【島原半島】地理・歴史を、わかりやすく解説!【後編】

島原半島の歴史(島原街道愛野駅吾妻駅有明海ムツゴロウ天草・島原の乱など)について、わかりやすく解説していきます!

島原街道の歴史

島原街道しまばらかいどうとは、​江戸時代に整備された、諫早いさはやから島原城下へと続く大切な道のことです。
すなわち、かつての島原藩のトップである殿様が、はるか遠くの江戸(東京)へ行くという「参勤交代さんきんこうたい」のために通ったルートでした。

「島原の乱」など​歴史の舞台

以前お話しした「島原の乱」のときに、幕府軍の約12万人にも及んだ軍勢が、はるか南西の原城を目指して進軍したのも、この街道でした。

とは言っても、当時の街道というものは、非常に砂埃すなぼこりが舞ってしまうような、ジャリでぬかるんでいたような道がほとんどでした。
また、馬も足を取られることも多かったと言います。
そのため、泥に足を取られてしまって動けなくなったり、また荷物を運んでいた馬が(条件の悪い地面のために)体力を激しく消耗したりすることは、もはや当時の日常茶飯事だったようです。

現在の島原鉄道の線路は、この歴史ある街道に沿うように敷かれているというわけです。
すなわち、列車に乗るということは江戸時代の旅路を追体験することでもあるわけですね!

​愛野・吾妻(雲仙市)との関連性(島原鉄道)

この二つの地域は、島原街道の入り口付近に位置する重要な宿場町でした。

​街道の要所、愛野・吾妻

愛野あいのは、島原半島への玄関口として、古くから旅人が行き交うという賑やかな場所にありました。

つまり、彼らは何日も何日もかけて徒歩または馬で移動するため、途中で食事休憩するための場所が必要であったというわけです。

​「愛しの我が妻」:幸せの切符

島原鉄道で最も有名なエピソードの一つが、この二つの駅名を繋げた「愛のメッセージ」になります。

​「愛の聖地」として

また、愛野駅あいのえきから吾妻駅あづまえきへの切符を続けて読むと、

  • あいの
  • 吾妻わがつま

すなわち「愛しの我が妻」と読めますね!

すなわち、島原鉄道の旅においては歴史ある島原街道を駆け抜けて、最後は「愛しの我が妻」という優しいメッセージに辿り着くというわけです。

有明海(島原半島)

​有明海の概要

有明海ありあけかいは、九州の西側に位置する内海ないかいです。
つまり、福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県の4県に囲まれています。

干満差日本一になる仕組み ベンチュリ効果

​この海の特徴は、干満かんまんの差がなんと日本で最も大きいということです。

そして、そのような場所においてもし潮が引くと広大な干潟ひがたが現れるようになり、ムツゴロウなどの珍しい生き物が生息しているという、なんとも豊かな自然の宝庫となっています。

また、有明海ではノリの養殖も盛んですよ。

ムツゴロウと干潟の暮らし

​​ムツゴロウは、有明海などに存在する干潟ひがたを主な生活の場とする、非常にユニークで珍しいお魚です。

​潮の干満差が大きい理由

また、​有明海ありあけかいはその独特な地形が、潮の干満差かんまんさを大きくしています。
入り口が狭く、しかも奥に行くほど広くなっていく形をしているわけです。

つまりこの有明海独特の形こそが、外側の海から入ってきた潮の水を奥へ奥へと集中させてゆくわけです。
これにより、潮位ちょういを極端に上下させるという効果を生んでいます。
これこそがまさに、日本一の潮の満ち引きを生む秘密なわけですね!

​干満差と干潟の増大

このように、有明海のように​潮の干満差かんまんさが大きいと、干潟ひがたが増えてゆきます。
つまり、潮が引いたとき(干潮時)に、普段は水に浸っている広い範囲の海底が、地上に現れるからです。

このように有明海においては、この大きなの満ち引きのおかげで、より広大で豊かな干潟が発達していったのでした。
こうした干潟は、ムツゴロウをはじめとする多くの生き物にとって大切な住処すみかになっているというわけです。

​天草・島原の乱とは?

天草あまくさ島原しまばらの乱は、江戸時代初期(1637年)に、主にキリシタン農民たちが起こした大規模な一揆です。

当時の厳しい年貢の取り立てや、幕府によるキリスト教の弾圧に苦しんだ人々が蜂起ほうきしました。
​この乱は、現在の

  • 長崎県の島原
  • 熊本県の天草あまくさ

のそれぞれの地域を舞台に広がってゆきました。
そしてこの反乱は、農民軍をあなどっていたいた幕府軍が相当に手こずり、また農民 軍も相当な覚悟で幕府軍を困惑・苦戦させたのでした。
結局幕府軍は12万人という兵力をかけたにも関わらず、約4ヶ月いう長い時間をかけて、最終的に幕府軍によって鎮圧されることになります。

