飛鳥時代の非常にパワフルでエネルギッシュな女性天皇である持統天皇について、その壮絶な歴史をわかりやすく解説してゆきます!
持統天皇:情熱と冷徹さを併せ持つ「国造りの母」
持統天皇は、飛鳥時代における日本の土台を築いた非常にパワフルな女性天皇です!
当時の激動の時代を生き抜き、現代に続く「日本」という国の形を整えた功労者であるというわけですね。
したがって、持統天皇の歩みを知ることは、日本のルーツを知ることにも繋がりますよ!
持統天皇の波乱万丈な生い立ちと、夫・天武天皇との絆
第41代天皇である持統天皇(幼名は鸕野讚良皇女)は、飛鳥時代に、中大兄皇子(後の天智天皇)の娘として生まれました。
日本の第41代天皇 女性の天皇としては3代目
持統天皇は、天皇としては日本の初代天皇である神武天皇から数えて第41代であり、現代の令和の今上天皇は126代です。
また、持統天皇は日本の女性天皇としては3代目にあたります。
「第41代天皇」は、どれくらい昔なのか?
ちなみに最初の女性天皇は第33代の推古天皇であり、あの聖徳太子が摂政について政治を行っていたことで有名です。
また、2番目の女性天皇として即位したのは、第35代の皇極天皇です。
また、皇極天皇は一度天皇の座を退いた後に再び即位され、第37代の斉明天皇として飛鳥時代に即位されています。
持統天皇は飛鳥時代の大化の改新(乙巳の変)があった645年に生まれ、また飛鳥時代の終わりに当たる703年に崩御されました。
まさに現代で言う「鉄の女」当強い国を作るための圧倒的な国家運営能力
持統天皇という方は、まさに「鉄の意志」を持ったエネルギッシュなリーダーでした!
もし持統天皇が現代でも国のリーダーだったら、間違いなく「鉄の女」と呼ばれているもの思われます!
むしろ、元祖「鉄の女」であるイギリスのマーガレット・サッチャー首相にも負けないくらいの、強烈な意志と実行力を持った女性でした。
現代の経営者にすら引けを取らない、圧倒的な行動力と実行力
持統天皇がそれだけ強い行動力・実行力を持って政治を行った理由の全ては、まさに「強い国を作る」という目的のためだったというわけです。
特に、後に詳しく解説しますが、戸籍というシステムを作りました。
この戸籍というシステムにより、それまでの「なんとな〜く、どこに誰が住んでるんだろうな」みたいなみ推測を排除した仕組みを作ったという持統天皇の功績は画期的でした。
反対を押し切り、たった一人で国をまとめていった、まさに「鉄の女」
また、持統天皇は
- 夫である天武天皇が亡くなった後、
- それまでのバラバラで混乱・カオス状態だった日本の世の中の政治を、
- たった一人で、その圧倒的なリーダーシップで引き受けることになった
というわけです。すなわち、
- たとえ周りからの反対を押し切ってでも、持統天皇のこうした自分が正しいと信じる「国のかたち」を突き通す
という姿は、まさに鉄のような意志の強さです!
つまり現代でいうところの、まさに「鉄の女」という表現がまさに当てはまるわけです。
しかし後述するように、持統天皇の生涯は決してただ平坦なだけではなくいくつかの戦乱も経験したりと、様々な困難もありました。
エネルギッシュな行動力と幼少期
幼い頃の持統天皇は、決してじっとしているようなタイプの方ではありませんでした!
すなわち、非常にいろんなことに興味関心があり、好奇心旺盛で多種多様なことにもチャレンジするような、非常にパワフルでエネルギッシュな女性だったという風に考えられています。
こうした活発で強いメンタリティを持つ幼少期のキャラクター性は、後の尼将軍と言われた北条政子にも通じる面がありますね!
北条政子については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

いつも父の天智天皇の隣にいた
また、持統天皇は幼い頃から、
- お父様である中大兄皇子(つまり、後の天智天皇)の側近として、
- つまりお父様である天皇のそばにいつもついて、
- 政治の表側や、裏側を見ながら育ってきた
と言われています。
わずか13歳で結婚
また、持統天皇はなんと13歳という若さで、父の弟である大海の王子(天武天皇)に嫁ぐことになりました。
こう聞くと驚きですが、当時の人々は平均年齢も短く、13歳から15歳くらいの年齢でお嫁さんに行くということは、ごく普通のことでした。
天武天皇(大海人皇子)との結婚
このように、持統天皇は13歳で叔父である大海の王子(後の天武天皇)に妻として嫁ぐことになります。
ちなみに大海の王子とは後の天武天皇のことであり、天智天皇の弟、持統天皇の叔父・後の夫にあたります。
飛鳥時代の672年に起きた壬申の乱を勝ち抜いて、見事に勝利して天皇に(天武天皇として)即位された方です。
つまり持統天皇は天皇に即位してから、天武天皇という風に名前が変わったというわけです。
13歳での結婚は、当時は「エリートの宿命」?
