甲州街道について、その基本から歴史までわかりやすく解説します!
かつて甲州街道で江戸などに運ばれた名産品等について、深く探求してゆきましょう!
今回は、かつて甲州街道で運ばれた「名産品」について
前回に引き続き、今回は、かつて甲州街道で運ばれた「名産品」について解説してゆきます!
そもそも「甲州街道って何?」など基本的なことは、以下の前回の記事で解説していますので、ご覧ください。

甲州街道で運ばれた、甲斐国の絹・生糸
甲州街道によって江戸(東京)まで運ばれたものには、甲斐国の絹や生糸といった、昔の日本の和服の材料となったものがあります。
そして、これらの名産品の中には、特に江戸では珍しかった、質の高いものが多くありました。
郡内地方(山梨県東部)の「織物」「生糸」
特に、現在の山梨県東部にあたる郡内地方(現在の富士吉田市あたり)においては、古くから
- 生糸を生み出す幼虫・カイコを育てる養蚕と、
- 甲斐絹織と呼ばれる織物
などが、それぞれ盛んだったわけです。
富士吉田市:山梨県の南東部にある、富士山の北部の麓に広がる都市です。
古くから富士山信仰の町として栄え、海抜約750mという東京スカイツリーよりも高い位置するという高原都市です。
「郡内縞」(ぐんないじま)
具体的には、先述の甲斐絹織に加えて、「郡内縞」と呼ばれる、丈夫でとても美しい絹織物が有名でした。
したがって、これらの高級な織物やその原料である生糸は、江戸ではまず手に入らないため、江戸のお金持ち・富裕層や武士といった人々によって、珍重されることになりました。
珍重:珍しいものとして、大切にされることです。
すなわち、郡内縞・甲斐絹織などは、この地域にとって、重要な収入源となるべき交易品として、江戸へと運ばれたわけです。
郡内縞:山梨県富士吉田市周辺で生産される、縞模様が特徴の絹織物。
交易品:売って金になるほど価値のある品物を、互いに交換するというトレード行為(交易)において扱われる品物のことを指します。
郡内の「郡」と都留郡
ここで「郡内」とは、甲斐国の東部、現在の山梨県東部あたりのエリアを指す地域名です。
すなわち、この「郡」は、かつての都留郡のことを意味しています。
これは、都留を中心とする地域で、古くからそのように呼ばれていました。
都留郡:かつての甲斐国にあった郡の一つで、現在の都留市や富士吉田市などを含む地域。
都留郡については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

したがって、甲斐国の他の地域(主に甲府盆地を中心とする地域)と区別するために、山梨県東部では「郡内」という名称が使われていたわけですね。
生糸・織物と昔の和服
甲斐国の生糸や絹織物は、昔の和服には不可欠なものだったのでした。
つまり、歴史的に山梨県のこのあたりで作られてきた高品質な絹は、高級な着物の素材として、江戸で珍重され(購入され)たのでした。
したがって、甲州街道を通って江戸に運ばれたこれらの織物は、人々の衣服文化(今でいうところのファッションやコーディネート)を支えるための、重要な特産品だったと言えますね。
すなわち、これらも地元住民の皆さんにとっての、貴重な収入源だったというわけです。
高価な絹織物
昔の絹織物は、大量生産がとても難しかったのでした。
それは現在のように機械を使って行うものではなく、職人さんたちの手によって「手作り」で行われていたかでした。
そのため、一般の庶民にとっては買いづらい、非常に高価なものでした。
すなわち、生糸の生産から、織るまでの工程に手間がかかる上に、街道を通る運送コストもかかっていたのでした。
そりゃ確かに、険しい山道を通って運ばれるわけなので、ある意味仕方なかっまのかもしれません。
したがって、武士や貴族、そして裕福な商人といった、上層の人々の高級な衣装として主に使われていたというわけです。
これは、当時の身分や富の象徴でもあったんですね。
桂川の水運ルートと、甲州街道の比較

