【岐阜県】中山道の宿場町・美濃赤坂の歴史を、わかりやすく解説!

今回は岐阜県大垣市中山道六十九次・第57番目の宿場町・美濃赤坂にいった時のお話をします!

中山道・赤坂宿の歴史について、わかりやすく解説してゆきます!

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中山道56番目の宿場町・赤坂宿(美濃赤坂)

今回は岐阜県大垣市(おおがきし)、中山道六十九次(なかせんどうろくじゅうきゅうつぎ)・第56番目の宿場町・赤坂宿(あかさかしゅく)にいった時のお話をします!

岐阜県(ぎふけん)とは、名古屋のある愛知県の北にある県です。
戦国時代、かつて織田信長が支配しており、織田信長がこの地を「岐阜(ぎふ)」と名付けたと言われています。
岐阜県はかつて、北部は飛騨国(ひだのくに)、南部は美濃国(みののくに)と呼ばれていました。
県庁所在地の岐阜市と、今回メインで扱う第二の都市である大垣市は、どちらも岐阜県南部・美濃国(みののくに)に位置しています。

中山道(なかせんどう)とは、江戸時代に人々が江戸~京都の間を旅するときに、「徒歩」または「馬」で向かっていた道路の一つです。
多くの旅人たちは徒歩で向かうために、何日もかけて宿場町に泊まりながら、時にはきつい峠を越えながら向かっていったというわけです。
中山道では途中に計69もの宿場町があったため、「中山道六十九次(なかせんどつろくじゅうきゅうつぎ)」と呼ばれたりもします。

中山道・赤坂宿(岐阜県大垣市)

今回紹介する赤坂宿(あかさかじゅく)は、中山道では江戸(東京)から数えて56番目にあたる宿場です。

中山道・赤坂宿(岐阜県大垣市)

東海道本線の支線である美濃赤坂駅(みのあかさかえき)は、おそらく東京はじめ全国各地に存在する地名である「赤坂(あかさか)」とは区別するために、かつての国名である「美濃(みの)」をつけて「美濃赤坂(みのあかさか)」という駅名になってるものと思われます。

なぜ宿場町の道には、ゆるいカーブが多い?防衛上の理由

宿場町においては、わりと全国共通でゆるやかもしくは急なカーブ曲がり)が多く、遠くまでは見渡しにくくなっています。
つまり見通しが悪く、宿場町や城下町を通る道路において「500m以上先が見える」ということは、基本的にありえません。
このように宿場町の中は「見通しが悪い構造」となっており、これは昔の「街道あるある」であるといえます。

このカーブは曲尺手(かねんて)と呼ばれ、軍事上・防衛上の観点からわざとカーブを増やしているのです。
わざと見通しを悪くすることで、宿場町や城下町に対して攻め入ろうとしている敵を防いでいたのでした。
また、中山道は江戸幕府のある江戸にも通じているため、徳川家に対して不満を持った大名が江戸に対して進軍していくのも防ぐことができたわけです。
もし宿場町の道路がすごく真っ直ぐだったら、見通しが良すぎて敵からすれば攻撃目標がはっきりしてしまい、それこそ敵の思うツボだったのでしょうね。
また、宿場町には飯盛女(めしもりおんな)という(男性を楽しくもてなす)女性もいたため、あえて見通しを悪くすることで男性たちをワクワクさせるための仕組みだったのかもしれません。

なお山梨県甲府市・身延線(みのぶせん)の金手駅(かねんてえき)は、この曲尺手(かねんて)に由来しています。
甲州街道(こうしゅうかいどう)で江戸(東京)方面から甲府へと向かうときに、甲府の手前で謎に90度曲がるカーブがあるのですが(これは現在の国道414号であり、旧・甲州街道のルートと同じ)、これは軍事上の目的で、甲府城へと攻めて来ようとする敵から見てわざと見通しを悪くするために、このような不自然なカーブが出来たわけです。