悲しい歴史ですが、人々の強い信仰と抵抗の象徴として語り継がれていますね。

​原城の概要と構造

原城はらじょうは、天草・島原の乱の最後の舞台となった城跡です。

いわゆる「近世城郭」ではない

ちなみにこのお城は、我々がイメージするような壮大な天守閣があったような、 いわゆる「近世城郭きんせいじょうかく」ではありません。
当時の原城は、もともと自然が作っていた険しい高低差のある丘陵きゅうりょうの地形を活かした、中世の山城やまじろだったのでした。

そして反乱軍は、既存の石垣いしがきなどを利用して、幕府軍に対抗するために立てこもったというわけです。

現在では、石垣の一部などの悲しい歴史の跡が残ると言った、静かな場所となっています。
まさに松尾芭蕉

つわものどもが夢のあと

みたいな、そんなイメージですね。

​幕府軍の想定外の苦戦

原城はらじょうに立てこもった領民・農民反乱軍たちと、それを攻める幕府軍の間には、教科書には書ききれないような壮絶なエピソードがたくさん詰まっています。​

まず当時の幕府軍は、教科書にも書かれている通り圧倒的な兵力(約12万人)を投入しました。
しかし、それにもかかわらず幕府軍は多大な犠牲を出した上に4ヶ月もかかってしまいました。

ではなぜ、こんなに幕府軍は多大な犠牲を出してしまったのか。
それは、相手を「所詮は単なる寄せ集めの農民軍だ」と侮っていたため、予想外の反撃に遭ってしまい、大混乱に陥ったのでした。

​総大将の戦死

まず、幕府側の最初の総大将だった板倉重昌いたくらしげまさは、功を焦って(つまり、お手柄を優先しすぎて)しまい、無理な突撃を繰り返してしまいました。
彼は油断・無茶をして天草農民軍(一揆軍)に突撃していったため、一揆軍の激しい反撃に遭ってしまい、戦死してしまったというわけです。

このようにして、幕府軍のメンツは丸つぶれとなり、続いて二番手の松平信綱まつだいらのぶつなが投入される事態となりました。

​「知恵伊豆」も困り果てた要塞

しかしながら、新たに投入された知略(つまり、頭のいい戦略)で名高い松平信綱でさえも、原城における農民軍の守りの固さには驚きました。

このように、

  1. あまりにも農民軍が徹底的な反撃をしてくるため、
  2. 幕府軍はそれまでの「力攻め」を諦め、
  3. 最終的には「兵糧攻ひょうろうぜめ」という、(城に立てこもっている)相手が飢えるのを待つという作戦に切り替えざるを得なかった

というわけです。

兵糧攻ひょうろうぜとは、城を包囲して外部からの食糧補給を断ち、空腹によって戦う意欲を失わせる戦術のことです。
一揆軍は最後には木の芽や海藻を食べて飢えを凌ぐほど、最後にはかなり追い詰められ、残念ながら負けてしまいます。

​全滅という悲劇

こうして約4ヶ月もの激しい戦闘で多くの犠牲者も出したあげく、1638年、ついに城は陥落しました。
そして、この凄惨たる無残な戦いにおいては、天草四郎を含め、立てこもった約3万7千人は老人や子供に至るまで、ほぼ全員が命を落としてしまうという凄惨な結末を迎えました。

4ヶ月も城に立てこもり、自分たちの信じる思いを胸にしながらも奮闘むなしく、歴史の闇へと消えていった彼らの無念を思うと、何とも残念な思いがしますね。

天草四郎と一揆軍の奮戦

​当時わずか16歳(諸説あり)の少年出会った天草四郎あまくさしろう総大将に仰いだ一揆軍でしたが、彼らはあくまで最初から死を覚悟した、「信仰の団結」によって結ばれていました。

​奇跡の少年

天草四郎少年は、「海の上を歩いた」「指先から火を出した」といったまるで本物のイエス・キリストを彷彿させるような、まるで神様みたいな伝説が残るほどでした。
そのため、この時の天草四郎は地域の人々からカリスマ的な人気がありました。
すなわち、彼が旗印・強烈なリーダーとなることで、それまではバラバラだった農民たちが最強の軍団へと変わったというわけですね!

