蒲郡市(愛知県)の観光と歴史を、わかりやすく解説してゆきます!
今回は主に、江戸時代~現代の蒲郡について解説してゆきます!

蒲郡の海と竹島(愛知県蒲郡市)
今回は、蒲郡市・江戸時代~現代までの歴史
前回では、主に平安時代から戦国時代までの歴史について語ってきました。
今回は主に、江戸時代から現代にかけての歴史について語っていきます。
できれば前回の記事を全部見てほしいところですが、今回はところどころで、このように注釈のリンク(前回の記事)を入れてゆきます。
なので、リンク先も参考にしながら、読み進めて行ってもらえればと思います。
江戸時代の蒲郡
江戸時代になると、現在の蒲郡駅の北の地域にあたる蒲形に町ができてゆきました。
そして、蒲郡の地は西郡と呼ばれていた時期があったのでした。
なぜ西郡なのかというと、三河地方(前回解説)の西側にあったからです。
蒲形とは、前回も解説した通り、かつて平安時代に藤原俊成が整備した、現在の蒲郡駅の北にある、荘園があった場所のことをいいます。
先述の通り、蒲郡駅のやや北のエリアを、蒲形といいます。
かつては現在と違い、この蒲形こそが、蒲郡の中心地だったのでした。
かつて荘園があった、蒲形エリア
この蒲郡駅よりも北の一帯エリアは、かつて平安時代に藤原俊成によって整備された、
- 「蒲形荘」
という荘園として知られていました。
こちらは前回も解説した通りです。
つまり平安時代には荘園と呼ばれる、大きな農園・田んぼが、そこに存在したわけです。
現在の蒲郡市役所は、やや西に存在
一方、現在の蒲郡市役所は、やや西にあります。
そのため、当時と現在では、蒲郡市の中心地は異なっているわけですね。
このように、現在の蒲郡市役所はやや西寄りに位置しているため、現代では市役所周辺の地域が、蒲郡市の中心となっていると言えます。
全国的には、
ということが多いため、蒲郡市の場合はちょっと珍しいと感じています。
他地域において、城の近くに市役所が多くなる理由
なお全国的に「城の近くに市役所がある」という理由は、
- 廃藩置県によって、
- かつての藩庁(藩の中心地)が置かれた場所が、
- そのまま県庁や市役所になったという例が多いから
になります。
江戸時代には多くが旗本・寺社領だった蒲郡
現在の蒲郡市の多くは、江戸時代には
- 旗本領
- 寺社領
でした。
以下、詳しく見てゆきましょう。
「旗本」とは?
ここで旗本とは、江戸時代、将軍に直接会う(謁見する)ことができたお偉いさんのことを言います。
一方、直接将軍に会うことができない(お目見えができない)武士のことを、御家人と言いました。
とにかく平等とは程遠かった、封建社会の江戸時代
江戸時代は、たとえ同じ武士であっても身分の差があったのでした。
江戸時代は、常に「誰かが誰かの管理下(下の身分)にある」という、いわゆる封建社会でした。
そのため、たとえ同じ武士であっても、上級武士と下級武士に分かれていたりして、お互いに平等ではなかったのでした。
唯一言えるのは、江戸時代は将軍様が一番偉かった、というだけです。
話がズレましたが、江戸時代において旗本領は、西日本よりも
- 東日本
- 特に、江戸とその周辺の地域
に、多く分布していたと言えます。
お城より小さい「蒲形陣屋」
話を戻します。
蒲郡には、かつて蒲形陣屋という陣屋がありました。
江戸時代はじめの1612年に、竹谷松平家が、蒲郡駅のやや北の位置に築いたものです。
竹谷松平家は、最高で3万石の石高でしたが、お城を持つことはできませんでした。一般的に、城を持つためには、それなりの石高が必要でした。
一般的には、3万石程度では、城を持つことは難しかったようです。
一般的に、3万石程度の石高では、城を維持するための費用をまかなうのが難しかったのでした。
そのため、城を持つことができなかったのでした。
石高とは何か?については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
「陣屋」とは?
ここで陣屋とは、江戸時代の藩庁(今でいう、市役所や県庁のようなもの)が置かれた、武士のお偉いさんたちが住むお屋敷のことです。
三万石以下の大名は、お城ではなく「陣屋」を構えた
先述の通り、江戸時代は、3万石以下の石高しか持っていない大名は、お城を持てなかったのでした。
そのため、そうした大名たちが、陣屋を持つことになったのでした。
寺社領とは?