岐阜県大垣市について

岐阜県大垣市(おおがきし)は、岐阜県の濃尾平野(のうびへいや)の北西にあたる地域に位置しています。

大垣市は、岐阜県では県庁所在地の岐阜市に次いで、2番目に多い人口を誇る街となっています。つまり大垣市は岐阜県第二の都市ということになります。

大垣市は豊富な「地下水の恵み」により発展してきており、「水の都」と呼ばれています。
大垣市の地下には、揖斐川(いびがわ)・長良川(ながらがわ)・木曽川(きそがわ)といった大きな川の地下からしみ込んだ豊富な地下水が存在しており、それらの水が地面から涌き出てくるため、昔からとても水に困らない、水が豊富な地域だったわけです。
昔は現代のように「ダム」「水道」「浄水場」などのインフラが今ほど整っていませんでしたから、水に恵まれるかどうかというのは「地域ガチャ」「天候ガチャ」によるところが多かったのでした。つまり、運良く大雨でも降ってくれない限りは水に全然恵まれず、日照り続きで作物がろくに採れなかった地域も多かったのです。
しかし、大垣市の場合はこの豊富な地下水のおかげで、昔から水に困らない地域だったというわけです。
この豊富な地下水は、大垣市の上水道(つまり、人々の「飲み水」など)の水源となっています。
かつて大垣市において繊維産業がとても盛んだったのも、こうした「豊富な地下水」を生かしてのものでした。
工場には「冷却」「洗浄」「清掃」などのためにたくさんの水が必要とされるため、水が豊富な地域に建てられることが必須条件だったからです。

かつて金生山の石灰石を運んでいた、美濃赤坂線

美濃赤坂駅(岐阜県大垣市)

赤坂宿(あかさかしゅく)へは、大垣駅から北へ出ている、東海道本線の支線で終点の美濃赤坂駅(みのあかさかえき、岐阜県大垣市)から向かうことができます。

美濃赤坂駅(岐阜県大垣市)

この大垣駅~美濃赤坂駅のごくわずかな短い区間は、東海道本線の「支線」という扱いになっており、通称「美濃赤坂線」とも呼ばれます。
つまり、後述する「石灰石の貨物輸送」のために、後から(大正時代の1919年に)補助的に設けられた線路、みたいなイメージです。

ちなみに東海道本線そのものは、明治時代はじめの1872年に新橋~横浜の開業からスタートして少しずつ距離を伸ばしてゆき、1889年には新橋~神戸までの区間が全通しています。
1914年には東京駅が開業したため、東海道本線の区間は東京駅~神戸駅となり、現在に至ります。

美濃赤坂駅(みのあかさかえき)からさらに北へは、街のやや北西にある金生山(きんしょうざん)へ向かう西濃鉄道(せいのうてつどう)が出ています。
金生山(きんしょうざん)からはたくさんの石灰石が産出されるため、西濃鉄道ではそれらを輸送するための貨物列車が走っているというわけです。
この西濃鉄道も、金生山で採れた石灰石を運ぶために、昭和初めの1928年に開業した路線になります。

当時はまだ自動車が一般的でなく、長距離トラックなどで運ぶことは一般的ではありませんでした。なので、当時は鉄道で運ぶことが一般的だったわけですね。

金生山(きんしょうざん)は、大垣市街地のやや北西に位置している山です。
金生山は、かつて日本一の「石灰石の生産地」だったことで沢山の石灰石を掘りまくったことから、山の大部分が削り取られたという歴史があります。
そのため、山のピーク(頂上)は現在は無くなっています。そのため、ちょっとユニークな独特な形をした山になっています。
ちなみに山の掘削(くっさく)をする前の最高地点の標高は、約217mでした。

金生山(きんしょうざん)はとても質の良いな石灰岩・大理石が採れることから、江戸時代から採掘が盛んに行われてきました。それらの材料は大垣城の「石垣」にも使われています。

幕末の美濃赤坂出身の医者・所郁太郎(ところ いくたろう)

ここからは、幕末に活躍した美濃赤坂出身の医者である所郁太郎(ところ いくたろう)いう人物についての話題となってゆきます。

所郁太郎(ところ いくたろう)は、主に幕末に活躍したお医者さんです。
彼は幕末、長州藩(ちょうしゅうはん)の山口県山口市の地において、当時の幕府が行った第一次長州征伐において反対派に襲撃されて重傷を負った井上馨(いのうえ かおる)の治療をし、見事に命を救ったことで知られる医者でもあります。

