奈良公園のシカと全力で遊んでみた
私(筆者)は動物が大好きであり、もちろん奈良公園のシカさんたちもその例外ではなく、とても大好きでございます。

奈良の大仏や奈良のシカは、海外にも(国際的にも)有名であり、また奈良観光のメインとなっています。
外国人観光客もたくさん訪れるほか、修学旅行生の皆さんも多く訪れます。

奈良公園には、現在おおよそ1,200頭にものぼるシカさんたちが暮らしています。
ちなみに広島県の大久野島(おおくのしま)のウサギは700~900匹ほどであり、また北海道で最も人口の少ない村である音威子府村(おといねっぷむら)は約600人ほどですから、それよりも多い数のシカさんたちが暮らしているというわけです。
奈良のシカさんたちは、国の天然記念物に指定されている野生動物となっています。

奈良のシカさんたちは、人には慣れてはいるものの、あくまで野生動物なので、以下の行動は禁止となっています。
- ふざけて脅かす、叩く、やみくもに触る
- 「鹿せんべい」以外のエサを与えてしまう
「鹿せんべい」は、シカにとって適切な栄養価に調整された食べ物です。なので鹿せんべい以外の食べ物(例えば、人間が食べる「パン」や「おにぎり」など)はシカの健康に害をもたらす可能性があるため、あげてはならないのです。
ちなみに「鹿せんべい」は、奈良公園にて200円程度で販売されています。
シカが「鹿せんべい」の売り場を襲ったりすることはないの?
また、奈良のシカさんたちが「鹿せんべい」の売り場を襲ったりするのでは?と思うかもしれませんが、そういうことがないように、売り場とシカとの間では常に「戦い」「格闘」状態なのだそうです。つまり、シカをしっかり躾(しつけ)ているというわけですね。
春日大社の神様・奈良のシカたち

奈良のシカさんたちは茨城県・鹿島神宮(かしまじんぐう)の主な神様である、建御雷命(たけみかづちのみこと)が、はるか遠い常陸国(ひたちのくに)・茨城県から春日大社(かすがたいしゃ)へとやってくる時に、乗ってきた動物(神様)であったとされています。
建御雷命(たけみかづちのみこと)とは、日本神話に出てくる軍神です。
鹿島神宮(かしまじんぐう)は、茨城県にある、常陸国(ひたちのくに)一宮(いちのみや)です。
春日大社(かすがたいしゃ)とは、奈良公園のやや北にある神社であり、藤原氏(ふじわらしという)一族を祀(まつ)る神社です。
建御雷命・鹿島神宮、また春日大社や興福寺・藤原氏などの基本的知識については、以下の記事でもわかりやくす解説していますので、ご覧ください。

こうした歴史的エピソードのため、奈良のシカさんたちは神鹿(しんろく)として、信仰の対象となってきたという歴史があります。
つまり、奈良のシカさんは古くから「神の使い(いや、むしろ神様)」と同じような存在を受けていたわけです。歴史的に神様として扱われてきたため、もし殺傷でもしようものなら、後述するように厳しい罰が課されてきたのです。
また、シカだけでなく、他にはウサギなどの動物も、古来から日本では「神様」あるいは「神の使い」だと思われて(信じられて)きました。

シカの「お辞儀」とは?
奈良のシカは、奈良公園の近くに鎮座(ちんざ)ある春日大社(かすがたいしゃ)で祀(まつ)られている藤原氏(ふじわらし)からも、歴史的に崇拝の対象となってきました。
そして藤原氏は「神の使い」であるとして、シカと出会ったときには「深い挨拶」をしていたのでした。
この礼儀作法が現代まで受け継がれてゆき、シカも時代とともに「お辞儀(おじぎ)」の習慣を覚えた、という説があります。

奈良公園の鹿がする「おじぎ」は、鹿せんべいを催促する行動です。
つまり、「早くおせんべいちょーだい」と言いたいわけですね。
しかしこのお辞儀を誤って「礼儀」だととらえてしまうと、シカさんとの間で認識のズレが生じてしまい、思わぬトラブルに発展してしまう可能性もあります。
動物が人間にエサを催促する行動は、「人間に対してぶりっこをする(カワイイ行動をする)と、エサがもらえる」というのは、動物が人間との長い歴史における関わりの中で、自然に(本能的に)覚えたことなのかもしれません。これは大久野島(広島県)のウサギも同じですね。ウサギさんたちもエサが欲しいときには、全力でカワイイ行動・アピールをしてきます。また、おねだりするカワイイ動物に対して「エサをあげたい」というのは、人間ならではの本能でもあります。

