京都のシンボル・嵐山
嵐山(あらしやま)は、京都市のやや西にある観光地です。京都の代表的な観光地であり、多くの外国人観光客からも人気があります。
特に、嵐山を流れる桂川(かつらがわ)にかかっている渡月橋(とげつきょう)は、これこそまさしく嵐山の象徴・シンボルになっており、多くの観光客で賑わっています。

渡月橋(とげつきょう)という名前の由来は、鎌倉後期の天皇である亀山天皇(かめやまてんのう)により「まるで月の上を渡っているかのような橋だ」というイメージとして、渡月橋という名前になりました。
なお桂川は、渡月橋をはさんで、
・上流:大堰川(おおいがわ)、さらに上流は保津川(ほづがわ)
・下流:桂川(かつらがわ)
と呼称が変わります。
JR山陰本線(嵯峨野線)の北側には、嵯峨野(さがの)と呼ばれる観光地が広がっています。これは後述するように、平安時代に嵯峨天皇(さがてんのう)が、ここに別荘である離宮(りきゅう)を構えたことが由来になっています。
また、先述の亀山天皇(当時は既に後継者に譲位して上皇)は「いつでも吉野のサクラを見れるようにしたい」ということで、奈良県の吉野からサクラを嵐山に移植してきたとされています。
その後も夢窓国師(むそうこくし)という鎌倉時代~室町時代のお坊さんによって、吉野からたくさんのサクラが移植されてきたのでした。
亀山上皇や夢想国師については、また後ほど改めて解説します。
桂川(かつらがわ)は、江戸時代に角倉了以(すみのくら りょうい)という人物により開削されてきました。つまり、舟で通りやすい川にして、舟でたくさんの荷物を京都の町に運べるようにしたのです。詳しくは、以下の記事をご覧ください。
嵐山国有林と、京都の景観を保つための取り組み
嵐山のふもとには嵐山国有林(こくゆうりん)という、国の財源によって管理されている林が広がっています。
つまり国が自費で管理する林ということです。嵐山の林はとても景観が重要な場所であり、また民間の人に好き勝手(例えば、変な建物やビルを建てたり、また乱獲をしたりなど)をさせないための林というわけです。そして景観が乱れないよう、国を挙げて全力で保護して守っていくための場所である、ということです。
嵐山国有林は森林法における「風致保安林」となっています。「風致(ふうち)」とは、例えば「すばらしい景色や風景」などのことをいいます。この「風致」を守っていくために、国や国民は努力していかなければならないということです。「保安林」とは、森林法において「名所・旧跡であるために守るべき林」として、国(農林水産大臣)が指定する林のことです。
また、嵐山国有林は森林法における「土砂流出防備保安林」となっています。例えば、大雨などによって嵐山から土砂が流出してしまったりすると、周りにある伝統的な風流ある建物たちが破壊されてしまい、被害が拡大する可能性があります。これは市民の安全はもちろん、京都のイメージダウンや観光客減にもつながってしまい、国にとっても観光客にとっても問題となります。なので、法律で「嵐山の林は全力で守っていく」という必要があるというわけです。
また、嵐山国有林は
- 文化財保護法における史跡名勝:国が貴重な文化財を守るための措置(例えば補助金など)をしていくため、国民はそれに対して協力しなければならない
- 都市計画法における風致地区:都市における風致(ふうち:その風流な景色など)を保っていかなければならない
- 古都保存法における歴史的風土特別保存地区:京都市・奈良市・鎌倉市などを「古都」と定め、古都にふさわしくない変な建物などを許可なく建てさせないように、古都の歴史的風土を保存していかなければならない
- 鳥獣保護法における鳥獣保護区:乱獲を防止し、みだりに周辺にいる鳥さんや動物さんなどの生活が脅かされないように守っていかなければならない
といった、それぞれの法律における保護対象に指定されています。つまり嵐山をはじめとする京都の町並みは、世界中の外国人からも愛されるほどの「日本の宝」であるため、こうした厳しい法律を定めてまでも国が全力を挙げて保護して(守って)ゆきたいという、特別な場所だというわけです。
嵐山国有林は、江戸時代までは大部分が天龍寺(てんりゅうじ)の領地でした。天龍寺とは、足利尊氏が(尊敬しながらも)敵対していた後醍醐天皇が崩御(ほうぎょ)されことを受け、天皇を弔(とむら)うために先述の夢想国師のすすめによって建てられたお寺です。
