甲州街道について、わかりやすく解説!【後編】

甲州街道について、その基本から歴史までわかりやすく解説します!
かつて甲州街道で江戸などに運ばれた名産品等について、深く探求してゆきましょう!

  1. 今回は、かつて甲州街道で運ばれた「名産品」について
  2. 甲州街道で運ばれた、甲斐国の絹・生糸
    1. 郡内地方(山梨県東部)の「織物」「生糸」
      1. 「郡内縞」(ぐんないじま)
      2. 郡内の「郡」と都留郡
      3. ​生糸・織物と昔の和服
      4. ​高価な絹織物
    2. ​桂川の水運ルートと、甲州街道の比較
      1. 桂川(相模川)について
      2. ​水上ルートでの輸送には向いていなかった桂川
      3. 結局、陸路(甲州街道)での輸送の方が適していた
  3. ​甲斐国の金山と、江戸の財源
    1. 江戸時代の甲府統治と金山
      1. 幕府が直轄地とする主な理由
      2. 江戸幕府は、甲斐金山を徹底管理した
  4. かつての諏訪方面への近道は?
    1. 諏訪へのルート:​信越本線開通と、中山道の和田峠越え
      1. 難所の和田峠+鉄道(信越本線)の組み合わせで、諏訪湖へ至っていた
    2. ​中央線全通による、さらなる短縮
  5. 甲州街道・大月宿
    1. 富士山や河口湖へのアクセス拠点
  6. 甲州街道・​笹子峠
    1. 笹子峠は、当時から甲州街道の難所だった?
  7. 甲州街道で運ばれた名物「​水晶」
    1. 水晶は、山梨県・昇仙峡の名物?
      1. 甲府市あたりでよく磨かれた水晶
      2. ​なぜ昇仙峡は水晶が盛ん?
    2. 甲州街道で運ばれた​水晶は、江戸で珍重された?
  8. ​現在の甲州街道の様子と、宿場町の面影
  9. ​リニア中央新幹線は「未来の甲州街道」?
  10. おわりに・まとめ(甲州街道)

今回は、かつて甲州街道で運ばれた「名産品」について

前回に引き続き、今回は、かつて甲州街道で運ばれた「名産品」について解説してゆきます!

そもそも「甲州街道って何?」など基本的なことは、以下の前回の記事で解説していますので、ご覧ください

甲州街道について、わかりやすく解説!【前編】
甲州街道について、その基本から歴史までわかりやすく解説します!なぜ衰退したのか?今はどうなってる?について深く探求してゆきましょう!​甲州街道の学びを始める「はじめに」​今回から全2回にわたって、現在の中央線の元祖ともいうべき江戸時代の道路...

甲州街道で運ばれた、甲斐国の絹・生糸

甲州街道によって江戸(東京)まで運ばれたものには、甲斐国のきぬ​や生糸きいとといった、昔の日本の和服材料となったものがあります。
そして、これらの名産品の中には、特に江戸では珍しかった、質の高いものが多くありました。

郡内地方(山梨県東部)の「織物」「生糸」

​特に、現在の山梨県東部にあたる​郡内ぐんない地方(現在の富士吉田市ふじよしだしあたり)においては、古くから

  • 生糸を生み出す幼虫・カイコを育てる養蚕ようさんと、
  • 甲斐絹織かいきぬおりと呼ばれる織物おりもの

などが、それぞれ盛んだったわけです。

富士吉田市ふじよしだし:山梨県の南東部にある、富士山の北部のふもとに広がる都市です。
古くから富士山信仰の町として栄え、海抜約750mという東京スカイツリーよりも高い位置するという高原都市です。

「郡内縞」(ぐんないじま)

​​具体的には、先述の甲斐絹織に加えて、「​郡内縞ぐんないじま」と呼ばれる、丈夫でとても美しい絹織物きぬおりものが有名でした。

​したがって、これらの高級織物やその原料である生糸は、江戸ではまず手に入らないため、江戸のお金持ち・富裕層や武士といった人々によって、珍重ちんちょうされることになりました。

