まずは原文から!
その最期まで携(たずさ)へし
青葉の笛(あおばのふえ)は須磨寺(すまでら)に
今ものこりて寳物(ほうもつ)の
中にあるこそあはれなれ
さらに読みやすく!
その最期まで携(たずさ)えし
青葉の笛(あおばのふえ)は須磨寺(すまでら)に
今ものこりて(残りて)宝物(ほうもつ)の
中にあるこそあわれなれ
さあ、歌ってみよう!
♪そのさいごーまで たずさえしー
♪あおばのふえはー すまでらにー
♪いーまものこりて ほうもつのー
♪なーかにあるこそ あわれなれー
(山陽本線)
神戸駅→兵庫駅→鷹取駅→須磨駅→舞子駅→明石駅→加古川駅→姫路駅→相生駅(旧・那波駅)→岡山駅→倉敷駅→福山駅→尾道駅→糸崎駅→三原駅→海田市駅→広島駅→西広島駅(旧・己斐駅)→五日市駅→宮島口駅→岩国駅→柳井駅→徳山駅→防府駅(旧・三田尻駅)
※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ表記
※鉄道唱歌のできた当時(1900年)は、防府駅(旧・三田尻駅)から先は開通していなかったため、徳山港から船で門司(九州)へ
青葉の笛(あおばのふえ)とは、平氏軍のわずか16歳の美少年だった平敦盛(あつもり)が、その最期に死ぬ間際まで持っていた笛のことです。
前回も説明しましたが 、源平合戦 において平氏の若武者であった平敦盛は、残念ながら熊谷直実(くまがい なおざね)という武将によって、泣く泣く斬首されてしまいました。
なぜ泣く泣く行ったのかと言うと、それは敦盛が自分の息子と同じぐらいの年齢であり、しかもとても美しい顔立ちの少年だったからです。
そして前回説明した通り、熊谷直実はこのことがきっかけで世の中の無情さ・残酷さを悟ることとなり、出家することになったのです。
そして討ち取られたされた平敦盛が最後まで持っていた青葉の笛は、須磨寺(すまでら)に宝物として飾ってあります。
その様子を鉄道唱歌の歌詞では「あはれなれ」と歌っています。
わずか16歳の美少年でありながら討ち取られてしまった平敦盛が最期まで持っていた青葉の笛が、未だに須磨寺に宝物として保存されていることと、また事情からやむを得ず討ち取るしかなかった熊谷直実のことを思うと、やはり哀れみを感じざるを得ないということでしょう。
前回も説明しましたが、熊谷直実(くまがい なおざね)は、埼玉県熊谷市(くまがやし)の名前の由来になった人物です。
埼玉県熊谷市は新幹線も止まる、秩父方面への交通の要所である重要な街であり、また岐阜県多治見市や静岡県浜松市と並んで「日本一暑い街」としても知られます。
熊谷駅の前には熊谷直実の像が建てられています。
そしてこの青葉の笛を歌った、「青葉の笛」という明治時代の唱歌があります。
これは明治39年に当時の文部省によって発表された唱歌であり、作詞者は鉄道唱歌の作詞者である大和田建樹(おおわだ たけき)さんです。
以下に、1番の歌詞のみ引用します。
「青葉の笛」 作者:大和田建樹
一の谷の 軍(いくさ)破れ
討たれし平家の 公達(きんだつ)あはれ
暁(あかつき)寒き 須磨(すま)の嵐に
聞えしはこれか 青葉の笛
「公達(きんだつ)」とは、貴い(とうとい)人という意味です。ここでは、平敦盛のことをいいます。
「暁(あかつき)」とは、朝のことをいいます。
つまり、まだ夜明けの肌寒い須磨の海近くに聞こえてくるのは青葉の笛だ、などの意味になるでしょう。
大和田建樹さんは、鉄道唱歌のこの歌詞のみならずこうした唱歌まで作詞されていますから、よほど平敦盛に対する思い入れが深かったのだろうと推察できます。
一ノ谷で無念にも散ったわずか16歳の美少年・平敦盛、そして彼を逃がす方法を考えながらも泣く泣く討ち取った熊谷直実。
両者に対する敬意を示しつつ、こうした昔を偲(しの)びながらする鉄道の旅も興味深いものがあるのではないかと思います。
一応申し上げておくと、須磨寺へのアクセスは山陽電車の須磨寺駅が近くて便利です。三ノ宮駅(神戸三宮駅)・高速神戸駅・新開地駅などから山陽電車に乗り換えてくればよいでしょう。兵庫の須磨地域に来たときは、ぜひ須磨寺に寄っていきたいものです。
注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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