明治時代になると社寺上知令(あげちれい)により、全国各地にあったほとんどの私有林は国に没収されてしまいました。
これは1871年の版籍奉還によって、大名が持っていた藩の領地を明治政府に対して返還しなければならなかった(没収される)という理不尽を解消するため、私有地も(平等に)没収されることになったというわけです。
江戸時代までの土地はあくまで「藩のもの」「大名のもの」「個人のもの」であり、幕府(国)のものではなかったわけです。これは、藩の土地を大名のもの(所有地)にさせておくことで、江戸幕府への反発・不満を防いでいたわけですね。
しかし明治の近代国家ともなると、国全体で一つにまとまって欧米諸国に追いつく必要があったため、次々に「国有化」の動きが進んでいったわけです。
そのため、嵐山の林も私有他ではなく、国有化されることになったのでした。
その他、京都では景観を保持するために、建物には高さ制限(31m)があるほか、電話ボックスやコンビニエンスストアなども「和風のそれっぽいデザイン」に変えなければなりません。また、バブルのときに芸能人やアイドルなどのお店があるタレントショップも大流行して修学旅行生から大人気(年頃の生徒さんたちはそういったものが大好きですよね)だったのですが、「景観を乱す」として廃止が相次いだのでした。
エラい人たちの別荘地・嵯峨野
嵯峨野(さがの)は、794年に京都に平安京が出来た後には、その美しくて風光明媚な景色のために、天皇や大宮人(おおみやびと:高位な人たち)にとっての絶好の行楽地となっていったのでした。つまり、彼らにとってリフレッシュ・休暇を満喫するための場所となっていったわけです。
平安時代のはじめに第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)が、天皇の別荘である離宮(りきゅう)・嵯峨院(さがいん)をこの地の造営して、居住するようになりました。そしてこれこそが、嵯峨野(さがの)という地名の由来となっています。
そして嵯峨天皇が崩御された約30後の876年に、嵯峨院は「離宮」から「お寺」に改められ、大覚寺(だいかくじ)となったのでした。
こうして、平安時代以降になると嵯峨野には、それ以降は多くのエラい貴族・詩を書く文人ちなどによって、別荘・山荘・お寺などの建立・造営が次々に行われていくようになります。
これはもはやある意味でそれがブームだったというか「高貴な人にとってのステータス」だったのでしょう。
例えば高度経済成長期に、長野県の軽井沢(かるいざわ:山林の景色がキレイ、夏は涼しい)や栃木県の那須(なす:同じく山林の景色がキレイ、夏は涼しい)、神奈川県の葉山(はやま:海がとてもキレイ、冬は暖かい)などといった景色・気候に優れた場所に、次々に別荘を建てていったのと似ています。こうした場所に別荘を持てるということが「一流・デキる男の証明」になっていたからですね。
平安時代に第59代・宇多天皇(うだてんのう)は、仏教に対してとても熱心だったためお坊さんとなり、法皇(=出家した天皇)となりました。そして仁和寺(にんなじ)を建てて、ここは嵯峨御室(さがおむろ)と呼ばれました。これは京都に本社を置く、体温計などのメーカーであるオムロンの社名の由来になっています。
さらに鎌倉時代、第91代・後宇多天皇が譲位(天皇の位を、後継者にゆずること)された後に出家して法皇となり、さらに大覚寺で院政(いんせい)を行ったため、この地は嵯峨御所(さがごしょ)とも呼ばれました。後宇多法皇は、この大覚寺をより大きく綺麗になるようように整備されたため、お寺に大きな貢献を果たしたのでした。
こうして平安・鎌倉・室町時代のあたりには、嵯峨およびその周辺の地域は、天皇やエラい人たちの隠棲地(いんせいち:老後に世の中を離れて、穏やかに暮らすための場所)として、大きな役割をもっていくようになりました。
鎌倉後期・大覚寺統と持明院統の対立
鎌倉幕府後期の第88代・後嵯峨天皇(ごさがてんのう)には、先述の第90代・亀山天皇(弟)と、第89代・後深草天皇(兄)の2人の息子がいました。この2人の息子が次の天皇の座を争って、皇位継承問題が起こるわけです。亀山天皇は大覚寺統(だいかくじとう)、後深草天皇は持明院統(じみょういんとう)となりました。
亀山天皇(弟)とその子孫が引き継いでいくの天皇の家系は大覚寺統(だいかくじとう)と呼ばれ、また亀山天皇の兄である後深草天皇の息子以降の子孫が引き継いでいく天皇の家系を持明院統(じみょういんとう)というわけです。