珍重ちんちょう:珍しいものとして、大切にされることです。

すなわち、郡内縞・甲斐絹織などは、この地域にとって、重要な収入源となるべき交易品こうえきひんとして、江戸へと運ばれたわけです。

​​郡内縞ぐんないじま:山梨県富士吉田市周辺で生産される、縞模様しまもようが特徴の絹織物。

交易品こうえきひん:売って金になるほど価値のある品物を、互いに交換するというトレード行為(交易)において扱われる品物のことを指します。

郡内の「郡」と都留郡

​ここで「郡内ぐんない」とは、甲斐国かいのくにの東部、現在の山梨県東部あたりのエリアを指す地域名です。

​すなわち、この「」は、かつての​都留郡つるぐんのことを意味しています。
これは、都留つるを中心とする地域で、古くからそのように呼ばれていました。

​​都留郡つるぐん:かつての甲斐国にあった郡の一つで、現在の都留市つるし富士吉田市ふじよしだしなどを含む地域。

都留郡については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

中央線鉄道唱歌 第12番 五百里の深い山々を過ぎゆく 都留地域は甲斐絹織の名産地
中央線鉄道唱歌の歌詞を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

したがって、甲斐国の他の地域(主に甲府盆地こうふぼんちを中心とする地域)と区別するために、山梨県東部では「郡内」という名称が使われていたわけですね。

​生糸・織物と昔の和服

​甲斐国の生糸絹織物は、昔の和服には不可欠なものだったのでした。

つまり、歴史的に山梨県のこのあたりで作られてきた高品質な絹は、高級着物の素材として、江戸で珍重され(購入され)たのでした。

​したがって、甲州街道を通って江戸に運ばれたこれらの織物は、人々の衣服文化(今でいうところのファッションコーディネート)を支えるための、重要な特産品だったと言えますね。
すなわち、これらも地元住民の皆さんにとっての、貴重な収入源だったというわけです。

​高価な絹織物

​昔の絹織物は、大量生産がとても難しかったのでした。
それは現在のように機械を使って行うものではなく、職人さんたちの手によって「手作り」で行われていたかでした。
そのため、一般の庶民にとっては買いづらい、非常に高価なものでした。

​すなわち、生糸の生産から、織るまでの工程に手間がかかる上に、街道を通る運送コストもかかっていたのでした。
そりゃ確かに、険しい山道を通って運ばれるわけなので、ある意味仕方なかっまのかもしれません。

したがって、武士貴族、そして裕福な商人といった、上層の人々の高級な衣装として主に使われていたというわけです。
これは、当時の身分の象徴でもあったんですね。

​桂川の水運ルートと、甲州街道の比較

末は大月市で甲州街道に沿って流れる、桂川(山梨県東部)

末は大月市で甲州街道に沿って流れる、桂川(山梨県東部)

桂川かつらがわは、甲斐国から南の相模湾さがみわんへと流れを変えて、江戸(東京)に流れ着くルートとはならずに、相模湾へ注いでいます。
そのため、甲斐絹織などを江戸へ運ぶ水運ルートとしては適しませんでした。

桂川(相模川)について

ここで、桂川かつらがわ相模川さがみがわは、どちらも同じ川です。

桂川とは、山梨県内の区間での呼び名です。
水源は富士五湖の一つである山中湖です。

相模川とは、神奈川県内に入ってからの区間での呼び名です。
山梨県から流れてきた川は、相模湖さがみこなどを経由し、最終的に相模湾さがみわんに注ぎます。
河口付近では「馬入川ばにゅうがわ」とも呼ばれます。

どちらも同じ川ですが、県によって呼び方が異なるわけです。

桂川および相模川については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

中央線鉄道唱歌 第13番 桂川の横を走ってゆく 大月市の名所・猿橋
中央線鉄道唱歌の歌詞を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!
鉄道唱歌 東海道編 第11番 再び東海道本線に戻り、相模川を渡る 茅ヶ崎・平塚・大磯を行く
横須賀線の「寄り道」を終え、再び東海道線を西へ。藤沢・辻堂・茅ヶ崎・平塚を過ぎ、かつて日本初の海水浴場の大磯へ。 茅ヶ崎を過ぎると、「馬入川」こと相模川も渡ります。 鉄道唱歌の歌詞について、わかりやすく解説します!