寺社領は、お寺や神社が、それらを維持・運営をしていくために設置された土地です。
寺社とは、いわゆる「お寺」と「神社」のことです。
江戸時代の「寺請制度」とは
江戸時代は、キリスト教の信仰を禁じるため、すべての人がいずれかの仏教宗派の檀家となることが義務付けられました。
これを寺請制度といいます。
寺請制度は、キリスト教の禁止を徹底するため、キリスト教徒ではないことを証明するための制度でした。
寺請制度では、お寺は
- 人々の管理(キリスト教徒ではないか?)
- 身分証明(キリスト教徒でないことの証明)
を行う、という役割がありました。
幕府の徹底ぶりが伺えます。
「お寺」と「神社」の違い
お寺と神社には、以下のような違いがあります。
お寺:
- 538年に大陸から入ってきた宗教である、仏教の宗教施設のことをいいます。
- 仏像や曼荼羅(※)などが祀られています。
- 修行するための僧侶が住み、和尚さんが仏教の教えを説くための場所です。
- お経を唱えたり、法要(法事などの行事)を行ったりします。
- 参拝のときには、合掌して、一礼をするのが一般的です。
※曼陀羅(まんだら)とは、仏教の悟りの境地を描いた絵のことを言います。
神社:
- 日本のオリジナルの宗教である、神道の宗教施設のことです。
- いわゆる「神様」が祀られています。神社で祀られてる神様は、大国主やスサノオなど、数々です。
- 鳥居があるのが特徴です。
- 参拝のときには、二礼・二拍手・一礼の動作・作法が基本です。
お寺や神社も、会社と同じように、建物の維持費や、人件費もかかってきます。
江戸時代はキリスト教を禁止し、仏教・お寺を優遇した
先述の通り、江戸時代はキリスト教は禁止されていたため、幕府はあえてお寺をサポートし、また優遇措置を取りました。
幕府は寺請制度を設け、これによって
- お寺は、人々の身分を証明する役割を担うことになった
- 幕府は、キリスト教徒を監視・管理した
のでした。
この制度により、人々はキリスト教徒ではないことを、お寺から証明してもらう必要があったのでした。
これにより、幕府は寺院(お寺)を通じて、キリスト教が広まっていないかを、監視することができたのでした。
また、九州などのようなキリスト教徒が多い地域では、踏み絵によってキリスト教徒ではないことを確認しました。
九州とキリスト教の歴史については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

お寺にとって大切・重要な収入源「お布施」
また寺請制度において、お寺は、檀家からお布施を受け取り、葬儀や法事といった行事を取り仕切る、ということを行ったのでした。
お布施(ふせ)とは、お寺の重要や収入源の一つです。
例えば、葬儀や法事などといった行事において、感謝の気持ちを表すために渡すお金のことです。
ここだけ聞くと「料金」ともいえますが、あくまで仏教の行事への感謝なので、「サービスの対価」という言葉はあまり相応しくないでしょう。
寺請制度がきっかけで、お寺と幕府の基盤は安定した
ともあれ、この寺請制度により、お寺には安定的に収入が入ってくることになります。
- 幕府はキリスト教を禁止したい
- そのため、すべての国民を、お寺のお世話になるように義務づける
- そのために、お寺には「葬儀」「法要」などで、安定的に収入が入ってくるようになる
- 結果、キリスト教を抑制できる
- 結果、幕府の体制が安定する
こうした幕府からのサポートにより、江戸時代のお寺は、安定的・経済的な基盤を確立できていったのでした。
江戸時代、お寺は年貢を免除されることがあった
江戸時代には、将軍が出した朱印状によって、お寺の持っている領地の年貢が免除されたりしたのでした。
お寺は宗教施設であり、
- 仏教の布教
- 人々の心の拠り所としての役割
- 国家や領主にとっては、支配を安定させるための手段
としても利用されました。
そのため、年貢を免除することで、
- お寺・神社の経済的な基盤を安定させた(安定運営ができるようにした)
- 結果的に、キリスト教を禁止して、幕府の支配体制を強化しようとした
というわけです。
江戸時代の産業
江戸時代の蒲郡では、三河木綿の栽培が盛んになったのでした。
木綿は、主に布や着物などに使われてきました。
三河地方の温暖な気候は、綿の栽培に適していました。
温暖なため、霜が降りるほどの低温になりにくいわけです。
綿は霜に弱く、霜が多いと枯れてしまうという弱点があります。
そのため、蒲郡をはじめとする三河地方は、冬でも霜が降りる事が少ない温暖な気候であるため、霜に弱い綿花の栽培に適していた、というわけです。
また、天竜川からの豊富な水資源に恵まれていたことも、三河木綿にとっては適していました。
綿花の栽培には、大量の水が必要となるわけです。
三河木綿とは?
