駿府(静岡市)の歴史と、駿府城跡の観光・歴史について、鉄道・観光・歴史に詳しくない方にも、わかりやすく解説してゆきます!
かつて駿河の府中(駿府)があった、静岡市
駿府城跡(静岡市)

駿府城跡(静岡県静岡市)
駿府城は、かつて静岡県静岡市葵区にあった城です。
かつて静岡市には駿河国の国府があったため、府中や駿府とも呼ばれました。
静岡市の基本的な知識については、こちらの記事(本サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
日本一大きい、葵区(あおいく)
駿府城跡が存在し、また静岡市の中心部も含む葵区は、静岡市の「区」の一つです。
葵区は、いわゆる「区」(政令指定都市の行政区)の中では、日本一の面積を誇ります。
その領域はめっちゃ広く、
- 静岡駅の南口から、
- はるか北・南アルプスの間ノ岳(あいのだけ:標高3190m・日本第4位)まで、
南北に非常に広範囲にまで至ります。
「葵(あおい)」とは、静岡市にゆかりある徳川家康のマーク(家紋)に由来します。
「駿府」としての静岡市
「駿河国」とは?
ここで駿河国とは、現在の静岡県中部~東部地域のことをいいます。
静岡県は他にも、
- 伊豆国(いずのくに):伊豆半島一帯の地域
- 遠江国(とおとうみのくに):静岡県西部の地域
となります。
このように静岡県には、かつて三つの国が存在していたわけです。そのため、静岡県は東西にとても広いわけです。
静岡市は、駿河国の中心地として栄えてきた歴史があるのでした。
遠江国(遠州)については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
伊豆国については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
「国府」とは?
ここで国府(こくふ)とは、その国の中心機関のことです。
国府は、現在でいうところの都道府県庁のようなものに該当します。
静岡市は、駿河国の国府が置かれてきた場所になるため、「駿府」「府中」などと呼ばれるわけです。
「国」とは
昔で言う「国」とは、いわば現代の都道府県のようなものでした。
また、国で一番偉い人は、国司と呼ばれました。
国司の権限は絶大的に大きく、朝廷に対してはノルマ的に一定の税金を送っておくだけでよかったのでした。
そのため、領地の人々からたくさん税金を搾り取るなどの横暴を働いてしまったために、しばしば農民たちから反感を買っていたのでした。
かつて駿河国にも、国司が存在しており、国の支配を行っていたのでした。
大御所政治の中心地に
江戸時代のはじめに、静岡市には駿府藩が置かれました。
しかし徳川家康が、江戸幕府がたってから間もない1605年に将軍を引退した後に、駿府城に入ってきたのでした。
このことに伴って、駿府藩はいったん廃藩となりました。
こうして静岡市は、江戸初期には引退した徳川家康がなおも存在感を発揮しつづけるという、いわゆる大御所政治(駿府政権)の中心地となっていったのでした。
徳川家康は、息子の秀忠に将軍の職を譲った後も、駿府において「大御所」として権力を振るったのでありました。
これは、まだ出来て間もなかった江戸幕府の基盤・ベースが整うまでの間、いわゆる「影の幕府」としての機能・役割を果たすという意味・目的もあったのでした。
後に紀州藩主になる、徳川頼宣が駿府に入ってきた
1609年に家康の十男・徳川頼宣が、駿河国に「新たな支配者」として入ってきたため、ここに駿府藩が4年ぶりに復活したのでした。
しかしこの当時は、家康が「大御所」として絶大な権限を誇っていたため、頼宣には実質的な権力は無かったのでした。
その後、頼宣は1619年になると和歌山へ人事異動(転封)となり、和歌山(紀州藩)の新たな支配者となったのでした。
それに伴い、駿府藩はまたまた廃止となってしまいました。
徳川頼宣および紀州藩については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
その後の駿府藩も、「復活」「廃止」を繰り返した やがて「直轄地」に
このように、何度か「廃止」「復活」を繰り返してきた駿府藩でしたが、その後も「復活」「廃止」が続きました。
- 1625年 再び駿府藩が復活
- 1633年 再々の駿府藩廃止
こうして1633年以降は、江戸幕府が滅んで明治維新が起きるまでは、幕府の直轄地となりました。
つまり「藩」がおかれることはなく、江戸幕府が直接支配する地域になったということです。
- 江戸に近いために、軍事的に重要視されたこと