​水上ルートでの輸送には向いていなかった桂川

また、桂川(相模川)は、

  • 途中でよく、川の流れが急になったりした
  • 船が通りにくい浅瀬あさせが多かったりした

ため、大型の船での安定した物資輸送には、とても向いていなかったのです。

結局、陸路(甲州街道)での輸送の方が適していた

​したがって、甲斐国から江戸へは、やはり甲州街道陸路(つまり「陸のルート」)で運ぶことが、主な輸送手段となったのでした。
これは、地理的な条件・制約が、人々の生活に影響を与えるという良い例ですね。

水運:船を使って、水の上で人やモノなどを運ぶこと。

​甲斐国の金山と、江戸の財源

甲斐国かいのくに金山きんざんから採れる金(ゴールド)の数々は、江戸幕府にとって貴重な財源となったのでした。
そのため、江戸幕府は甲斐国を(藩とはせずに)幕府が直接コストをかけて支配する直轄地ちょっかつちとして支配し、「​甲斐金山かいきんざん」から大量の金を産出させるようにしたのでした。

甲斐金山かいきんざん:かつて昔、現在の山梨県にあった数々の金山の総称です。
武田信玄の時代に最盛期を迎え、掘り出された金(ゴールド)は武田信玄の支配する軍事力財力を支えたことで知られています。

​この掘り出された豊富な金(ゴールド)は、幕府の初期の財政を支える土台となりました。
そして、江戸の街づくりや、各地の大名たちが幕府へ反発して反乱を起こしたりしないための支配力を高めるために使われたわけです。

江戸時代の甲府統治と金山

​また、江戸時代​の甲府こうふは、徳川将軍家にとって、非常に重要な拠点でした。
それは江戸に近く、軍事的に江戸の防衛を固めるためにも、甲府の支配は重要だったのでした。

​そのため、甲府はしばしば幕府の直轄地ちょっかつちとされました。
そして、江戸幕府にとって信頼のおける将軍家の一族・甲府徳川家こうふとくがわけなどが藩主はんしゅ(藩のリーダー)として、甲斐国を支配してゆきました。

これは現代で例えると、総理大臣にとって信頼できる親戚などを、山梨県県知事として派遣するようなイメージですね(もちろん現代は選挙によって、民主的に選ばれます)。

幕府が直轄地とする主な理由

江戸幕府は、例えば

  • 特産物などがガッポリ採れる、豊かな地域
  • 幕府へ反発する反乱軍が、江戸へ攻めてくるときに通るであろう、交通の要所
  • ガッポリ採れて儲かる鉱山

などの重要な地域を、藩や大名に支配させずに幕府自らが支配する直轄領とすることで、安定した収入源を確保したのでした。

また、防衛など、軍事的に重要な地域を直接管理し、大名に反乱を起こさせないことで、幕府は政権の安定を図りました。

江戸幕府は、甲斐金山を徹底管理した

すなわち、徳川家が自ら統治することで、甲斐国かいのくににある豊富な金山きんざんを徹底的に管理し、江戸幕府の財源として大いに活用したわけです。

​したがって、甲府は軍事的にも経済的にも、特別な位置づけにあったわけです。

かつての諏訪方面への近道は?

諏訪へのルート:​信越本線開通と、中山道の和田峠越え

​​信越本線(現:しなの鉄道)大屋駅おおやえき(長野県上田市)ら和田峠わだとうげを通るルートは、かつてまだ中央線が開通していなかった明治時代、諏訪方面への時間短縮を実現した可能性があります。

すなわち、

東京→高崎→(信越本線)→軽井沢→大屋→和田峠→諏訪湖
というルートですね。
つまり、明治時代に中央線が出来るまでは、東京から諏訪湖へはこのルートが最速だったということです。

和田峠わだとうげ:江戸時代の中山道なかせんどうにおける、最も標高が高く、最大の難所として知られた峠です。
長野県の佐久平さくだいら諏訪地方の境に位置します。
標高は、峠の頂上はて標高1,531mです。

和田峠は険しい地形急峻な坂道が続き、特に冬場は深い積雪路面凍結のため、牛や馬も通れなくなるほどでした。
また、峠をまたぐ宿場(和田宿下諏訪宿)の間の距離も長く、旅人にとって大きな負担となりました。

和田峠については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

鉄道唱歌 北陸編 第24番 大屋駅は、かつての諏訪湖方面への近道・最寄駅
鉄道唱歌 北陸編の歌詞を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

難所の和田峠+鉄道(信越本線)の組み合わせで、諏訪湖へ至っていた

​すなわち、江戸方面から旅をする場合、

  1. 鉄道で大屋駅まで移動し、
  2. そこから先の中山道の難所を、馬や駕籠かごで越える

といった、「鉄道+街道」の連携が生まれたわけです。

これは、全区間を甲州街道のみで歩き通すよりも、総合的な所要時間は短くなったと推測されます。
したがって、この新しいルートは、明治時代の一時的な交通手段として活用されたと言えるでしょう。

