今回は、滋賀県長浜市を探訪したときのレポートになります!長浜の歴史と、「姉川の戦い」についてより深く迫ってゆきます!

琵琶湖の東・長浜市
滋賀県長浜市(ながはまし)は、米原駅(まいばらえき、滋賀県米原市)のやや北西、琵琶湖(びわこ)の東のほとりにある街になります。


長浜市の中心市街地は、かつて羽柴秀吉と名乗っていた豊臣秀吉によって、長浜城(ながはまじょう)の城下町として整備されてゆきました。

長浜城(ながはまじょう)は、1573年に豊臣秀吉が、同じ長浜市にある小谷城(おだにじょう)での戦いにおいて、当時滋賀県北部の地域を支配していた浅井長政(あさい ながまさ)を攻め滅ぼしたことに対する功績を認められ、織田信長よりかつての浅井氏の領地(長浜市周辺地域)をもらうことができ、初めて「自分の城を持つ」ことが認められたことがきっかけで建てられたお城です。
つまり、豊臣秀吉にとって初めての本拠地のお城となったのが、長浜城だったというわけです。
そのとき、当時「今浜(いまはま)」と呼ばれていた長浜の地を、「信長」の名から「長」の一文字をもらい「長浜」という地名に改名したわけです(※これについては諸説あり)。
長浜城は、1573年に豊臣秀吉が長浜の地をもらってからお城の建設が開始されてゆき、数年後に完成しました。そして豊臣秀吉は長浜城に入城し、長浜城周辺の町(城下町)をどんどん整備し、町をより新しくキレイにバージョンアップしていくこととなりました。
ちなみに当時は羽柴秀吉と名乗っていました。

長浜城は琵琶湖のすぐ岸に建てられた、いわゆる「水城(みずき)」です。これは、琵琶湖という自然のバリヤーに守られる(防御力が高い)というメリットがあったほか、京都方面への舟が出しやすいというメリットがありました。昔は現在のような「東海道線の貨物列車」などは無かったので、舟に大量の荷物を載せて運んだ方が都合がよかったのです。
そのため、長浜城は琵琶湖の水に石垣が浸っている、という形になっていました。また城の中にある水門から舟を出して、琵琶湖に直接船の出入りができるという、とても便利な仕様になっていました。
そして浅井氏時代にあった小谷城の城下町は、長浜城の完成とともに小谷城の下から移ってきました。
長浜市については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
琵琶湖水運の拠点・長浜市
長浜市は、歴史的に琵琶湖水運(びわこすいうん)の要所・拠点として発展してゆきました。

琵琶湖水運(びわこすいうん)とは、昔まだ鉄道(貨物列車)やトラックなどがなかった時代に、舟に大量の荷物を載せて、琵琶湖の上を進んでいたことです。滋賀県(近江国/おうみのくに)は海もない内陸県ですが、琵琶湖という海に代わる大きな水上ルートがあるため、これが大きな強みとなり発展してきたのでした。
琵琶湖水運に関しては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
長浜市が舞台となった「姉川の戦い」
長浜市は姉川古戦場(あねがわこせんじょう)や小谷城跡(おだにじょうあと)といった、戦国時代の織田信長・豊臣秀吉・徳川家康、そして彼らに対抗した浅井氏(あさいし)・朝倉氏(あさくらし)にまつわる史跡が多く存在しています。
姉川の戦い(あねがわのたたかい)は、
戦国時代の1570年に、長浜市を流れる姉川(あねがわ)において、織田・徳川の連合軍と、浅井・朝倉の連合軍との間で行われた戦いです。結果は織田・徳川の勝利、浅井・朝倉の敗北に終わりました。
桶狭間の後、京都に向けて進む織田信長
尾張国(おわりのくに:愛知県北部)の織田信長は、1560年の「桶狭間の戦い」において今川義元を破り、美濃国(みののくに:岐阜県南部)の地を斎藤氏(さいとうし)から奪取していたのでした。