- 偉大なる徳川家康が、晩年を過ごした重大な地ということ
などの理由により、静岡市の地は江戸幕府に重要視されたことが大きいでしょう。
「大御所」の比喩表現
「大御所」という言葉は、現在でも
のことをいう、いわゆる「比喩表現」としても使われます。
廃藩置県で、明治時代に「駿河府中藩」→「静岡藩」→「静岡県」に
江戸時代が終わって明治時代になると、再び駿河府中藩がおかれ、間もなく静岡藩に改称されたのでした。
理由は「府中」の文字が、偉い人の言うことをきかない「不忠」をイメージさせるため、この藩名はふさわしくないということで、駿府城のやや北にある賤機山から、静岡藩に名前を変えたのでした。
まず、明治時代のはじめの1871年に、廃藩置県が行われました。
このとき、駿府藩は廃止されてしまい、さらには静岡藩は静岡県に移行しました。
静岡藩は、徳川家達(いえさと)を藩主にしました。
本来は江戸幕府16代将軍になるはずだった、初代静岡藩主・徳川家達
こうして新しく静岡藩のトップとなった徳川家達は、もし江戸幕府が滅んでいなかったら、徳川慶喜の次の16代将軍になるはずだった人物です。
江戸幕府が滅んだため、将軍にはならず初代静岡藩主になったのでした。
静岡の由来・賤機山
静岡の由来は、先述の通り、駿府城の後ろにある賤機山にあるといわれています。
賤機山は、静岡県静岡市葵区にある山であす。
標高は、171mです。
山というよりも、少し「小高い丘(岡)」というイメージですかね。
これこそがまさに、「シズオカ」の「シズ」「丘・岡(オカ)」の由来といわれています。
先述の通り、「駿河府中藩」の府中が「不忠」を思わせるため、静岡藩になったのです。
「廃藩置県」は、強行的に行われた
このように、明治政府ははじめ、まるで江戸幕府の延長上のような感じで、「藩のトップ」を任せていたのでした。
しかし、それでは今までと何も変わらず、藩でバラバラに政治をやるという、江戸時代となんら変わらない状態が続いていたのでした。
しかし、これでは明治新政府が理想とする、中央集権国家は出来上がらないことになります。
そのため1871年、藩のトップを強制的に辞めさせ、全員が東京へ移住させられたのでした。
そして明治新政府が任命した新たなリーダーを派遣して、藩を廃止して、強制的に「県」を置いたのでした。
これが「廃藩置県」になります。
これだけ強制的に藩のトップを辞めさせたため、よく反乱が起こらなかったなぁ、って感じですよね。
しかし直前に起こった戊辰戦争で疲れきっていたため、藩にはもはや明治新政府に抵抗する力はなかったのでした。
「戊辰戦争」については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
家康が「駿府」(静岡市)を選んだ理由は?
ではなぜ家康が、駿府を大御所政治の拠点として選んだのかについてです。
理由にはいくつかあり、
- 東海道を自由に利用できる場所として(交通のメリット)、
- 江戸幕府の政策を、影から支援できる場所であるとして、
であることから、駿府を大御所政治の拠点として選んだと考えられています。
もちろん、家康が幼少期を過ごした、思い入れのある地だからというのもあったでしょう。
息子・秀忠に将軍職をゆずることで、「世襲であること」を世に示した
また、息子に早々と将軍職をゆずったのはなぜでしょうか。
江戸幕府では、将軍の職位が代々にわたって徳川家のみに世襲であることを、世の中に対して、早めに示す必要があったからでした。
逆に、なぜ「甲府」や「水戸」などを選ばなかったのか
てはなぜ、家康は「甲府」「水戸」などを選ばなかったのか。
どちらも江戸に近いため、選んでもおかしくなさそうな気はしますよね。
理由としては、やはり家康にとっては、
- 土地勘がないこと(馴染みの薄い地域であること)
- 地元の愛知県(三河国)・静岡県(駿府)から遠いこと
- 静岡の方が、温暖で過ごしやすいこと(甲府は盆地のため、気候が厳しい)
- 「熱海」など、家康がお気に入りの温泉から遠いこと
- 静岡の方が、「健康マニア」だった家康にとって、「駿河湾」「富士山」などの愛すべき自然が多かったこと
こうして並べてみると、家康の静岡に対する並々ならぬ愛着が伺えますね!
私も熱海・富士山・駿河湾はとても好きなので、家康の気持ちはなんとなくわかるような気がします!
駿府の歴史(室町時代~安土桃山時代)
今川館時代

駿府城跡(静岡県静岡市)
14世紀に、今川氏は室町幕府によって、駿河守護に任命されたのでした。
この地には今川館が築かれ、今川領国支配の中心地となっていたのでした。
守護とは?