難所:道が険しく、通行するのが非常に困難な場所のこと。

​中央線全通による、さらなる短縮

中央線諏訪湖まで開通したことで、先に述べた「信越本線+和田峠ルート」よりも、遥かに移動時間が短縮されたのでした。
​なぜなら、中央線は諏訪湖のほとりにある下諏訪駅(および岡谷駅)まで直接つながったからです。

​つまり、大屋駅で下車し、和田峠駕籠かごで越えるという、手間と時間のかかる「乗り継ぎ」が不要になりました。

駕籠かご:人を乗せて運ぶための、人力で担ぐ乗り物のことです。
特に江戸時代には、庶民の移動手段として広く使われていました。

​したがって、江戸(東京)から諏訪湖方面への旅は、中央線の全通によって、文字通り革命的に便利になったと言えるでしょう!
​これは、鉄道の力ですね!

乗り継ぎ:列車やバスなど、異なる交通機関や路線を乗り換えること。

甲州街道・大月宿

富士山や河口湖へのアクセス拠点

かつて​甲州街道こうしゅうかいどう​の宿場である大月宿おおつきしゅくは、江戸時代から重要なアクセス拠点でした。

甲州街道の宿場町・大月宿(山梨県大月市)

甲州街道の宿場町・大月宿(山梨県大月市)

大月宿おおつきしゅく:山梨県大月市おおつきしにかつて位置していた宿場町です。
東西横に伸びる甲州街道と、南の富士山方面へと向かう、富士街道の分岐点として栄えてきました。

現在の甲州街道を歩く道中に、大月宿の跡地を見つけることができます。

大月市・大月宿については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

中央線鉄道唱歌 第14番 大月に到着!富士急行線に乗り換え、富士山と河口湖方面へ
中央線鉄道唱歌について、小学生にもわかりやすく解説しています。鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説します。

​すなわち、大月宿は、甲州街道から分岐し、富士山の登山道の一つである吉田口よしだぐちへ向かう富士みちの入口に位置していました。
​したがって、富士登山を目指す人々や、河口湖かわぐちこ方面へ向かう人々にとっての玄関口として、にぎわっていたわけです。

​​大月宿は、おそらく多くの参詣者さんけいしゃ旅人で賑わうような、まさな活気のある宿場だったんでしょうね!

甲州街道・​笹子峠

笹子峠は、当時から甲州街道の難所だった?

甲府盆地の東端あたりにある​笹子峠ささごとうげは、江戸時代から甲州街道こうしゅうかいどうにおける最大の難所の一つとして知られていました。

笹子峠ささごとうげ:甲州街道の難所として知られ、山梨県大月市と甲州市の境にある標高約1,100mの峠です。
江戸時代には甲斐国(山梨県)の東部である郡内地方と、国中地方くになかちほう(=山梨県中部・西部)との境界となっていました。

​​なぜなら、標高が高く、険しい山道が続いていた上、特に冬場は積雪せきせつなどによって、通行が困難になったからです。
そのため、旅人たちは、この峠を越えるために大変な労力を要していたのでした。

​したがって、この難所を避けるため、後に明治時代になって笹子ささごトンネルが建設されたことによって、交通の利便性が大幅に向上したわけです。

笹子トンネルについて、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

中央線鉄道唱歌 第17番 笹子トンネルを通る 世界はまるで1万5千フィートの闇に包まれたよう
中央線鉄道唱歌の歌詞を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

​​これは、人々の知恵と努力の賜物たまものですね!

甲州街道で運ばれた名物「​水晶」

水晶は、山梨県・昇仙峡の名物?

かつて甲州街道で江戸へ運ぶ水晶を掘り出していた、昇仙峡(山梨県甲府市)

かつて甲州街道で江戸へ運ぶ水晶を掘り出していた、昇仙峡(山梨県甲府市)

​​水晶は、山梨県甲府市のやや北の観光地である​昇仙峡しょうせんきょうの名物として、非常によく知られています!