先日の通り、当時の皇族にとって、13歳前後での結婚は、決して珍しいことではありませんでした。
現代では女性は16歳にならないと結婚できないため、これはこれでなんだか不思議ですよね。
政略結婚としての側面
まず当時と現代とでは、結婚に対する価値観が全く異なっていました。
つまり、当時の結婚というものは、現代と違って必ずしも好きな人同士でやるものとは限らなかったのでした。
昔の結婚は
- 家同士のつながりを作る(親戚になっておくことで関係を良好に保つ、敵同士になることを避ける)
- 血統の維持のため(家系を絶えさせない、お家断絶をさせない、子孫に代々遺伝子や名誉を残していく)
- その家の格を上げる(名家に娘を嫁がせ、自分の家の地域での影響力を上げる)ため
など、そのような目的でも結婚は大いに使われてきました。
結婚の歴史については、以下の記事でも解説してますので、ご覧ください。

血統を維持していくことが、当時は最優先とされた
すなわち当時の結婚への価値観や意味合いは、「一族の繁栄や血統を維持していくこと」が最優先とされました。
特に天皇の家系といえば、もうそれだけでもう神様扱いというか神格化されるため、バラバラになりがちだった当時の国を効率的にまとめていくためにも、天皇の家系を維持していくことは、ものすごく大事なことだと思われていました。
当時はバラバラでカオスだった世の中を、一つにまとめる必要があった
なぜかと言うと、当時の日本はもう誰もが波乱万丈と言うか、カオスに荒れてしまうような無法状態のような世の中だったという時代背景があったからなのでした。
例えば、古墳時代にはそれぞれクニといった群雄割拠の時代で、国がまとまっていない状況でした。
そのため、とにかく世の中が一つにまとまって中央集権的な国家になることは当時としては非常に重要でした。
若いうちから有力な家系と結婚しておくことは、当時では一般的なことだった
そのため、天皇の家系を神格的に維持していくということは、世の中全体にまとまりがなかった当時としては、非常に重要視されたのでした。
だからこうした持統天皇が身内の叔父と結婚したという手法が取られたのでした。
ここがまさしく、現代とは大きく異なる価値観ですね。(むしろ今ではSNS炎上確定)。
このように当時は、若いうちに有力な親族と結ばれておくことで、勢力を固めておくという必要があったというわけです。
あくまで実力主義の現代ではちょっと考えられない価値観ですよね。
現代との違い
また、先ほどにも述べた通り、こうした身内同士の結婚は現代の感覚では驚きですが、当時はまだ平均寿命も短く、しかも一旦成人(元服・裳着)の儀式を終えれば、人はみんなすぐに一人前の大人としての役割を求められるような時代でした。
すなわち、持統天皇は13歳にしてすでに「国家の重要人物」としての自覚を持たされていたというわけですね!
叔父との結婚について
そして、こうした叔父(つまり天武天皇)などと言った身内の人との結婚というのは、当時の家系においては「血統の純粋さ」を守ることが何より重要だったのでした。
すなわち、こういった異母兄弟や叔父・姪どうしの結婚というものは、あくまで自分たちの家系の「高貴な血筋」(ここでは天皇家の神聖性)を維持していくための、当時としては主流のスタンダードな戦略だったというわけですね!
戦場を共にした夫婦
また、持統天皇の生涯における最大の転機となった出来事は、飛鳥時代の672年に起きた戦乱であり、また父上の天智天皇が崩御された後の「跡継ぎ争い」である壬申の乱です。
持統天皇は、夫である天武天皇(当時は大海人皇子)と共に戦場へと赴き、お互いに苦楽を共にしながら、見事に勝利を掴み取りました!
すなわち、この夫婦での強い連帯感こそが、まさに後の共同統治を行っていくための強い基礎になっていったというわけですね。
持統天皇と壬申の乱:日本最大の内乱のドラマ
この壬申の乱は、日本の歴史をガラリと変えてしまった大事件でした!
この反乱が起きた理由
壬申の乱が起きた理由は、それまでの天智天皇が亡くなった後、
- 息子(大友皇子)
- 弟(大海人皇子)
の間で、「次の天皇は誰か?」という跡継ぎ争いが爆発したのが、この戦いの原因です。
壬申の乱の経過と結果
そして一旦は不利になり、
- 奈良の吉野へと逃げて隠れていた大海人皇子(と、寄り添う持統天皇)の軍が挙兵し、
- 三重県の名張から岐阜県の方へ北上して行き、
- 各地の豪族を次々に味方につけて、
- やがては関ヶ原から西へと進んで滋賀県に入り、
- 琵琶湖の大津の瀬田の方へと向かって行った
というわけです。
そして現在の滋賀県大津市に当たる瀬田の唐橋での戦いにおいて、見事に大友皇子を破り勝利しました!
