南九州の旅8【後編】 佐伯→大分 佐伯と大友氏の歴史を、わかりやすく解説!

日豊本線・佐伯~大分の鉄道旅および、佐伯・大友氏の歴史などについて、初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!

佐伯駅(佐伯市)に到着

長い宗太郎越えをくぐり抜けると、

  • 佐伯駅さいきえき(大分県佐伯市)

に到着します。

佐伯藩の城下町

大分県佐伯市さいきしは、佐伯藩さいきはんの城下町として栄えてきたのでした。
また、佐伯藩の初代藩主は、後述する通り毛利高政たかまさという人物です。

佐伯は江戸時代から 「佐伯の殿様、浦でもつ」 と言われていました。

佐伯の初代藩主・毛利高政

毛利高政は、佐伯の海のキレイさを保持するため、森林の伐採を禁止したのだそうです。

それは、

  1. 森林が生み出す豊富な栄養を(川の流などを通じて)、佐伯の海に注がせる
  2. このことで、海が栄豊富になって、おいしい魚がたくさん採れる

ということを期待してのことでした。

佐伯市はこのような歴史ある豊富な海の幸をベースに、観光客の誘致にも力を入れています。

佐伯の歴史

以下ずっと、九州のややマニアックな歴史について触れています。
この記事はほぼそんな内容ばかりなので、興味ない方はこちらからページ末尾へご移動くださいね!

戦国時代の佐伯

大分県の大部分のことを「豊後国ぶんごのくに」といいます。
そして、豊後国をはじめとする九州北部は、戦国時代は大友氏おおともしという一族に支配されてきました。

戦国時代は、九州北部は大友氏、薩摩などの九州南部は島津氏しまづしによって支配されており、当初こそ仲が良かったものの、様々な小競り合いなどから徐々に対立関係となっていきました。

そして1578年に宮崎県の「耳川みみかわ」で起きた

  • 耳川みみかわの戦い

において、強敵・島津義久よしひさの前に、豊後の大友氏敗退してしまうことになったのでした。

耳川の戦いについては、以前の以下の記事でも詳しく解説しているため、ご覧ください。

南九州の旅7【前編】 宮崎→美々津 神の国・日向の平野をゆく 神武天皇御舟出の地へ
日豊本線の旅について、わかりやすく解説しています!美々津の観光・歴史について、初心者にもやさしく解説しています!今回は、神の国・宮崎における、「神武天皇お船出の地」についての話題となります!今回は、宮崎を北上し、美々津・延岡方面へ宮崎駅みや...

耳川での敗戦 混乱する大友氏

この「耳川の戦い」での敗戦がきっかけで、大友家の中では「内輪揉め」などの混乱が激しくなってゆきます。
この内輪揉めだけでなく、外からも豊後の領地が脅かされることになってきました。

例えば、

  • 肥前ひぜん(佐賀県)
  • 筑前ちくぜん(福岡県)

方面から、さらには薩摩島津義久らの侵略を受けてしまうことになったため、大友氏は徐々に衰退していきます

そんな中で、かつてより佐伯の地にいた一族である佐伯氏(さいきし/さえきし)は、衰退しつつあった大友氏をなんとか支えていったのでした。

島津氏が大友氏のトドメをさすため、豊後へと侵攻

戦国時代後期の1586年に入ると、薩摩(鹿児島県)の島津義久よしひさは、豊後(大分県)の大友軍を滅ぼすべく、大軍を豊後侵攻させてゆきました。

これを豊薩合戦ほうさつがっせんといいます。

あくまで佐伯氏は、島津氏に対して「徹底抗戦」を貫く

そして佐伯氏は、島津氏の側から「降伏せよ」という勧告を受けることになります。
しかし佐伯氏は、頑くなまでに島津氏との抗戦の強い意思を示したのでした

佐伯氏がこの降伏勧告に従わなかったために、薩摩・島津氏は軍勢・軍隊を大分・佐伯に対して差し向けたのでした。
それに対して佐伯氏の軍勢は、みんなの総力を挙げて、全力で島津氏に対して、徹底的に抵抗するという意思を示したのでした。