末は大月市で甲州街道に沿って流れる、桂川(山梨県東部)
桂川は、甲斐国から南の相模湾へと流れを変えて、江戸(東京)に流れ着くルートとはならずに、相模湾へ注いでいます。
そのため、甲斐絹織などを江戸へ運ぶ水運ルートとしては適しませんでした。
桂川(相模川)について
ここで、桂川と相模川は、どちらも同じ川です。
桂川とは、山梨県内の区間での呼び名です。
水源は富士五湖の一つである山中湖です。
相模川とは、神奈川県内に入ってからの区間での呼び名です。
山梨県から流れてきた川は、相模湖などを経由し、最終的に相模湾に注ぎます。
河口付近では「馬入川」とも呼ばれます。
どちらも同じ川ですが、県によって呼び方が異なるわけです。
桂川および相模川については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。


水上ルートでの輸送には向いていなかった桂川
また、桂川(相模川)は、
- 途中でよく、川の流れが急になったりした
- 船が通りにくい浅瀬が多かったりした
ため、大型の船での安定した物資輸送には、とても向いていなかったのです。
結局、陸路(甲州街道)での輸送の方が適していた
したがって、甲斐国から江戸へは、やはり甲州街道を陸路(つまり「陸のルート」)で運ぶことが、主な輸送手段となったのでした。
これは、地理的な条件・制約が、人々の生活に影響を与えるという良い例ですね。
水運:船を使って、水の上で人やモノなどを運ぶこと。
甲斐国の金山と、江戸の財源
甲斐国の金山から採れる金(ゴールド)の数々は、江戸幕府にとって貴重な財源となったのでした。
そのため、江戸幕府は甲斐国を(藩とはせずに)幕府が直接コストをかけて支配する直轄地として支配し、「甲斐金山」から大量の金を産出させるようにしたのでした。
甲斐金山:かつて昔、現在の山梨県にあった数々の金山の総称です。
武田信玄の時代に最盛期を迎え、掘り出された金(ゴールド)は武田信玄の支配する軍事力と財力を支えたことで知られています。
この掘り出された豊富な金(ゴールド)は、幕府の初期の財政を支える土台となりました。
そして、江戸の街づくりや、各地の大名たちが幕府へ反発して反乱を起こしたりしないための支配力を高めるために使われたわけです。
江戸時代の甲府統治と金山
また、江戸時代の甲府は、徳川将軍家にとって、非常に重要な拠点でした。
それは江戸に近く、軍事的に江戸の防衛を固めるためにも、甲府の支配は重要だったのでした。
そのため、甲府はしばしば幕府の直轄地とされました。
そして、江戸幕府にとって信頼のおける将軍家の一族・甲府徳川家などが藩主(藩のリーダー)として、甲斐国を支配してゆきました。
これは現代で例えると、総理大臣にとって信頼できる親戚などを、山梨県県知事として派遣するようなイメージですね(もちろん現代は選挙によって、民主的に選ばれます)。
幕府が直轄地とする主な理由
江戸幕府は、例えば
- 米や特産物などがガッポリ採れる、豊かな地域
- 幕府へ反発する反乱軍が、江戸へ攻めてくるときに通るであろう、交通の要所
- ガッポリ採れて儲かる鉱山
などの重要な地域を、藩や大名に支配させずに幕府自らが支配する直轄領とすることで、安定した収入源を確保したのでした。
また、防衛など、軍事的に重要な地域を直接管理し、大名に反乱を起こさせないことで、幕府は政権の安定を図りました。
江戸幕府は、甲斐金山を徹底管理した
すなわち、徳川家が自ら統治することで、甲斐国にある豊富な金山を徹底的に管理し、江戸幕府の財源として大いに活用したわけです。
したがって、甲府は軍事的にも経済的にも、特別な位置づけにあったわけです。
かつての諏訪方面への近道は?
諏訪へのルート:信越本線開通と、中山道の和田峠越え
信越本線(現:しなの鉄道)の大屋駅(長野県上田市)ら和田峠を通るルートは、かつてまだ中央線が開通していなかった明治時代、諏訪方面への時間短縮を実現した可能性があります。
すなわち、
つまり、明治時代に中央線が出来るまでは、東京から諏訪湖へはこのルートが最速だったということです。
和田峠:江戸時代の中山道における、最も標高が高く、最大の難所として知られた峠です。
長野県の佐久平と諏訪地方の境に位置します。
標高は、峠の頂上はて標高1,531mです。和田峠は険しい地形で急峻な坂道が続き、特に冬場は深い積雪や路面凍結のため、牛や馬も通れなくなるほどでした。
また、峠をまたぐ宿場(和田宿と下諏訪宿)の間の距離も長く、旅人にとって大きな負担となりました。
和田峠については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