そのあと、織田信長は足利義昭(よしあき)を奉じて(※1)、上洛(※2)を目指していたのでした。
※1「奉(ほう)じる」とは、主君に仕えることをいいます。ここでは、織田信長が、足利将軍を主君として(素直に従っているフリをして)京都に入ったことをいいます。つまり足利義昭をまるで操り人形のように、巧みに利用していたというわけです。これは後述します。
※2「上洛(じょうらく)」とは、京都に向かうことをいいます。今でいう「上京」に近いイメージです。昔は「京都」が相対的に「上」の位置であるとみなされていたため、「京都にのぼる」「地方にくだる」などと言われていました。地方にくだることを「下向(げこう)」ともいいます。現在でも新潟県の「上越(じょうえつ)」「下越(かえつ)」という表現に、その名残があります。つまり、上越地方の方が京都に近く、下越地方の方が京都から遠いというわけです。
このとき、織田信長にとって足利義昭は、あくまで自信の行いを正当化するための「操り人形(傀儡/かいらい)」という扱いです。
例えば、織田信長が越前国(福井県)を攻撃したいと思えば、自分の判断で勝手にやるよりも、将軍・足利義昭に「越前国を攻撃せよ」という命令を出させれば、「あくまで将軍の命令でやったんだ」「おれはそんなに自己勝手じゃない」といった具合に(もっともらしい)理由ができ、体裁を保つことができ大義名分(たいぎめいぶん)ができるからです。もし自分勝手に敵国を滅ぼしたとても、なかなか領民たちは従ってくれません。しかし「天皇や将軍からの命令」という名のもとの支配・侵攻であれば、領民たちが従ってくれる可能性も高まります。だから、織田信長は最初はあえてこのような回りくどい手法を取ったわけです。
室町将軍(足利将軍)は、1467年の「応仁の乱」によって京都の町がボロボロになったことをきっかけに、すっかり将軍の権利は消失していました。やがて各地の有力大名たちは室町幕府に従わなくなり、「強い者こそが正義」という戦国時代に入ってゆきました。戦国時代にはほとんど権力を失っていた室町将軍は完全にナメられており、各地の様々な大名から上記のような方法で利用されようとしていました。甲斐国(かいのくに:山梨県)の武田信玄が、京都へ向かって進軍する「西上作戦(せいじょうさくせん)」を行ったのも、室町将軍や天皇から「自身の支配の正当性」を認められたかったからだとも言われています。
こうして岐阜県から京都を目指していた織田信長は、まずは近江国(おうみのくに:滋賀県)に攻め入ったのでした。
妹を結婚させ、浅井氏と同盟関係に
ここで、当時の滋賀県北部あたりを支配していた浅井長政(ながまさ)の側は、織田信長の妹・お市の方(おいちのかた)が長政の妻として既に嫁入りしていたのでした。
こうして織田信長と浅井家は縁戚(えんせき)関係、さらには同盟関係となっていました。
お市の方(おいちのかた)は、当初は浅井長政のお嫁さんだったわけですが、後に(豊臣秀吉と同じく織田信長の部下だった)浅井氏が豊臣秀吉によって滅ぼされたため、その後柴田勝家のお嫁さんになっています。
しかし柴田勝家は、織田信長が「本能寺の変」でやられた後に、信長が元々持っていた領地をめぐって豊臣秀吉と対立してしまいます。
やがて豊臣秀吉に追い詰められた柴田勝家とお市の方は、福井城を豊臣秀吉の軍に包囲されてしまい、福井城において炎の中で自害してしまいました。
詳しくは、以下の記事をご覧ください。
話を元に戻します。
こうして信長は妹・お市の方を浅井氏に嫁がせ、浅井氏(あさいし)と同盟関係となり、やがて室町幕府のある京都へ上洛(じょうらく)を果たしたのでした。
信長が越前へ進軍、しかし浅井氏の裏切りにより挟み撃ちに