この結果、天武天皇という強力なリーダーが誕生することとなり、持統天皇はその相棒として、晴れて政治の表舞台に立つことになります。
具体的にどんな政治を行ったのか
また、持統天皇はやがて夫である天武天皇が亡くなった後、自ら天皇の位へと即位して、直接的に政治を司ることになりました。
しかもその政治の実行力たるや、まさに現代のトップ経営者も驚くほど徹底していました!
飛鳥浄御原令の完成
まず持統天皇は、日本で本格的な「法律」を運用し始めました。
飛鳥浄御原令
飛鳥浄御原令とは、天武天皇が計画し、後に持統天皇が完成・実施した法律です。
それまではあくまで「慣習(なんとなくの決まり)」で動いていた政治を、「成文法(文字によって書き記されたルール)」で動かすように変えたという、画期的な出来事でした。
制定法:文字で書き表され、正式な手続きを経て制定された法律のことをいいます。
戸籍を作った理由の一つ 税金の適正な徴収のため
また持統天皇は、日本初の全国的な戸籍を作り、その上で国家の運営に必要な税金をしっかり集めって行くための仕組みを整えてゆきました。
というのも、それまではどこに誰が住んでるか(住所)もさっぱりわからず、また誰がどれだけ稼いでるか(年収)もわからなかったのでした。
そのため、正しい税金の徴収がまともには行われていなかったのでした。
そもそも庚午年籍とは?それまでの日本に無かった戸籍の仕組み
ちなみに庚午年籍とは、日本で初めて作られた、全国規模での本格的な戸籍のことをいいます。
すなわち、誰がどこで何をしているかを把握することで、兵役や税の管理をシステム化しました。◯これまでの日本にはそんなものは システムはなく、こうした 時代遅れ感こそがまさに海外からナメられる要因にもなっていたため、こうした持統天皇による取り組みは非常に画期的だったと言えます。
このように庚午年籍は、当時の誰がどこに住んでいるかについての詳細を詳しく記録した、それまでの日本には無かった日本最古の全国的な戸籍帳となります。
持統天皇よりも前の時代に、戸籍がなかった理由
それまで「全国一斉の戸籍」がなかったのは、先ほどもう少し触れたように、当時の日本がまだ「バラバラな部族の集まり」だったからです。
つまりこの時点で、当時の日本はまだまともな国家の体制ができていたとは言い難く、外国から舐められてもしょうがない状態だったというわけです。
戸籍がないことのデメリット 兵士も税金も適切に集められない
先述の通り、戸籍が無いと誰がどこに住んでいるかすら全く把握できないため、
- 兵士を正しく適切に集めること:これがしっかりできてないといざ、外国との戦争になった時に困る
- 公平に税(つまり稲など)を適切に納めさせること:いざ戦争になった時に、兵士たちに食べさせることができなくて困る
と言ったことも、それまでの当時の日本ではまともにできていませんでした。
すなわち、当時は国としてのパワーがまだまだ弱かったというわけです。
これではいざ外国から攻められた時に、日本人全員が一致団結して国を守ることもできませんよね。
戸籍(庚午年籍)の目的 住所を明らかにし税金を適正に徴収すること
また、先ほども少し述べたように、この戸籍(庚午年籍)の目的は、「税金を正確に徴収すること」が最大の目的の一つでした。
すなわち、この取り組みにおいては
- 誰がどこに住んでるか、住所はどこか
- 年収はいくらぐらいか
といったことを明らかにすることで、本来正当に納めるべき税金を、正当に徴収することができるようになったのでした。
持統天皇の様々な取り組みにより、国家の財政も安定
すなわち、持統天皇によるこうした取り組みによって国の財政が安定するようになり、それによってはじめて大きな都を作ったり、さらには外国からの侵略に備えたりすることが可能になったというわけです。
こうした 持統天皇によるパワフルで画期的な取り組みは、まるで今で言うところの、
- 社員一人一人の年収や、給料または源泉徴収などをしっかりと管理する一流企業トップのような、
- まさにそのような経営手腕
を、当時の飛鳥時代に誇っていたというわけです。
藤原京への遷都(持統天皇)
持統天皇の国家運営の行動力はまだまだこれだけにとどまりません。
持統天皇はそれまでの「天皇一代限りの宮殿」ではない、本格的な巨大都市を作りました!