ここで三河木綿とは、三河地方で作られる織物のことです。
つまり昔の布・着物のことです。
江戸時代になってから、徳川家による全面サポート(お金を出したり、宣伝したりなど)のもとに、三河木綿は全国的に知られる存在となっていったのでした。
三河木綿は、東海道を行きかう旅人たちに、土産としてたくさん買われていた
三河木綿は、かつて江戸時代に東海道を行きかう旅人たちにとって、人気のお土産となりました。
特に、有松絞りの模様が施された「手ぬぐい」は、
- 旅の記念品
- 贈り物
として、旅人たちからたくさん購入されたのでした。
布に対して、高級な模様をつける「有松絞り」
有松絞りは、布に対して、模様をつけるための技術です。
有松絞りは、布に対して、高級・オシャレな模様を出すための技法の一種です。
模様には、見る人の目を引き、布の魅力を高めるという役割・メリットがあります。
この「模様をつける」ための技法によって、布に対してさまざまなバリエーションの柄や模様が表現されるというわけです。
有松絞りと鳴海絞りについては、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
大戦中・空襲
第二次世界大戦中、学徒勤労動員が行われたのでした。
これにより、蒲郡に住む若い男子の多くが豊川海軍工廠に動員されたのでした。
学徒勤労動員とは
学徒勤労動員とは、太平洋戦争中に、
- 戦時中の労働力の不足を補うために、
- 中等学校以上の学生・生徒を、
- 学校での勉強を中断して、
- 農村や工場に、強制的に動員する制度
のことです。
戦時中は、若い男性はみんな兵隊に行ってしまうため、工場などでは労働力が不足していたのでした。
そのため、学校の授業を中断して、学徒を軍需工場や農作業に動員したわけです。
さらに、この労働力不足を補うため、それまで男性が担っていた仕事に対して、女性が進出するようになりました。
豊川海軍工廠とは
豊川海軍工廠とは、愛知県豊川市にあった日本海軍の工廠(※)です。
※工廠:陸海軍における、武器などの軍需品を製造するための工場のことです。
ここでは、主に武器となる、機銃・弾丸の製造を行っていたのでした。
豊川海軍工廠は、太平洋戦争中には「東洋一の規模」を誇る、巨大な海軍の兵器工場として知られていました。
特に、機関銃やその弾薬の生産において、中心的な役割を果たしたのでした。
また、最終的には従業員数56,000人を超えるほどの、まさしく東洋一の規模に成長しました。
戦時中の日本の人口は約7,000万人でしたから、現在の規模感覚よりも大きいことがわかります。
また、大阪砲兵工廠も「アジア最大級の軍需工場」と呼ばれていました。
ここでは、主に大砲や戦車などといった、大型の兵器を製造していたのでした。
蒲郡市は、
- 「岡崎空襲」
- 「豊川空襲」
のような戦禍は(戦争被害・空襲は)、被ることはなかったのでした。
三河地震
しかし、大戦末期の1945年1月13日に発生した三河地震では、形原町(※)を中心に、大きな被害を受けたのでした。
※形原町:蒲郡駅の、やや南西の地域。
それだけ甚大な被害が出たにもかかわらず、軍部による情報統制により、被害状況が隠蔽されてしまったのでした。
そのため、国などによる救援活動も、小規模なものが行われた以外は、まともには行われなかったのでした。
太平洋戦争中は、情報統制のため、地震が起きてもまともに報道されなかった
この地震が発生した当時は、太平洋戦争中だったのでした。
しかも戦争末期で、日本の戦局がかなり不利だった時期でした。
そのため、
- 国民の戦意を低下させないため
- 軍需工場への被害の情報を伏せるため。また、それが敵へバレるといった情報流出も、作戦へと影響するため
などといった理由で、日本政府によって情報統制がなされたのでした。
このために、地震発生の報道自体はなされたものの、被害規模やその後の状況などはまともに報道されず、多くの情報が伏せられたのでした。
太平洋戦争中は、国民の意欲を下げるのを防ぐため、日本軍の敗退の報道は規制されたのでした。
しかしそれだけでなく、災害のニュースも報じられなかったのでした。
天気予報すら規制され、台風被害を増大させた
それどころか、太平洋戦争中は天気予報ですら、報道が規制されたのでした。
それは、敵に天候といった情報がバレるとマズいという理由からでした。
しかこの報道規制により、台風などによる被害を拡大させる、一つの要因になったとも言われています。
太平洋戦争中は、このように軍の命令で天気予報が放送されなくなったため、台風による被害が増加した、という側面があります。