島津の軍、佐伯軍に苦戦

そして薩摩・島津軍は、兵力の面で優勢・有利だったのでした。
しかし、野戦において奮闘してくる佐伯勢に苦戦し、島津氏は敗北してしまいました
これはやはり、佐伯勢の勢いや、何がなんでも大友氏や豊後(大分)を守ってやろうという意志が強かったわけですね。

なお、この戦いは佐伯市のやや南の山岳地帯である「堅田」という場所で行われたため、「堅田合戦」といいます。

大友氏と豊臣秀吉の結託 「九州征伐」で島津氏を倒す

ここで大友氏が、九州征伐(それどころか全国統一)を狙っていた豊臣秀吉に対して、味方につきます。
豊臣秀吉は、織田信長の遺志を受け継いで日本全国を統一し、自分が日本全体のトップになろうとしていたわけです。

しかしそのためには、秀吉にとって九州南部にいる強い島津氏は、とても邪魔で、何としても倒しておきたい存在だったのでした。
そした秀吉は、なんとか島津氏屈服させ、九州をすべて平定しようとしたわけです。
そこで、敵・島津氏と対立していた大友氏を利用することにしたのです。

島津氏を滅ぼすため、豊臣秀吉と大友氏が手を組む

戦国時代においては、敵の敵は味方なので、豊臣秀吉にとって島津氏と対立している大友氏は味方なわけですね。
なので、この利害関係が一致する形で、大友氏と豊臣秀吉は味方同士になるのです。

そして1587年、いよいよ豊臣秀吉による「九州征伐」が開始されます。

この戦いにおいて薩摩・島津軍は、豊臣秀吉の率いる大軍の前に、次々に敗れていってしまいます。
島津軍はそのまま薩摩・鹿児島にまで大きく後退・敗退してしまい、ついには豊臣秀吉に対して降伏したのでした。

この戦いの後、豊臣秀吉によって、キリシタン大名として有名な大友宗麟そうりん義統よしむねの父子に対して豊後国(大分県)の支配を認めたのでした。

大友氏が命令違反 秀吉の怒りを買う

しかし大友氏はのちに、豊臣秀吉との様々なトラブルにより、また命令違反をしたことなどが原因で、秀吉からの怒りを買ってしまいました。
その罰として、大友氏は秀吉によって改易かいえき(遠くへ飛ばされること)されてしまいました。

リーダー・大友氏の改易にともない、佐伯氏も地元を離れることに

この時、佐伯氏も自身の主家(つまり、「あるじ」)である大友氏の改易により、佐伯氏は豊後・佐伯の地を離れることになりました。
こうして佐伯氏による佐伯の支配は、400年をもって終わりを告げたのでした

その後の佐伯氏は、佐伯惟定これさだ伊予国いよのくに(愛媛県)の藤堂高虎とうどうたかとらにつかえて活躍したことで、「佐伯」の名前を後生に残していったのでした。

なお藤堂高虎は、三重県の伊賀上野城いがうえのじょうなどを造った、築城の名手として知られます。

豊臣秀吉の身内ばかりで固められていく九州

その後の豊後国(大分県)には、主に豊臣家の側近であり、また秀吉にとって信頼のおける大名などが、それぞれ配置されてゆきました

九州は外国に近いため、外敵の侵略のリスクが常にありました。
また九州には、薩摩の島津氏などといった強力な大名が多かったため、秀吉としてはなるべく身内・味方の家来を配置していきたかったわけです。

秀吉にとっては、このように強敵・島津氏に対する警戒と、外国の脅威から九州を守るため、九州の各地をなるべく身内ばかりで固めておこうとしたわけですね。

毛利氏が、大分に入ってくる

そして1594年になると、毛利高政まかまさという後に佐伯藩・初代藩主になる人物が、秀吉から豊後国ぶんごのくにの領地を与えられて、豊後を支配していくことになります。