父親の後嵯峨上皇が崩御された後、亀山天皇(弟)の大覚寺統と後深草天皇(兄)は持明院統として、「天皇の座」をめぐって対立していくことになります。つまり、どっちが天皇の座を引き継ぐのか、ということで争っていったわけですね。
父の後嵯峨天皇は、崩御される時に「どちらの天皇を即位させるか」という遺言を明確に残さなかったので、これがトラブルの原因となってしまったのでした。しかも遺言によれば「鎌倉幕府に決めてもらおう」としたわけです。これは、過去に天皇が鎌倉幕府に対して何らかの恩義があり、また天皇が鎌倉幕府に対して配慮・忖度(そんたく)していたからだとされています。天皇は鎌倉幕府との関係性を壊したくなかったわけですね。
現代の日本のように、皇室典範(こうしつてんぱん)という法律のように皇位継承順位という明確なルールが決まっていればいいのですが、当時はそういった具体的な皇位継承の決まりが恐らく無かったのでしょう。例えば皇室内で争ったり、また幕府に助言してもらったりで決めていたのでした。
現代では皇室典範により皇位継承順位が明確に決まっているため、例えば平成から令和になるときに徳仁(なるひと)皇太子殿下(当時)と秋篠宮文仁(あきしののみや ふみひと)親王殿下が皇位継承で争うといったことは、基本的には無かったわけです。
鎌倉幕府はこの皇位継承に関して(父の後嵯峨天皇の遺言を受けて)、どっちの天皇を即位させればよいかについての判断を迫られました。しかし幕府としては、例えば選ばなかった側の天皇から恨みを持たれたりしないように、無難な解決案として両統迭立(りょうとうてつりつ)を提案したのでした。つまり、それぞれの系統が交互に天皇の座につくということを提案したわけです。
鎌倉幕府は、皇室の継承問題に口を出すほどの影響力にもなっていたわけです。
その後は、持明院統と大覚寺統から、交互に天皇が即位するという感じとなりました。後醍醐天皇は、大覚寺統からの天皇てす。
足利尊氏が建立した天龍寺
足利尊氏は、南北朝時代に敵対していた後醍醐天皇の崩御の知らせを聞いたとき、嵯峨野に天龍寺(てんりゅうじ)を建立しました。それは、ここが後醍醐天皇の出身である大覚寺統ゆかりの地であった事に由来しています。後醍醐天皇は、先述の通り大覚寺統からの天皇でした。
足利尊氏は、確かに後醍醐天皇に対して反旗を翻(ひるがえ)して南朝に追い込んだりはしたのですが、あくまで天皇に対して尊敬の念・意思はあったというわけです。
また「死者の呪い・祟(たた)り」がくることを恐れたためともいわれています。昔は現在以上に祟りの存在を恐れており、後醍醐天皇の祟りが自分の身にふりかかってくることを恐れたからというのもあるでしょう。
そこで夢窓疎石(国師)というお坊さんの助言をかりて、天龍寺を建てたというわけです。
足利尊氏は、戦前までは日本三大悪人とも呼ばれていました。それは後醍醐天皇という天皇を倒してしまったからです。そのため、天皇崇拝が絶対的だった明治時代~戦前までの時期は、足利尊氏の評価はとても低かったのです。ちなみに「日本三大悪人」のあと2人は、平安時代に天皇に逆らって関東で大暴れした平将門(たいらのまさかど)、そして奈良時代に女性天皇と恋仲になりメロメロにさせ、それを利用して皇族でもないのに天皇になろうとした道鏡(どうきょう)です。
鎌倉時代から室町時代にかけてのお坊さんである夢窓国師(むそうこくし:または夢窓疎石/むそうそせき)と足利尊氏は、とても仲が良かったことで知られます。また、後醍醐天皇ともとてもよい関係を築いており、尊氏や天皇からとても信頼されていました。そして国師号を7回も授与されています。
岐阜県多治見市(たじみし)の虎渓山永保寺(こけいざんえいほうじ)の建立にも携わっています。それは世の中に対してなんだか疲れた感じになっていた夢想国師が各地を旅していたときに、美しい土岐川(ときがわ)の眺めに感動し、「ここに楽園を作ろう」として、虎渓山永保寺を建立したのでした。
京都の観光は、やはり感動する
嵐山の景色は、本当に良いものとなっています。

今回はここまでです。
お疲れ様でした!
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この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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