室町幕府における守護とは、
- 地方の治安を維持していくこと
- 武士の統制にあたり、武士たちをまとめていくこと
を主な仕事内容としていた官僚(つまり、お偉いさん)のことです。
つまり今でいう、県知事のような存在でした。
元々存在していた国司と「二重支配」だった
室町時代、守護はかつての鎌倉幕府の組織体制を踏襲して(みならって)任命されました。
鎌倉時代にも、駿河国には「守護」がおかれていました。
鎌倉時代、守護はかつて平安時代に存在した国司といっしょに、「国(領国)」を支配していたのでした。
つまり国司と守護は、いわゆる二重支配だったのでした。
守護の役割
鎌倉時代におかれた守護とは、たとえば以下のような役割がありました。
- 軍事・警察権を中心に、諸国の治安・警備にあたった。
- 国衙(国府)の役人(在庁している官人)をも指揮していた。
つまり、貴族を武士が指揮していたということになります。
「桶狭間の戦い」で、今川義元が戦死 駿府はフリー状態に
話を元に戻します。
1536年、今川義元が今川館の主(支配者)となったのでした。
こうして、駿府の地は今川氏の天下となっていったのでした。
しかし1560年の「桶狭間の戦い」で、今川義元は織田信長に敗れてしまい、戦死してしまします。
これにより、今川氏の勢力は急速に衰えてゆきます。
こうなると、もはや駿河を支配するトップもいなくなってゆきます。
まとめる人・カリスマがいなくなっていくため、動乱がおきるようになります。
そんな混乱に乗じて、山梨県を支配していた武田信玄が攻めてくるようになります。
武田信玄による駿河侵攻 駿府は武田のものに
1568年、武田信玄が駿河侵攻をしかけていったことによって、駿府にあった今川館は焼失してしまったのでした。
武田信玄は、駿河侵攻のときには、薩埵峠を通ってせめてきたのでした。
「薩埵峠の戦い」について詳しくは、こちらの記事(当サイト)をご覧ください。
武田氏の領国となった駿府
今川氏が滅び、駿河国が「武田氏の領国」となると、駿府城は武田氏がこれから駿河国を支配していくための、拠点のひとつとなりました。
武田氏の滅亡
しかし、武田氏は1582年に織田・徳川勢力により、滅亡してしまいました。
武田氏の滅亡については、こちらの記事(当サイト)をご覧ください。
そして、駿河の残った武田領は、徳川家康が代わって領有したのでした。
徳川家康によりバージョンアップした、駿府城
1585年から徳川家康により、駿府城は近世城郭として築城し、
より新しくバージョンアップして直されたのでした。
家康が、浜松から駿府に移る
そして翌1586年に家康が、自身が17年過ごした遠江国・浜松城から、駿府城に移ったのでした。
その後、関東へ移る
その後1590年、豊臣秀吉によって関東地方の後北条氏が滅亡してしまったことに伴って、家康の関東移封(人事異動のようなもの)が行われたのでした。
後北条氏の滅亡については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
そうして徳川家康は、いったん駿府を去ることになったのでした。
そして「関ヶ原の戦い」で勝利した徳川家康は、1603年に江戸幕府を開くことになるのです。
江戸時代の駿府
徳川秀忠に将軍職を譲る
江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、駿府に隠居したのでした。
つまり、再び駿府(静岡市)へ戻ってきたことになりますね。
隠居とは?