難所の和田峠+鉄道(信越本線)の組み合わせで、諏訪湖へ至っていた
すなわち、江戸方面から旅をする場合、
- 鉄道で大屋駅まで移動し、
- そこから先の中山道の難所を、馬や駕籠で越える
といった、「鉄道+街道」の連携が生まれたわけです。
これは、全区間を甲州街道のみで歩き通すよりも、総合的な所要時間は短くなったと推測されます。
したがって、この新しいルートは、明治時代の一時的な交通手段として活用されたと言えるでしょう。
難所:道が険しく、通行するのが非常に困難な場所のこと。
中央線全通による、さらなる短縮
中央線が諏訪湖まで開通したことで、先に述べた「信越本線+和田峠ルート」よりも、遥かに移動時間が短縮されたのでした。
なぜなら、中央線は諏訪湖のほとりにある下諏訪駅(および岡谷駅)まで直接つながったからです。
つまり、大屋駅で下車し、和田峠を馬や駕籠で越えるという、手間と時間のかかる「乗り継ぎ」が不要になりました。
駕籠:人を乗せて運ぶための、人力で担ぐ乗り物のことです。
特に江戸時代には、庶民の移動手段として広く使われていました。
したがって、江戸(東京)から諏訪湖方面への旅は、中央線の全通によって、文字通り革命的に便利になったと言えるでしょう!
これは、鉄道の力ですね!
乗り継ぎ:列車やバスなど、異なる交通機関や路線を乗り換えること。
甲州街道・大月宿
富士山や河口湖へのアクセス拠点
かつて甲州街道の宿場である大月宿は、江戸時代から重要なアクセス拠点でした。

甲州街道の宿場町・大月宿(山梨県大月市)
大月宿:山梨県大月市にかつて位置していた宿場町です。
東西横に伸びる甲州街道と、南の富士山方面へと向かう、富士街道の分岐点として栄えてきました。現在の甲州街道を歩く道中に、大月宿の跡地を見つけることができます。
大月市・大月宿については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

すなわち、大月宿は、甲州街道から分岐し、富士山の登山道の一つである吉田口へ向かう富士みちの入口に位置していました。
したがって、富士登山を目指す人々や、河口湖方面へ向かう人々にとっての玄関口として、賑わっていたわけです。
大月宿は、おそらく多くの参詣者や旅人で賑わうような、まさな活気のある宿場だったんでしょうね!
甲州街道・笹子峠
笹子峠は、当時から甲州街道の難所だった?
甲府盆地の東端あたりにある笹子峠は、江戸時代から甲州街道における最大の難所の一つとして知られていました。
笹子峠:甲州街道の難所として知られ、山梨県大月市と甲州市の境にある標高約1,100mの峠です。
江戸時代には甲斐国(山梨県)の東部である郡内地方と、国中地方(=山梨県中部・西部)との境界となっていました。
なぜなら、標高が高く、険しい山道が続いていた上、特に冬場は積雪などによって、通行が困難になったからです。
そのため、旅人たちは、この峠を越えるために大変な労力を要していたのでした。
したがって、この難所を避けるため、後に明治時代になって笹子トンネルが建設されたことによって、交通の利便性が大幅に向上したわけです。
笹子トンネルについて、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

これは、人々の知恵と努力の賜物ですね!
甲州街道で運ばれた名物「水晶」
水晶は、山梨県・昇仙峡の名物?