つまり、豊後の支配はそれまでの大友氏に代わり、毛利氏の支配になったということです。
その理由は先述の通り、大友氏が命令違反などをしたことにより秀吉の怒りを買っため、その罰として大友氏は豊後を追放されてしまったからですね。

秀吉から高く評価されていた、毛利高政

毛利高政たかまさは、秀吉が主君(つまり上司)である織田信長に対して仕えていた(つまり秀吉が織田信長の部下だった)頃からの家臣(家来)として、活躍してきたのでした。

そして毛利高政は、秀吉の「九州征伐」などの数々の戦いに参戦しており、その中で功績を挙げてきた武将ということになります。
つまりそれまでの戦いぶりを秀吉から評価されて、豊後国(大分県)の支配を任されたというわけですね。

広島の「毛利氏」とは血縁関係無し

ちなみに毛利高政は「毛利姓」を名乗ってはいますが、あの毛利元就もとなりで有名な安芸(広島)・長州藩の毛利氏との血縁関係はありません

毛利高政は「本能寺の変」が起こったときは秀吉の側についていました。
このとき、高政は岡山県の備中高松城びっちゅうたかまつじょうにいました。
このとき豊臣秀吉は、中国地方で絶大な存在感を示していた毛利氏と戦っていました。

毛利氏に気に入られ、「毛利」の姓を与えられた

しかし「本能寺の変」が起き、織田信長明智光秀にやられてしまいました。
その知らせを聞いた秀吉は、毛利氏との戦いを急遽やめることにしました。
その条件が「毛利氏に対して人質を差し出すこと」でした。
その人質こそが、毛利高政だったのでした(ただし当時は「毛利」という姓ではありませんでした)。

こうして豊臣秀吉は、毛利氏との戦争をやめて、明智光秀を倒すために京都・大阪へと向かったのでした(中国大返し)。

その「人質」として毛利氏の側にいたときに、高政は毛利元就の孫である毛利輝元から大いに気に入られたため、「毛利」の姓を与えられたのでした。

「関ヶ原の戦い」の後、佐伯藩の成立へ

1598年になり、豊臣秀吉が病死によって亡くなりました。
その後、1600年に関ヶ原の戦いが起きます。

毛利氏への恩義から、あくまで「西軍」について戦う

1600年の「関ヶ原の戦い」では、毛利高政は初めは徳川家の敵にあたる「西軍」についていました。
なぜ毛利高政は西軍に参戦していたのかというと、自らに対して「毛利姓」を与えてくれた西軍の毛利輝元に対して感謝するためだったためともいわれています。

毛利高政は、かねてよりの盟友であった藤堂高虎(=先述の「築城の名手」です)からの説得があり、東軍へ来ないかという熱いラブコールがありました。
そのため、最終的に毛利高政は徳川家の味方・東軍へと寝返ったのでした。

その後、藤堂高虎からの仲介・リコメンドなどもあり、毛利高政は徳川家康により、佐伯の支配を命じられたのでした。

ここに毛利高政による「佐伯藩」が成立したのでした。

佐伯→大分へ

佐伯駅を出ると、あとは大分おおいた方面へひたすら進んでゆきます。
途中、

  • 津久見駅つくみえき(大分県津久見市)
  • 臼杵駅うすきえき(大分県臼杵市)
  • 幸崎駅こうざきえき(大分県大分市)

などの駅を過ぎてゆきます。

日豊本線・佐伯→大分:津久見駅(大分県津久見市)

津久見駅(大分県津久見市)

日豊本線・佐伯→大分:臼杵駅(大分県臼杵市)

臼杵駅(大分県臼杵市)





日豊本線・佐伯→大分:幸崎駅(大分県大分市)

幸崎駅(大分県大分市)



大分駅(大分市)へ到着

やがて、大分県の県庁所在地である大分市の中心駅・大分駅(大分県大分市)に着きます。

大分駅(大分県大分市)

次は、大分の話題へ

次回は、大分(府内)についての話題となります!

今回はここまでです。

お疲れ様でした!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。
そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。
再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。
何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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