京都に着いた織田信長はその後、1570年に若狭国(わかさのくに:福井県西部)にいた武藤氏(むとうし)の討伐をするということを名目に、若狭国へ進軍するための許可を室町幕府に対して出させます。
しかしこれはあくまで「表向きの理由」であり、実質的には、朝倉義景(よしかげ)のいる越前国(えちぜんのくに:福井県北部)への侵攻が目的でした。
そして信長自らが軍を率いて、朝倉氏の討伐のために越前国へと進軍していったのでした。
こうして京都から越前・福井を目指していた織田信長の軍でしたが、突然浅井氏の軍が、信長を裏切っていきなり朝倉氏の味方についたのでした。
こうして「挟み撃ち」にするという感じで、越前国(福井県)を攻めに行こうと進んでいた織田軍の背後を襲ったのです。
ちなみに同盟を組んでいた浅井氏が裏切った理由については諸説あります。もしかしたらですが、足利将軍をいいように利用して、なかば自分勝手かつ強引なやり方で越前を攻めていこうとする織田信長のやり方に対し、浅井氏は疑問・不信感を持ったのかもしれません。
こうして信長は浅井氏に裏切られ、いきなり後ろから攻撃されてしまい、チャンスから一転して挟み撃ちという危険に陥ってしまったのでした。そして、信長の軍はやむを得ず撤退を開始したのでした。
信長の一行は、福井の南にある「金ヶ崎(かながさき)」を経て、徳川家康からのサポートもあり、なんとか京都へと退却したのでした。
金ヶ崎城(かながさきじょう)とは、福井県敦賀市(つるがし)にあったお城です。
信長の岐阜への帰還 信長への挟み撃ち図るも失敗
京都に帰還した信長は、再び軍を立て直すために、地元の岐阜に向けて出発したのでした。
このとき、朝倉義景は岐阜に向かう信長を倒すために敦賀(つるが)におり、た浅井長政との連絡・連携体制を強化し、朝倉軍の大軍を近江国(滋賀県)に向けて出発させたのでした。
こうして大勢の朝倉軍は、浅井軍とともに滋賀県南部にまで進出してきて、岐阜へ向かって進もうとする信長へ攻撃しようとしました。
しかし、朝倉氏の企てたこの攻撃はうまくいきませんでした。
信長は既に迂回ルートの千草街道(ちくさかいどう:南の鈴鹿山脈から三重県へ抜けるという、別ルート)によって逃げたことにより、なんとか岐阜への帰着に成功したのでした。
これを受けて浅井・朝倉軍は、かつて滋賀県と岐阜県の県境に位置する関ヶ原(せきがはら)あたりにあった長比城(たけくらべじょう)に対して修築(お城のバージョンアップ)を施してゆき、ここに軍の兵を入れて防御力を強化し、再び滋賀県まで攻めてくるであろう織田軍の来襲に備えたのでした。
しかし、この関ヶ原近辺に配置された兵士が、なんと「寝返り工作」により信長側に寝返ってしまったため(一体どうやったのかはわかりませんが・・・)、せっかく浅井氏が信長をガードするためにガチガチに固めたはずの長比城は陥落してしまったのでした。信長は、こうした内部工作などの「調略」を使った戦い・戦法も得意としていたのですね。そしてこれが「姉川の戦い」で勝つ要因となってゆきます。
この織田側への寝返り・長比城の陥落を受けて、関ヶ原付近の中山道(なかせんどう)ルート(東海道本線の大垣~米原のルート)は、信長の軍も通れるようになりました。
こうして信長は岐阜を出発し、関ヶ原(せきがはら)を越えて、滋賀県長浜市の北にある虎御前山(とらごぜんやま)に着いたのでした。
これは北陸本線・虎姫駅(とらひめえき、滋賀県長浜市)の近くの場所です。
そして、家来の柴田勝家や豊臣秀吉らに命じて、長浜市の北にある浅井氏の拠点であった小谷城(おだにじょう)のまわりにある城下町を、広い範囲にわたって焼き払わせたのでした。
その後、徳川家康の軍が織田軍に合流してきました。
