鉄道唱歌 山陽・九州編 第47番 かつて栄えた、都府楼跡(大宰府政庁跡)を訪ねる

まずは原文から!

一時(いちじ)榮(さか)えし都府樓(とふろう)の
あとをたづねて分け入れば
草葉(くさば)をわたる春風(はるかぜ)に
なびく菫(すみれ)の三(み)つ五(いつ)つ

さらに読みやすく!

一時(いちじ)栄えし都府楼(とふろう)の
あとをたずねて分け入れば
草葉(くさば)をわたる春風(はるかぜ)に
なびく菫(すみれ)の三(み)つ五(いつ)つ

さあ、歌ってみよう!

♪いーちじさかえし とふろうのー
♪あーとをたずねて わけいればー
♪くさばをわーたる はるかぜにー
♪なーびくすみれの みついつつー

都府楼(とふろう)とは、いわゆる大宰府政庁(だざいふせいちょう)のことで、約1000年もの昔から九州の外国からの玄関口として、また外国からの防御の要として、ここに置かれていた政治機関のことです。

西鉄線・都府楼前駅(福岡県太宰府市)

当時、つまり飛鳥時代には、朝鮮半島における白村江の戦い(はくすんこうのたたかい)などで日本も巻き添えを食らう恐れがあったため、当時最も日本で外国に近かった福岡県あたりの防衛を固める必要がありました。

都府楼跡(大宰府政庁跡) (福岡県太宰府市)

しかし、当時は海沿いの地域はセキュリティ的に弱いとされており、やや内陸部や盆地の方が防御力が高いと考えられていました。
大宰府が海沿いではなく、やや内陸部に存在しているのはそのためです。
また、京都や奈良といった都も、やや内陸部や盆地に存在しているのもそのためです。

そして、「大野城」などのあった山も、巨大な濠(ほり)などの防壁を築く技術が無かった時代には防御の拠点として利用・活用されてきたのでした。

また、都府楼(とふろう)ないし大宰府政庁は、外国人からの玄関口として、外国の偉い人達、つまり国賓(こくひん)を招いて豪華にもてなすための、いわゆる「迎賓館(げいひんかん)」の役割も果たしました。

外国に近く最も攻められやすい地域ということは、逆にいえば当時の外国人にとっては日本の玄関口でもあるわけです。
大宰府は、そのような役割も果たしてきたわけです。

都府楼跡(大宰府政庁跡) (福岡県太宰府市)

現代の都府楼跡大宰府政庁跡)は、公園のようになっていて、とても広い敷地に緑に囲まれた癒やしのスポットのようになっています。また、「令和」という元号の由来にもなった、坂本八幡宮(さかもとはちまんぐう)もここにあります。

歌詞にある
草葉をわたる春風に なびく菫(すみれ)の三つ五つ

について、ここで「草葉(くさば)」や「(すみれ)」とは、ここ政庁跡の広大な敷地に吹く春風になびく草葉やすみれのことをいうのだと思います。

1000年前にはここに政庁があり、また菅原道真(すがわらのみちざね)公もここにやってきた。
しかし今となっては広大な敷地に草葉すみれが残るだけであり、それが春風によって吹かれてなびいてるだけとなったのだなぁ、という感慨深い気持ちを表しているのだろうと思います。
なんだか切ないですよね。

長かった大宰府シリーズ編も、ようやく次で最後になります!最後まで気を抜かず勉強していきましょう。

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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