このように、天草四郎少年は民衆にとって、まるで神様のような希望の光だったのでした。

​女性や子供も戦った

原城には、戦える男性だけでなく、その家族も全員立てこもりました。
したがって、城の上から煮えたぎるお湯を浴びせたり、石を投げたりして、幕府軍を最後まで苦しめたのでした。

農民軍を完全にナメてかかった幕府軍

当初、幕府は「たかが飢えた農民たちの集まりだ」と完全にナメていました。
しかし、蓋を開けてみると、幕府軍は予想外の苦戦を強いられることになります。

プロの元・武士が指揮していた一揆軍

また一揆軍の中には、関ヶ原の戦いなどで敗れた元武士(浪人)たちが軍師として加わっていました。

したがって、彼らの築いた原城の守りはまさしく鉄壁であり、幕府軍の攻撃を何度も跳ね返したのでした。

​死を恐れない信仰の力

ここで戦って死ねば天国へ行ける」と信じる彼らの士気は、想像を絶するものでした。
すなわち、最新兵器を持つ幕府軍が何度突撃しても、石や棒で応戦する一揆軍を崩せなかったのでした。

このように農民軍たちは、最新装備幕府軍に対しても、竹槍や石つぶてで必死に抵抗し、数ヶ月も城を守り抜いたというわけです。

​乱後の隠れキリシタン

そして、​天草・島原の乱が鎮圧された後も、キリスト教の信仰は途絶えませんでした。
つまり、幕府の厳しい弾圧を逃れるため、彼らは信仰を隠して、守り続けました。
これがいわゆる「隠れキリシタン」の始まりというわけです。

​例えば、マリア像観音像かんのんぞうに見せかけるなど、日本古来の信仰に偽装して、代々ずっと秘密裏ひみつりに後世へと信仰を伝えていったのでした。
そして、この信仰は、明治時代になってようやく禁教令きんきょうれいが解かれるまで、約250年間も守り抜かれたもいうわけです。

すごい精神力ですね!

島原の乱その後

また、この乱がもたらした悲劇は島原半島だけにはとどまらず、遠く佐賀県北部にまで及んでいました。

島原の乱という未曾有の大事件は、当時の唐津藩からつはん(現在の佐賀県唐津市からつし周辺)の領主(トップ)であった寺沢家てらさわけにとっては、非常に厳しい運命をもたらしました。

幕府の怒りと、その後の統治の変化について整理しますね!

​寺沢氏への厳しい処分と断絶

島原の乱が起きたとき、天草(現在の熊本県)は唐津藩からつはん飛び地(つまり、本拠地とは離れた場所に存在する領土)でした。
したがって、一揆を防げなかっただけでなく、

  • その原因が、過酷な年貢の取り立て(悪政)にあった

として、幕府唐津藩に対して、重い責任を問うたのでした。

​領地の没収(減封)、家系の断絶

この島原の乱の直後、時の唐津藩主であった寺沢堅高てらざわかたたかは、天草の領地をすべて没収されてしまいました。
その後、寺沢堅高は自ら命を絶ってしまいます。

このようにして、唐津藩寺沢家においてはもはや跡継ぎがいなくなったのでした。
そしてこのことで、名門だった寺沢家改易(取りつぶし)となり、ついには滅亡(お家断絶)してしまったというわけです。

改易かいえき:武士の身分を剥奪し、領地や屋敷を没収して、家を潰してしまう処分のことです。

​「譜代大名」による統治へ​

寺沢家が去った後の唐津藩は、幕府にとって

二度と乱を起こさせてはならない重要な場所

となりました。
したがって、それ以降は幕府と信頼関係の深い譜代大名ふだいだいみょうがずっと代々治めることになったというわけです。

​信頼できる家臣を配置

そして、幕府は唐津に対して信頼できる家臣(部下)を配置してゆきました。
例えば大久保氏・松平氏・土井氏・水野氏、そして最後に小笠原氏と、幕府の要職を務めるような有力な譜代大名が次々と送り込まれました。

譜代大名ふだいだいみょう:関ヶ原の戦いよりも前から徳川家に仕えていた、特に信頼の厚い家臣の家柄のことです。

長崎の守り

唐津長崎にも近いため、外国に対する備えとしても重要な拠点でした。
すなわち、幕府は自分たちの「身内」である譜代大名に、この地域の監視統治を任せたというわけですね!

​現在の景色に想いを馳せて

今、島原鉄道に乗って穏やかな海を眺めていると、かつてこの地で起きた激動の歴史や、領主たちの交代劇が嘘のように静かですね。

しかし、その歴史があったからこそ、今の平和な風景があるのかもしれません。
この時の一揆の責任で家が潰れてしまうなんて、当時の幕府の権力の強さと、乱の衝撃の大きさが伝わってくる思いがしますね!

​歴史の重みを乗せて走る島鉄

こうした激動の舞台となった場所を、今の島原鉄道は走っているわけです。
​すなわち、美しい有明海を眺めながら走る黄色い列車は、そんな悲しい歴史を乗り越えて、今の平和な島原を象徴しているようにも見えますね。

歴史を知ってから訪れると、潮風の香りも少し違って感じられるかもしれません。

おわりに・まとめ

以上、​島原半島の地理・歴史を学んでみて、いかがだったでしょうか。

今回紹介したような島原半島の激動の歴史などを思い出した上で、ぜひ次の観光・旅行・探訪を楽しんでみてくださいね!

コメント