かつて甲州街道で江戸へ運ぶ水晶を掘り出していた、昇仙峡(山梨県甲府市)
水晶は、山梨県甲府市のやや北の観光地である昇仙峡の名物として、非常によく知られています!
つまり、昇仙峡は、美しい渓谷の景観だけでなく、近くで採掘された水晶の加工や販売が盛んになった地域である、というわけです。
昇仙峡:山梨県甲府市にある景勝地で、国の特別名勝に指定されており、「日本一の渓谷美」と称されます。
昇仙峡については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

甲府市あたりでよく磨かれた水晶
すなわち、この地域には、甲府を中心に、水晶を磨いて宝飾品などにする研磨産業が古くから発達していました。
したがって、昇仙峡を訪れる人にとって、水晶はお土産や地域のシンボルのような存在になっています。
渓谷:山の中にある、川が流れる深い谷のこと。
なぜ昇仙峡は水晶が盛ん?
昇仙峡周辺の地域で水晶産業が盛んになったのは、甲斐国にとても良質な水晶がガッポリ出てくる鉱山が、いくつもあったからでした。
したがって、採れた水晶をみがいて加工するための研磨技術が発展してゆき、これにより甲府は、水晶細工の拠点として栄えてきたのでした。
すなわち、これは天然の資源と、それを活かすための人々の技術が、見事に結びついた結果というわけですね。
鉱物資源:採掘して利用できる、地中にある石や金属などの物質。
甲州街道で運ばれた水晶は、江戸で珍重された?
こうした甲斐国(山梨県)で掘り出されて産出された水晶は珍しいことから、江戸において非常に珍重されました。
というのも、透明度が高くピカピカで美しい光沢を放つ水晶は、宝飾品や装飾品、また工芸品の材料として、とても富裕層からの需要が高かったからです。
つまり、こうした水晶の商品は、甲州街道を通って、江戸の富裕層や武士などをはじめとする、いわゆる身分の高い人々の間へと広まっていきました。
したがって、先述の金や絹などと並んで、水晶は甲斐国における重要な交易品の一つでした。
そして水晶は、当時の人々の美意識を満たすための、貴重な品だったとも言えますね。
宝飾品:宝石や貴金属などを使って作られた、身につける飾りの品。
現在の甲州街道の様子と、宿場町の面影
現在の甲州街道の大部分は、国道20号として整備され、現代の主要な交通路として機能しています。
国道20号:東京都中央区から長野県・塩尻市まで至る道路で、甲州街道を原型とする道路です。
首都圏と長野県を結ぶ重要なルートであり、最終的に長野県塩尻市で、国道19号(木曽路方面)に接続します。
甲州街道において、昔の面影が残る場所は、確かに少なくなりました。
しかし、先程の大月宿などのように、かつての宿場町の場所には、今も寺社や古い建物の一部が残されている場所があります。
したがって、本陣跡の石碑や、曲りくねった道の形などに、旅人が往来した当時の面影を感じることができます。
本陣:おもに大名や公家、幕府の役人など、高貴で身分の高い人物が宿泊したり休憩したりするために設けられた宿舎のことです。
格式の高い建物であり、多くの本陣は、特定の有力な人物のみが泊まれる宿として指定されていました。
原則として、一般人は宿泊不可でした。
しかし、江戸時代後期には公式な利用がない場合に限り、一般人も宿泊できるようになったところもありました。
これは、過去と現在が交差する、歴史のロマンですね!
リニア中央新幹線は「未来の甲州街道」?
リニア中央新幹線を「未来の甲州街道」と捉えるのは、とても夢やロマンがあって素敵な発想だと思います!✨
つまり、江戸と甲斐国を結んだ甲州街道が、時代とともに中央線へと形を変え、そして今、超高速のリニアへと進化しているわけです。
すなわち、人と物を迅速に移動させるという、街道が持っていた「日本の中央を結ぶ」という使命は、現代にも脈々と受け継がれています。
したがって、これは伝統と最先端技術の融合であり、歴史の壮大な物語の続きを見ているようですね!
おわりに・まとめ(甲州街道)
甲州街道の地理と歴史を学んでみて、いかがだったでしょうか。
すなわち、険しい笹子峠や和田峠を越える旅の大変さや、金や水晶といった産物が運ばれた背景を知ることができたのではないでしょうか。
したがって、街道の背景にある、歴史の深い物語を学ぶことで、あなたの観光、旅行、そして探訪は、きっと何倍も面白くなりますね!
これは、過去への理解が、今の旅の感動を深めてくれる、最高のスパイスだと言えます!
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