所郁太郎は、江戸時代終わりの1838年に、美濃国(みののくに:岐阜県)・赤坂(あかさか)の地において、お酒などを作る仕事である「醸造家」の家にて生まれました。

郁太郎は1852年・14歳のとき、現在の岐阜市にあたる加納藩(かのうはん)の医者から、まず医学を学びました。
次いで、長崎への遊学(留学)経験もあった京都のエラい医者から、さらに医学を学びました。
ちなみに長崎といえば、当時のオランダ最先端の医学が発達していた場所です。
江戸時代の日本は鎖国をしており、オランダと中国以外の国とは貿易は認められていなかったのでした。しかもその貿易のための窓口・玄関口および、外国人が住んでも良かった場所は長崎出島(でじま)に限られていたのでした。
そのため、当時の日本にとって最新の西洋医学といえば「オランダ医学」であり、またオランダ医学を(しかもオランダ語の”原文ママ”で)学ぶためには、オランダ人の医者がリアルに住んでいる長崎にまで行くしかなかったのでした。
もちろん当時は「新幹線」も「飛行機」も無いような時代だったため、長崎へ行くためには東海道・山陽道・長崎街道などのルートを使って、何十日もかけて宿場町に泊まりながら徒歩(または馬)で向かうしかなかったのでした。
例えば、江戸時代の医者として有名な前野良沢や、また大槻玄沢といった医者も、長崎にまではるばると赴いて、オランダの最先端の医学を学んだのでした。
もちろん当時の医学書はオランダ語で書かれているため、日本人の「医師の卵」はオランダ語の勉強もしなければならなかったのでした。

また、現代の医学部でもそうですが、医者になるためには相当大変な勉強量が必要になります。まずレベルの高い医学部(大学)に入るだけでも大変ですし、また苦労して入学でしたとしても、医学部は他の学部より進級規定が厳しいため、常に留年してしまう危機があります。
そのため、医学部生は留年しないためにも、必死で勉強しなければならないのです(それに加えて、場合によっては学費を稼ぐためにバイトをする必要もあり、かなりヘトヘトな大学生活を送ることにもなったりします)。

適塾に入り、緒方洪庵から医学を学ぶ

ちょっと逸れましたが、話を元に戻します。

所郁太郎は、1860年・22歳のとき大阪市の淀屋橋(よどやばし)にある適塾(てきじゅく)に入り、緒方洪庵(おがた こうあん)から学びました。
彼が適塾に入った時、当時50歳だった緒方洪庵とは既に「倍以上の年齢差」がありましたが、それでもジェネレーションギャップを感じさせることもなく、深く知り合ったのだといいます。
また、郁太郎は適塾でもとても勉強熱心だったとのことです。

適塾で学んだその後は、京都にて医者として開業したのでした。
このとき、近くに長州藩の京都における邸宅があったことから、郁太郎に対して治療をお願いをする長州藩の武士たちがとても多く、それがきっかけで郁太郎は長州藩の武士たちと徐々に仲良くなっていったのでした。
そしてこの頃から、郁太郎は長州藩士と深く交わっていくようになっていったのでした。

こうして京都で医者をやり、主な患者だった長州藩の武士と仲良くなっていった郁太郎は、1862年・24歳のとき、長州藩のエラい武士である木戸孝允(きど たかよし)からの推薦により、長州藩(山口県)にある京都藩邸の医院の全体をまとめる「総督」の職に就いたのでした。この若さでは、異例のスピード出世ですね。
さらには、長州藩のトップである毛利敬親(たかちか)にも会うことができたのでした。かなりのスピード出世ですね。
この長州藩の病院における異例のスピード出世やトップである毛利氏との対面は、彼が(京都とも長州藩とも全然関係の無い)岐阜県・大垣の出身者だっただけに、かなり周囲を驚かせるような出来事だったのでした。

八月十八日の政変 長州藩へと下向

こうして長州藩の武士達とも仲良くなっていった所郁太郎でしたが、時代は幕末の動乱のまっただ中だったこともあり、事件が起きます。

1863年・25歳のとき、8月18日に起きた八月十八日の政変によって郁太郎は長州藩のメンバーともども京都を追放されてしまい、長州藩のメンバーとともに山口県山口市へと引っ越してくることになります。

ちなみに八月十八日の政変とは、1863年8月18日に起きた、過激化する尊皇攘夷運動のメンバーたちを京都から追放し、長州藩(山口県)へと帰らせた(追いやった)という事件です。
このとき、公家のうち七人が長州藩へと下る(左遷される)こととなったため、これは七卿落ち(しちきょうおち)とも呼ばれます。七人の公卿(くぎょう)たちが「都落ち」したため、「七卿落ち」と呼ばれるわけですね。

こうして長州藩・山口県へと下った郁太郎は、長州藩におけるエラい医者として、現地で厚く迎えられることになりました。

長州藩・井上馨の命を救った所郁太郎

1864年、所郁太郎は長州藩の領地内(山口県山口市)において医者として開業しました。
そのときは後述する、第一次長州征伐が行われていた時期でした。
このとき(幕府に謝罪しようとしていた一派のメンバーである)刺客に襲われて瀕死の重傷を負った、幕府に対抗したい側である井上薫(いのうえ かおる)の治療にあたり、井上薫の一命を救うことに成功しています。