隠居(いんきょ)とは、 「職を辞めて世間から身を引き、気ままに暮らす」というような意味で用いられます。
例えば、それまであった立場を他人に譲り、または官職を退いて、悠々自適な生活を送る、などといった言葉です。
会社で例えると、現役社長の座を後任者にをゆずって、その後は静かな場所で、余生を過ごすわけですね。
しかし、なおも新しい社長に対して指示を行っていたとしたら、それはまさに「大御所政治」ともいえるでしょう。
駿府藩の「廃藩」
このように、江戸時代はじめの1605年に、徳川家康が大御所となったことにより、駿府藩は、一時的に廃藩となったのでした。
大御所政治時代
将軍の職を引退してもなお政治的影響力を持ち続けた家康は、「大御所(おおごしょ)」と呼ばれたのでした。
このとき駿府城は、いわゆる天下普請(強制お手伝い)によって大修築(バージョンアップ)されてゆき、ほぼ現在の形のお城が完成したのでした。
天下普請とは
天下普請(てんかぶしん)とは、江戸幕府が全国の大名に命令して、大規模な土木工事を手伝わせたことをいいます。
しかも費用は完全に「自腹」であり、建設に必要な材料費や人件費などは、みんな大名もちにさせたのだといいます。
もちろん、これは後述するように「意味のある嫌がらせ」のようなものです。
例えば、大名に対して
- 城を建築すること
- 道路・河川工事などの、いわゆるインフラ整備
などをやらせたことが、これに該当します。
なぜ「天下普請」をさせたのか
これには、各地の不平不満を持った大名たちが江戸幕府に対して反乱を起こしてこないように、わざと大量にお金を使わせて、大名の勢力を削ぐ目的もあったと考えられています。
1607年に、城内からの失火により、完成して間もない本丸御殿を焼失してしまいました。
しかしその後すぐに、再建のための工事が開始され、1610年には再び完成したのでした。
なぜ昔の城は、何度も燃えてしまっていたのか
昔の城が結構な回数で燃えてしまった原因としては、
- 放火(恨みを持った誰かが、わざと燃やす)
- 木造建築によることの脆弱性
などが挙げられます。
昔の建物は、「耐火性能」で劣っていた
昔の家は現代と比べてとても燃えやすく、風などちょっとした摩擦などで、すぐに燃え移ったりしていたのでした。
現代の建物は「耐火性能」「防火技術」に優れているため、昔に比べたら火災に強い構造になっています(※)
※それでも、「火の用心」に越したことはありません。日頃から油断しないようにしたいものです。
そんな火災に乗じて、これチャンスといわんばかりに、「火事場泥棒」が横行していたりもしたのでした。
「火事場泥棒」とは、火事や災害などによって人々が混乱し、注意が反れてしまう状況を利用して、盗みを働く者のことをいいます。
また、この意味が転じて、物事が混乱している状況を悪用して、不正な利益を得ようとする「フトドキモノ(不届者)」を指す比喩表現でもあります。
エライ人が住んでいた「本丸御殿」
本丸御殿(ほんまるごてん)とは、日本の城の中心である「本丸」に建てられた屋敷のことです。つまり、お偉いさんの武士たちが住むような場所になります。
そして、このお偉いさんたちをより高い建物で見下ろすことは、まさに無礼・ご法度だったのでした。
そこには、城のトップである主や、藩のトップである藩主が、政治の話し合いなどをやるための政務や会見、そして藩のトップの偉い武士たちが日常生活などを行っていた建物になります。
「伊豆石」が使われた駿府城
駿府城を建てるときには、「伊豆石」という、伊豆半島から出てくる石材も使用されたのでした。
それは、伊豆地方にあたる沼津市・井田という地域から出てきた、江戸時代の記録に、その事実(つまり、駿府城に伊豆石が使われてきたこと)が記載されているというのです。
その記録(文書)によれば、江戸城・駿府城の建設のために、かつて伊豆地方に石を切り出していた公(おおやけ)の石丁場が所在した、という記録が残っているわけです。
「丁場」とは、いわゆる作業現場のことです。
つまり、石を切り出すための作業を行う場所であり、またそれを行う人たちが働いていた場所でもあります。
すなわち、石丁場(いしちょうば)とは、石を割ったり、加工をしたりするための場所という意味になります。
自然の石のままでは、まるでゴツゴツして使い物にならないため、きちんと「材料」として使える形に整えてあげる、という仕事をやっていたわけですね。
静岡市の駿府城には、まさしく伊豆石が使用されていたのでした。
主に、火山のマグマが冷えて固まった安山岩系の石が使われていました。
江戸城にも「伊豆石」は使われてきた
また、江戸城の石垣にも、伊豆半島から切り出された伊豆石が広く使われていたのでした。
特に、徳川家康が江戸城を大規模に改修(バージョンアップ)させたときに、その石垣のほとんどの部分に伊豆石が用いられたのでした。
伊豆石は、切ったりする加工がやりやすく、燃えにくい「耐火性」に優れていたのでした。
そのため、お城の石垣に使うのには最適な石材として、とても重宝されたのでした。
伊豆はじめ、日本に多く存在する「安山岩」
伊豆石にも多くみられる安山岩(あんざんがん)は、火山のマグマが、急激にで冷えて固まった岩石です。
日本でも多く存在しています。
伊豆半島は火山がとても多いため、安山岩が多いものと考えられます。
安山岩とは何か?について詳しくは、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
伊豆石の特性
伊豆石(いずいし)には、
- 燃えにくい性質である「耐火性」に優れている
- 風でさらされてたとしても強い(風化しにくい)
という特徴があります。
おわりに:徳川家康は、どんな気持ちで余生を過ごしたのか?
以上、徳川家康が晩年を過ごした駿府と、また駿府城の歴史について語ってきました!
あなたが今度静岡市を訪れたときには、
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