このように、シカさんは「お辞儀をすると、鹿せんべいをもらえる」という経験則があり、またこれは長い人間との生活の歴史の中で、自然に覚えた行動だ、と考えられているわけです。
そしてこれは、親から子へ教えられ、代々伝わっていったものだとも考えられています。

先述の春日大社と同じく、藤原氏の氏寺(うじでら)である興福寺(こうふくじ)からも、奈良のシカさんたちは「神鹿(しんろく)」であるとして、まるで神様と同じような扱いを受けてきており、またシカさんたちは厳重に保護されてきたという歴史があります。
シカと人とのトラブル 過度なシカ保護・厳罰の歴史
このように、歴史的に奈良のシカは「神様」と同じような扱いを受けてきたことから、シカを傷つけた者は古くから厳しい処罰の対象となってきたのでした。
しかしそうはいっても、「シカが住民(人間)に対して加える危害」などのトラブルも多かったのでした。
例えば、いきなり飛び出してきたシカが人にぶつかったりして敵意を剥き出しにしてしまい、人間と喧嘩になり何人もけがをした、という事件も起きています。
しかし先述の通り、シカを万一殺傷してしまうと厳罰対象となってしまうため、たとえシカとのトラブルがあったとしても人々はなかなか手を出す(つまり「正当防衛」をする)ことが難しかったのでした。
なので、もしシカが襲ってきたときは(殺さない程度に・威嚇程度に)石を投げたり、また怪我をさせない程度に杖を振るうなどして、なんとか自身を防護したりしてきたのでした。
しかし運悪くそれらがシカに当たると誤って死傷させてしまうリスクもあり、厳罰の対象となってしまう「恐れ」に対して、人々は常に怯えていたような状態だったわけです。
そんなわけで、人間にとってはシカが(別の意味で)怖いという感じになっていたため、人とシカが共存し共に暮らすということは、なかなか簡単ではなかったのです。
江戸時代、奈良奉行所による奈良支配
こうしたシカに殺傷を加えた人への厳罰が続くなか、江戸時代に入ると奈良奉行所(ならぶぎょうしょ)という役所が、ひき続きシカの管理を行っていったのでした。
ちなみに奈良奉行所(ならぶぎょうしょ)とは、江戸幕府が幕府にとって信頼のおける武士(今でいう「公務員」)を派遣して勤務させる役所のようなものであり、今でいう警察・裁判所などの役割を持っていたような機関になります。
このように、江戸幕府は幕府にとって特に重要な地域(例えば、外国との貿易の利益が大きく治安確保も重要だった長崎や堺、また金山でゴールドがたっぷり採れる新潟県・佐渡など)には、こうした役所(奉行所)が置かれて、重点的に管理・監視されてきったのでした。
これを遠国奉行(おんごくぶぎょう)といいます。
奈良奉行所も、いわゆるこの遠国奉行の一つです。
ではなぜ江戸幕府は、奈良奉行所を置いたのかというと、それは幕府にとって脅威だった興福寺(こうふくじ)の監視のためだったといわれています。
ではなぜ江戸幕府は興福寺の存在を脅威に感じ、また監視する必要があったのかというと、興福寺は戦国時代~江戸時代はとても財力・兵力があり、奈良全体を支配する(できる)ほどの影響力があったからです。もし強大な兵力を持つ興福寺が幕府に対して離反(りはん)し反乱を起こしたら、幕府にとってはたまったものではありません。
Q.いやいや、なんで「お寺」がそんなに兵力や財力を持ってるの!?
興福寺(こうふくじ)は、江戸時代以前まではまるで一国の大名と同じくらいの勢力・財力・勢力を持っていました。
というか、戦国時代は大阪の石山本願寺(いしやまほんがんじ)や、滋賀県の比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)といった寺社勢力(じしゃせいりょく)はとても強大な勢力を持っており、これが各地の戦国大名や朝廷をも脅かす存在になっていました。
それは寺社勢力が「神様や仏様の力」を借りて、例えば「逆らうと罰(ばち)があたるぞ~」「逆らうと仏様のたたりがあるぞ~」などといって、無理難題を大名や朝廷に対して強引に要求を突き付け、押し通してきたからです。これを強訴(ごうそ)といいます。
