今でいう宮城県のことになります。
しかし、昔の「国」の領域と、現在の「県」の領域は必ずしも一致しないため、「陸前」とはいいつつも実際には岩手県の領域になります。ここは混乱しないように注意しましょう。
陸前国(りくぜんのくに):宮城県
陸中国(りくちゅうのくに):岩手県
陸奥国(むつのくに):青森県
ちなみに「高田市」は、全国的にみても比較的多い地名になります。
高田市(たかだし) :新潟県(ただし現在では合併して上越市に)
陸前高田市(りくぜんたかたし) : 岩手県
大和高田市(やまとたかだし):奈良県
安芸高田市(あきたかたし): 広島県
豊後高田市(ぶんごたかだし): 大分県
それぞれ市名の重複を避けるために、旧国名(昔の「国」の名前)を冠しているパターンが多いといえます。
また、「たかた」と「たかだ」の二パターンがあります。
ちなみにこの中で、陸前高田市の他にも圧倒的に知名度が高いのが、やはり広島県の安芸高田市(YouTube登録者数:約20万人)です。これはやはり、2024年東京都知事選で2位になった石丸伸二(いしまる しんじ)前市長による影響が大きいです。ただ石丸前市長の人気が高すぎたためか、石丸さんが辞めると(2024年11月現在では)YouTubeの登録者数も全盛期の26万人から20万人に減ってしまい、数億円もあったとされる「ふるさと納税」も激減してしまったようです。
話を元に戻します。
陸前高田市は、東日本大震災による津波で大きな被害を受けたため、今後は津波の影響を避けるために、より内陸部へ市役所を移転したりするなど、将来に備えた防災・減災に取り組んでいます。
奇跡の一本松
陸前高田市の海岸沿いにある「奇跡の一本松」 は、東日本大震災のときに奇跡的に津波で倒れなかった松の木になります。
かつて「奇跡の一本松」があった海岸沿いには、高田松原(たかたまつばら)という松原がありました。これは昔、まだ大きな堤防を築く技術が無かった時代に、津波の被害から町を守るために、人々の手によって植えられたたくさんの松によってできた松原です。
しかし陸前高田市を襲った津波は、そんな松原の松たちを平気でなぎ倒してゆき、その津波は17mもの高さに達したといいます。つまり電信柱の上にまで届いてしまうようなレベルの高さです。とれだけ恐ろしい津波が襲ったのか、考えただけでも恐ろしいですよね。
奇跡の一本松は、そんな津波にも耐え抜き、奇跡的に一本だけ残ったのでした。そして地元の人たちによる懸命な努力によって、奇跡の一本松は保存され、現在にいたります。
おまけ:筆者の自撮り写真
この日は、震災の悲惨さと津波の恐ろしさ、そして「奇跡の一本松」を残すための地元のみなさんの懸命な努力をかみしめながら、観光と勉強になりました!
また「奇跡の一本松」の近くにある「東日本大震災津波伝承館 いわてTSUNAMIメモリアル」において、地元の味を堪能したり、またさまざまな写真などで勉強したりと、とても充実しました!
今回はここまでです!
お疲れ様でした!
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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