井上馨(いのうえ かおる)とは、いわゆる長州ファイブと呼ばれる、長州藩出身の5人の英雄の一人です。
「長州ファイブ」のメンバーには、あの伊藤博文も含まれています。

第一次長州征伐(だいいちじちょうしゅうせいばつ)とは、1864年に長州藩で起きた戦いです。
これは京都で起きた「禁門の変(きんもんのへん)」(後述)において、京都の朝廷を(長州藩のメンバーから)攻撃されたことに対する報復として、幕府が長州藩に対して軍を送り、戦ったのでした。
結果的に、長州藩が幕府に対して素直に恭順(きょうじゅん)する意思を示したため、この時には幕府が勝ちました
しかしその後、長州藩は一気に「尊皇攘夷」から「倒幕」へと方針転換したため、翌々年の1866年に行われた第二次長州征伐においては、今度は長州藩が幕府軍に勝利しています。
これがさらに翌1867年の大政奉還、そして江戸幕府滅亡へとつながっていくのです。

禁門の変(きんもんのへん)とは、1864年に京都御所(きょうとごしょ:天皇の当時のお住まい)にある蛤門(はまぐりもん)において、長州藩の武士が襲撃した事件です。
これは、先述の1863年に起きた八月十八日の政変において、過激化した尊皇攘夷運動のメンバー達が京都から長州藩へと追放された後に起きた事件になります。
この「禁門の変」がきっかけで、長州藩は「天皇の敵」であることを意味する「朝敵(ちょうてき)」として認定されてしまいました。
これはとても不名誉なことであり、ひとたび朝敵認定された者は天皇の名のもとに殺されてしまうことになるわけです。
こうして朝敵認定をされてしまった長州藩に対して、天皇自らが幕府に対して「長州藩へ兵を送れ」という命令(勅令)を出し、第一次長州征伐につながっていくのです。

所郁太郎は翌年の1865年にチフスにかかってしまい、27歳の若さで死去してしまいました。山口県山口市の湯田温泉駅(ゆだおんせんえき)の北西には、彼のお墓があります。

まとめ:今回の内容を、年表にて整理

いかがだったでしょうか。今回の内容はちょっとわかりにくいところがあったと思うので、以下、年表にてまとめておきます!

  • 1838年 所郁太郎(ところ いくたろう)、美濃赤坂にて生まれる。
  • 1860年 所郁太郎、大阪市にある緒方洪庵適塾に入り、医学を学ぶ。
  • 1862年 所郁太郎、京都で医者として開業し、その時の患者だった長州藩の武士たちと仲良くなる。これがきっかけで長州藩に大変気に入られ、長州藩のリーダー・毛利氏とも会う。
  • 1863年 八月十八日の政変。過激化した尊皇攘夷運動のメンバーが、京都から長州藩へと追放される。所郁太郎もこれに付いて、山口県へと移住。山口県で医師として開業
  • 1864年 禁門の変。長州藩のメンバーが京都の朝廷を攻撃してしまったため、長州藩は朝敵認定されてしまう。
  • 1864年 第一次長州征伐。「禁門の変」の罪で朝敵認定された長州藩に対して、幕府が派兵。結果は長州藩が幕府に対して従順・穏便な対応を取ったため、大事にはならず、幕府の勝利ということで丸く収まる。しかし長州藩はこれ以降、「尊皇攘夷派」から「倒幕派」へと方針転換する。
  • 1864年 所郁太郎、第一次長州征伐において反対派に攻撃され重傷を負った井上馨を治療し、見事に命を救ってみせる。
  • 1865年 所郁太郎、チフスにかかり没する。享年27歳。
  • 1866年 第二次長州征伐。今度は長州藩の勝利、幕府の敗北。
  • 1867年 大政奉還江戸幕府の滅亡。
  • 1868年 戊辰戦争が終わり、明治時代のスタート。
  • 1872年 新橋~横浜間で、日本初の鉄道が開通。
  • 1889年 東海道本線が、新橋~神戸間全通
  • 1914年 東京駅開業。これにより、東海道本線の区間は東京駅~神戸駅に。
  • 1919年 大垣駅~美濃赤坂駅までを結ぶ東海道線の支線(通称:美濃赤坂線)が、金生山石灰石を運ぶ目的で開通。
  • 1928年 美濃赤坂駅からさらに北へ延びる西濃鉄道が、同じく金生山石灰石を運ぶ目的で開通。

今回はここまでです。

お疲れ様でした!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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