寺社勢力はこうした「強訴」を利用して、大名や朝廷も逆らえない脅かすような存在になってしまい、好き放題に財力や兵力をたくわてきたのでした。昔は現在以上に「祟り(たたり)」の存在が信じられていましたから、そんな存在(寺社勢力)に対して大名も朝廷もなす術がありませんでした。
そのため、織田信長や豊臣秀吉は、こうした好き放題にやっている寺社勢力を放っておけないとして、頻繁に対立していたのです。例えば織田信長は「仏のたたり」などといった非科学的な迷信はまったく信じずに気にしなかったため「比叡山焼き討ち」という暴挙・荒療治までやってのけてしまっています。
もちろんこうした「寺社勢力の支配」は奈良の興福寺の場合も同じで、江戸時代に入ってからも興福寺の存在は幕府にとって脅威だったため、その興福寺を監視するために奈良を幕府が直接支配する直轄領(ちょっかつち)とし、そして奈良奉行所がおかれたものだと考えられています。
やりすぎなシカ殺傷禁止の見直し
こうした背景から江戸幕府により奈良奉行所が置かれたわけですが、江戸時代の前半にあたる1670年になると、幕府から派遣された溝口信勝(みぞぐち のぶかつ)が、先述の奈良奉行(ならぶぎょう)としての勤務となりました。
奈良奉行・溝口は、奈良のシカと人間とのトラブルをなるべく無くしていくために、新たに制定された幕府の方針Ver2.0にのっとり、
「極端かつ行き過ぎた神鹿保護」から
「あくまで厳重に動物保護をする」
といった具合で、温和・融和路線へのシフトを図ったのでした。
いつの時代も「いき過ぎた人権保護」は、もう片方の人権が侵害されるということにもなるのです。例えば、シカの人権(シカ権?)を過剰に保護し過ぎると、それはかえって「シカへの優遇」「人間への冷遇」につながりかねません。結果として、かえって人間が生きづらくなってしまうからですね。
こうして溝口が奈良奉行として「温和政策」を進めていくなかで、ある時興福寺がシカを殺害した犯人に対して「処刑をさせてほしい」という請願(お願い)を、奈良奉行所に対して出したのでした。
それは興福寺にとっては、奈良のシカは神様と同じい扱いであり、そんなシカを殺傷することは許しがたい行為だったからです。
しかし奈良奉行の溝口は「さすがにそれはやりすぎだ」ということで、興福寺側はこの請願を拒否されてしまいましました。
こうして奈良奉行所が主体となってシカの管理をするようになり、それまでは興福寺が行っていたシカを死傷させたことに対する裁判は、それ以後は奈良奉行所が代わりに(責任を持って)行っていったのでした。
そして溝口は1671年から、シカの角は人にとって危害を及ぼす可能性があるため、鹿の角を伐(き)るという「鹿の角伐り(つのぎり)」という行事を始めたのでした。シカの角が生えたままでは普通に危険だから、ちゃんと切ってあげよう、ということですね。そしてその「角切り」は、現代に至るまで約350年間も続いている伝統行事となっています。
余談ですが、シカの角は「メスの奪い合い」をするために生えています。優秀な子孫を残せるメス鹿(人間でいうと、若くて綺麗な女性)を奪うために、オス同士でツノを交えて戦うのです。これは少女漫画で例えると「主人公の女の子を奪うために、イケメン同士が争う」という、まさに女の子の夢が詰まったようなシチュエーションですね。また、オス鹿はメス鹿からモテるために、力と強さの象徴として、ツノを大きくするのだそうです。ツノの大きいオス鹿って、なんだか強くて便りになりそうですよね!
シカの食害を防ぐのは難しかった
角のあるシカに対する安全対策としては、様々なものがあります。
例えば、広島県の宮島(廿日市市)にも同じくシカがたくさんいるわけですが、毎年秋になるとオス鹿の角切(非公開)が行われます。
しかし、例え切ったとしても1年後には立派な角に生え変わるため、安心はできずに危険です。必ず定期的に切ってあげないもいけないわけですね。
そのため宮島では、シカの侵入阻止のため、島内の店舗や住宅の玄関、または公園の入口などには、シカの侵入を防ぐための「鹿戸」が多くあります。