​つまり、昇仙峡しょうせんきょうは、美しい渓谷の景観だけでなく、近くで採掘された水晶の加工や販売が盛んになった地域である、というわけです。

昇仙峡しょうせんきょう:山梨県甲府市にある景勝地で、国の特別名勝に指定されており、「日本一の渓谷美」と称されます。

昇仙峡については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

中央線鉄道唱歌 第27番 甲府の秘境・昇仙峡へ 覚円峰と仙娥滝の景色
中央線鉄道唱歌の歌詞を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

甲府市あたりでよく磨かれた水晶

すなわち、この地域には、甲府を中心に、水晶みがいて宝飾品ほうしょくひんなどにする研磨けんま産業が古くから発達していました。

​したがって、昇仙峡を訪れる人にとって、水晶は​お土産​や​地域のシンボルのような存在になっています。

​​渓谷:山の中にある、川が流れる深い谷のこと。

​なぜ昇仙峡は水晶が盛ん?

昇仙峡しょうせんきょう周辺の地域で水晶産業が盛んになったのは、甲斐国かいのくに​にとても良質な水晶がガッポリ出てくる鉱山が、いくつもあったからでした。

​したがって、採れた水晶をみがいて加工するための研磨けんま技術が発展してゆき、これにより甲府は、水晶細工の拠点として栄えてきたのでした。

​​すなわち、これは天然の資源と、それを活かすための人々の技術が、見事に結びついた結果というわけですね。

​​鉱物資源採掘して利用できる、地中にある金属などの物質。

甲州街道で運ばれた​水晶は、江戸で珍重された?

こうした​甲斐国(山梨県で掘り出されて産出された​水晶は珍しいことから、江戸において非常に珍重ちんちょうされました。

​​というのも、透明度が高くピカピカで美しい光沢を放つ水晶は、​宝飾品ほうしょくひん装飾品そうしょくひん、また工芸品の材料として、とても富裕層からの需要が高かったからです。

​つまり、こうした水晶の商品は、甲州街道こうしゅうかいどうを通って、江戸の富裕層武士などをはじめとする、いわゆる身分の高い人々の間へと広まっていきました。

​したがって、​先述のきぬなどと並んで、水晶は甲斐国における重要な交易品こうえきひん​の一つでした。
そして水晶は、当時の人々の美意識を満たすための、貴重な品だったとも言えますね。

​​宝飾品ほうしょくひん宝石貴金属などを使って作られた、身につける飾りの品。

​現在の甲州街道の様子と、宿場町の面影

​現在の甲州街道の大部分は、国道20号として整備され、現代の主要な交通路として機能しています。

国道20号:東京都中央区から長野県・塩尻市しおじりしまで至る道路で、甲州街道を原型とする道路です。
首都圏と長野県を結ぶ重要なルートであり、最終的に長野県塩尻市で、国道19号木曽路方面)に接続します。

​甲州街道において、昔の面影が残る場所は、確かに少なくなりました。
しかし、先程の大月宿などのように、かつての宿場町の場所には、今も寺社や古い建物の一部が残されている場所があります。

したがって、本陣跡ほんじんあと石碑せきひや、曲りくねった道の形などに、旅人が往来した当時の面影を感じることができます。

本陣ほんじん:おもに大名や公家、幕府の役人など、高貴で身分の高い人物が宿泊したり休憩したりするために設けられた宿舎のことです。
格式の高い建物であり、多くの本陣は、特定有力な人物のみが泊まれる宿として指定されていました。
原則として、一般人は宿泊不可でした。
しかし、江戸時代後期には公式な利用がない場合に限り、一般人も宿泊できるようになったところもありました。

これは、過去と現在が交差する、歴史のロマンですね!

​リニア中央新幹線は「未来の甲州街道」?

​リニア中央新幹線を「未来の甲州街道」と捉えるのは、とても夢やロマンがあって素敵な発想だと思います!✨

​つまり、江戸甲斐国を結んだ甲州街道が、時代とともに中央線へと形を変え、そして今、超高速リニアへと進化しているわけです。
​すなわち、人と物を迅速に移動させるという、街道が持っていた「日本の中央を結ぶ」という使命は、現代にも脈々と受け継がれています。

したがって、これは伝統と最先端技術の融合であり、歴史の壮大な物語の続きを見ているようですね!

おわりに・まとめ(甲州街道)

甲州街道の地理と歴史を学んでみて、いかがだったでしょうか。

​すなわち、険しい笹子峠和田峠を越える旅の大変さや、金や水晶といった産物が運ばれた背景を知ることができたのではないでしょうか。

​したがって、街道の背景にある、歴史の深い物語を学ぶことで、あなたの観光旅行、そして探訪は、きっと何倍も面白くなりますね!

​これは、過去への理解が、今の旅の感動を深めてくれる、最高のスパイスだと言えます!

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