そのため戦時中は、自然現象と経験則を頼りに天気を予測する「観天望気」に頼るしかありませんでした。
しかし、この観天望気は精度が低く、台風のような大規模な自然災害に対しては、予測がなかなか難しかったのでした。
蒲郡の海に浮かぶ、竹島

蒲郡の海に浮かぶ竹島(愛知県蒲郡市)
竹島は、蒲郡市・三河湾に浮かぶ無人島です。
かつて、先述の蒲郡の偉人である藤原俊成が、滋賀県の琵琶湖から竹を持ち帰り、その竹を島に植えたのだとされています。
これが、「竹島」という地名の由来と考えられています。
ちなみに対岸(本土)とは、竹島橋によって結ばれています。
1986年に、新しく長さ387メートルの竹島橋が架けられたのでした。
八百富神社(やおとみじんじゃ)
竹島には、海を守るための神様である市杵島姫命を祀る、八百富神社が存在します。
平安時代終わりに藤原俊成が、びわこの
竹生島より神様(イチキシマヒメ)をお招きして、創立されたとされています。
歴史の重要人物も、八百富神社を参拝した
あの徳川家康も八百富神社に参詣し、4石8斗を寄進したのでした。
また、かつてこの地方の領主(リーダー)であった松平氏は、お正月に江戸への出立・帰郷をしたときには、必ず八百富神社へと参拝したといいます。
このように八百富神社は、古くから多くの重要人物からも信仰を集めてきたのでした。
現代の蒲郡市の魅力
自然豊かな蒲郡市
蒲郡市は、
- 三河湾(みかわわん)
- 山
- 川
などに囲まれているため、自然にあふれる生活が楽しめます。
都会へのアクセスも抜群な蒲郡市
それに加え、蒲郡駅は新快速列車が止まるため、名古屋や豊橋へのアクセスも抜群です。
- 名古屋駅まで約40分
- 豊橋駅まで約20分
と、短時間で移動できます。
そのため、蒲郡市は、名古屋や豊橋への通勤・通学(ベッドタウン)、または旅行の拠点として、とても便利な街といえるでしょう。
実際に蒲郡市では、特に名古屋市への通勤・通学者が多いため、名古屋のベッドタウンとしても認識されています。
蒲郡市の移住者支援
近年では、全国的に多くの自治体により、移住支援のための取り組みが活発になってきています。
もちろん蒲郡市もその例外ではなく、移住者向けの支援制度も充実してきています。
これにより、自然豊かな環境での生活をしたいという人にとっては、とても魅力的な選択肢となります。
個人的には、
- 海などの自然が多い
- 温暖で気候も良い
- 都会へのアクセスも良い
- 買い物・生活にも便利
であることから、蒲郡市への移住はかなり良いのではないかと思っています!
近年の多くの自治体による、移住者誘致施策の数々
近年は多くの自治体が移住者誘致に力を入れており、
- 移住相談窓口の設置
- 移住体験ツアー
- 経済的(金銭面)な支援
- 起業や、事務所移転のための費用を補助
- 短期移住体験
などといった、様々な施策を打ち出してきています。
温泉・みかん・海の幸も豊富な蒲郡市
さらに蒲郡市では、
- 新鮮な海の幸(三河湾でたっぷり取れる、蒲郡のおいしいお魚)
- 蒲郡みかん:温暖な環境に恵まれているために育つみかん
などといった特産品を味わえます。
蒲郡は、温泉地としても知られており、リラックスできる環境も魅力です。
このように蒲郡は、自然と都会の両方の魅力を兼ね備えた、魅力的な街であると言えるでしょう。
蒲郡市の温泉郷・三谷温泉
蒲郡の三谷温泉は、美しい肌の効果が期待できる、「美白泉」が特徴です。
1200年以上の歴史があり、奈良時代に行基さんによって発見されたと伝えられています。
行基さんによって発見された温泉には、他にも
- 山中温泉(石川県・加賀温泉の一つ)
などの温泉地があります。
行基さんについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

蒲郡市の今後の課題
蒲郡市はその一方で、
- 人口減少
- 高齢化
が進行しており、課題となっています。
そのため、地域経済の衰退や、労働力の不足が懸念されています。
もちろんこうした少子高齢化の問題は、全国の各都市にも言えることなのです。
以上・今回はここまで
以上、前回と今回で2回にわたって、蒲郡の歴史について解説してきました。
その土地の歴史について理解しておけば、観光もより奥が深く、見方も変わって、さらに面白いものとなるでしょう。
もちろん、地理が歴史などの知識がなくても、蒲郡はとても海が綺麗な場所ですので、海の景色に癒されるだけでも、十分充実した観光になることと思います。
それでは、今回はここまでです。
お疲れ様でした!
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