一方で、浅井軍の側にも朝倉氏の大勢の援軍が到着しました。
両者は姉川(あねがわ)の回りに終結し、ここに「姉川の戦い(あねがわのたたかい)」が始まるのです。
姉川での決戦、織田・徳川の勝利
長浜市を流れる姉川において、こうしてついに戦いが始まってしまいました。
「姉川の戦い」です。
当初は浅井軍の方が強く、むしろ織田軍は一時的に危機的状況に陥ったのでした。
しかし、ここで徳川家康が活躍します。
浅井・朝倉連合軍の「軍の配置」が縦にかなり長く伸びきっているのを見た家康は、そのスキを見逃さず、弱そうな側面(横)から攻めさせたのでした。これがきっかけでまず朝倉軍が敗走し、続いて浅井軍までもが敗走していったのでした。
結果的に織田・徳川側が勝利したのでした。
当時の「姉川の戦い」はすさまじく、合戦場の付近には「血原(ちはら)」や「血川(ちかわ)」という地名があります。
血原(ちはら)は、最も激戦が繰り広げられたと言われている場所です。
ここに敗れた多くの兵士たちの血が流れて真っ赤に染まったことから「血原」という地名になった、と言われています。
戦いその後 浅井氏・朝倉氏の滅亡 信長の越前進出
「姉川の戦い」のあと、敗れた朝倉氏・浅井氏の両者はかなりのダメージを受けました。
まず朝倉義景(よしかげ)の援軍は越前にまで敗走してゆき、また浅井長政の軍勢も小谷城(おだにじょう)にまで逃げ込んでいったのでした。
そこを豊臣秀吉の攻撃によって浅井長政は自害してしまい、浅井氏は滅亡したのでした。
豊臣秀吉は、この時の戦いぶりを信長から評価され、冒頭にも述べたように長浜城の支配を認められたというわけです。
また先述の通り、織田信長の妹であり浅井長政の妻だったお市の方(おいちのかた)は、「本能寺の変」の後に豊臣秀吉と対立することになる柴田勝家と結婚しています。
やがて織田信長は1573年、言うこと聞かなくなった将軍の足利義昭を、「もうコイツはいいや」と言わんばかりに京都から追放して、室町幕府を滅亡させたのでした。
さらに1573年、朝倉氏は織田信長によって「一乗谷城の戦い(いちじょうたにじょうのたたかい)」において滅ぼされました。
一乗谷(いちじょうたに)とは、福井市の南にある地名です。
この「一乗谷城の戦い」により、朝倉氏の本拠地である一乗谷城は織田軍によって焼き払われてしまいました。
この戦いで朝倉氏が滅亡したことで、信長の支配する領地は越前(えちぜん)・若狭(わかさ)方面へと拡大していくこととなったのでした。
その後、織田信長は1575年の「長篠の戦い」にて勝利し、天下人としての道を突き進んでいくのでした。その後「本能寺の変」で敗れてから、信長の部下だった豊臣秀吉と柴田勝家は対立してしまい、1583年に起きた長浜市の北部における戦いである「賤ヶ岳の戦い(しずがだけのたたさい)」で豊臣秀吉は柴田勝家に勝利し、その後先述の通り柴田勝家は福井において滅んでいます。
賤ヶ岳の戦いについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
長浜の海を堪能
歴史の話ばかりになってアレですが、長浜に来たらやはり琵琶湖の海を堪能しましょう!!
とても素晴らしく、広々と広がる海です。いや、海じゃなく「湖」なんですよねぇ・・・。潮(しお)のかおりがしないので、海ではないことは確かです。

明治時代の1889年までは、まだ東海道線が米原~大津の区間が開業していなかったため、この長浜の海からたくさんの舟が大津(滋賀県大津市)まで向かっていったわけですね。
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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