奈良県橿原市にあった、飛鳥時代の巨大な都市「藤原京」
つまり、
- 藤原京っていう立派な大きな都を、
- 現在の奈良県橿原市に該当する地域のあたりに作った
というわけです。
しかし、この都(藤原京)も後に国が発展するにつれて、だんだんと手狭になっていくにつれ、710年に平城京つまり現在の奈良県奈良市へと移されることになります。
なぜ「天武天皇・持統天皇の政治」が理想とされたのか
奈良時代の人々にとって、天武天皇・持統天皇お二人の時代は「黄金時代」として崇められてきました。
それは、「天皇を中心とした中央集権国家」を完成させたからです。
「バラバラだった日本をまとめ上げた」神格化・理想とされた天皇
つまりこのことによって、「天皇は神のごとき存在である」というような、当時としての理想的な国家のあり方が確立されたのでした。
もちろん現代ではこういうことは考えられないものの、当時としては従来それまではバラバラだった国(大和民族)を、一つにまとめるために必要な権威を確立しました。
争いを勝ち抜き、日本をまとめ上げ、大きな制度を作った功績は大きかった
このようにして、持統天皇が、
- かつての激しい内乱(つまり先ほども述べた壬申の乱)を勝ち抜き、
- その後の平和な社会を作った
という実績が、後の時代の人々には当時の日本の理想的な「あるべき姿」に見えたというわけですね!
すなわち、
- 天武天皇や持統天皇が作り上げた、強いリーダーシップによる様々な取り組みが、国家を救った
という成功体験が、かつてそこには存在していたというわけです。
天香久山と万葉集の情景(持統天皇)

持統天皇が歌に詠んだ天香久山(桜井線/万葉まほろば線より)(奈良県)
持統天皇といえば、誰もが義務教育の時に習ったかもしれない、あの有名な和歌がありますね!
天香久山(あまのかぐやま)との関連
天香久山とは、奈良県にある山で、大和三山(有名な3つの山)の一つとして神聖視された山です。
また、天香久山は藤原京からも見えるという、美しい山です。
その天香久山に「真っ白な着物が干されている」風景を見て、持統天皇は
- 「新しい季節の訪れ」
- 「自らが治める、国の平和」
を実感していたのかもしれませんね。
大和三山:万葉の心を象徴する三つの山
大和三山とは、奈良県(旧大和国)の藤原京をまるで囲むようにそびえる、三つの美しい山のことです。
- 天香久山:最も神聖視された、天から降ってきたという伝説の山。
- 畝傍山:三山の中で最も高い山。
- 耳成山:形が整った美しい円錐形の山。

大和三山の一つ・耳成山(桜井線/万葉まほろば線より)(奈良県)

大和三山の一つ・畝傍山(桜井線/万葉まほろば線より)(奈良県)
持統天皇は、この山々に囲まれた藤原京を眺めながら、新しい国造りに思いを馳せていたのでしょうね!
大和三山については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

藤原京への遷都、その切実な理由(持統天皇の偉業)
なぜ、住み慣れた場所を離れてまで藤原京を作ったのでしょうか?
そこには、国家としてのプライドと実利(つまり、しっかりした合理的な理由)がありました。
「日本」という国をアピールするため
まず、当時の日本はどうしても海外からはアジアの弱小国家のように思われていた節がありました。
まあ、はっきりいえばナメられていたわけです。
それは当時の日本にはまともな法律もなく、そもそも国が全員がバラバラで大王同士が争っているような状態だったので、それではまともな近代国家とは思われていなかったとしてもしょうがなかったでしょう。
そのため外国に対して、「日本も立派な文明国である」と、対外的に示す必要があったというわけです。
人口増加と行政の複雑化→藤原京の造営
そしてやがて政治が進化していくにつれ、それまでの従来の小さな宮殿では、もはや役人が入りきらなくなっていました。
そこで、まるで「碁盤の目」のように整理された巨大な都市(藤原京)が必要になったというわけですね!
藤原京で採用された条坊制は、単に見た目が美しいだけではありません。
住所を分かりやすく管理し、多くの役人がスムーズに移動・配置されるための、極めて合理的なシステムだったわけですね。
このような持統天皇の功績をまとめると、まさに「日本の骨組みを作った人」と言えます。
おわりに・まとめ
持統天皇の激動の生涯を学んでみていかがだったでしょうか。
三代目の女性天皇として飛鳥時代というとてつもない大昔に活躍した持統天皇の功績は、まさに今回解説した通り、日本で初の戸籍の制定に始まり、現代の日本にも通じる、社会制度の充実にも大きく関与・貢献してきたということが分かります。
今後、奈良県の持統天皇ゆかりの地に刊行される時には、今回学んだことをより思い出してもらえると、より現地の観光・探訪もより充実したものになることでしょう。
コメント