また宮島では、シカへの餌やりは以下の理由により禁止されています。
- エサによって市街地への誘導することを防ぐため。これは密猟(毛皮を売ることが目的)のためにおびきよせるためだったり、また人の住むエリア(家や店など)に対して不必要に入ってくることによる事故や、また被害防止の観点から、エサはあげてはいけない。
- 宮島の生態系への影響を及ぼしてしまうため(例えばシカの数が不必要に増える、またエサの残りを狙った害獣・害虫・害鳥などが増える、など)、エサはあげてはいけない。
- 誤って食べた物により栄養障害などの健康被害が起きるリスクがあるため、エサはあげてはいけない。
奈良のシカも、同様の理由により、「鹿せんべい」以外のエサやり行為は禁止となっています。
人間の食べ物(例えばパンやおにぎり)って、動物にとってはすごく栄養があっておいしいわけです。
なので一度そんなうまいものを口にしてしまうと、シカはもっと欲しくなってしまい、周辺の民家や商店などに侵入して食い荒らしてしまう可能性もあるというわけですね。
もちろん、こうしたことからクマに対するエサやり行為も禁止です。近年、ニュース等でクマの被害が相次いで報道されていますが、これは人間の食べ物の味を知って覚えたクマが「もっと欲しい」と思って人の住む町に出てきて食い荒らしてしまうということです。
明治時代以降の奈良のシカたち
明治時代の1871年、政府から派遣された四条隆平(しじょう たかとし)県令(今でいう県知事)は、それまでの行き過ぎた「シカ=神様」みたいなイメージを破壊するために、わざとシカを捕まえて「すき焼き」にして食べたり、またシカに馬車を引かせたりする姿を人々に見せることで、過剰なシカ保護・神格化からの脱却を図ろうとしたのでした。
また四条県令は、シカによる農作物に対する被害を軽減するための施策として「放し飼い」を止めることにしました。
その代わり「シカ苑(鹿園)」を造り、シカをここに収容したのでした。
しかしこの「シカ苑」は、それまで野生動物として生きてきたシカにとって、狭い場所には慣れていなかったためにストレス発症の原因となってしまいました。
また野犬が侵入してシカに襲いかかったり、またシカが密集することで病気にかかりやすくなったりなどで死んでしまいました。これによりむしろシカは激減してしまい、この施策は失敗となりました。
その後もシカの殺傷をすることは厳しく禁止されましたが、その施策がかえって裏目に出てしまいます。
大事にされ過ぎたことでかえってシカが増殖してしまい、周囲の家や店舗に対して食い荒らすという被害が大きくなってしまいました。
そのため、周囲の村からの要望により、殺傷の禁止区域が、奈良町と奈良公園、さらには春日大社の境内のみに縮小されています。つまり、この限られたエリア以外では、本当にやむを得ないと認められる場合は自己防衛のために狩猟してもよい、ということになったわけです。現在の北海道でも、繁殖力が凄まじくヒグマですらその個体数を減らせないエゾシカに対して、狩猟によって個体数を減らすことは食害防止のためにも重要なものとなっています(ただし狩猟のルールは、法律によって厳しく決められています)。
しかし、またここで新たな問題が発生してしまいます。
今度はそれを逆手にとり、シカをわざと禁止区域の外へと「おびき出し」てから殺傷・密猟するといったことが横行してしまいました。
なぜ密猟するのかというと、それは「毛皮」にして売るためですね。
ここまで読むと、なんだか対策する→問題が起きる→対策する→問題が起こる、の繰り返しになってしまっていますね。
こうした状況の中で、1891年にシカの状態を心配した人たちによって現在の「奈良の鹿愛護会」の前身となる「春日神鹿保護会」が設立されたのでした。
それ以後はシカも増加してゆき、親しまれるようになってゆきます。
戦時中~戦後にかけて、食糧難によりシカが激減
しかし太平洋戦争(大東亜戦争)の時期から戦後の混乱期には、食糧難による密猟によって、シカの数は激減してしまいました。戦争中は食べ物はみんな兵隊さんたちに送られるため、また戦後も深刻な食糧難に見舞われたことにより、シカたちが食べられて激減してしまったのです。
戦後になると、奈良公園に行ってもシカの姿がほとんど見られないという深刻な状態に陥ってしまいました。
しかしその後、再び日本社会が復興して安定してきたことにより、シカの数は再び増加してゆき、やがて1,000頭前後の数に安定してゆきます。
今や奈良のシカさんたちは、有名な東大寺(とうだいじ)の奈良の大仏とともに、奈良の観光には欠かせない全国的に知られたマスコット的な存在となっています。
まとめ:奈良のシカさんたち

いかがだったでしょうか。今回の記事の要点・ポイントを以下にまとめておきます。
- 奈良には、約1,200頭のシカさんたちが暮らしている
- 鹿せんべいは、シカ用に作られた食べ物であり、鹿せんべい以外のエサをあげてはいけない
- シカの「お辞儀」は、鹿せんべいを催促するための、長年にわたって身につけた作法である
- シカは歴史的に「神様」として、過剰に保護されてきた。しかしそれが原因で、さまざまなトラブルが起こってきた
- 江戸時代には、奈良奉行所がシカの管理を行ってきた
- シカの角を切るための行事が、江戸時代前半にはじまった
- 明治時代も、シカが増えすぎたり、また減ったりして、苦難の連続だった
- 戦時中の食糧難により、奈良のシカは激減してしまった
- その後再びシカの数は増えてゆき、今や外国人観光客や、修学旅行客などにより愛される存在となった
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
ちゅうい!おわりに
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします!
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