【長野県】茅野市の観光・歴史を、わかりやすく解説!

長野県茅野市の、縄文時代の驚くべき歴史などを、わかりやすく解説してゆきます!
この知識により、より茅野の観光が楽しくなるでしょう。

  1. 長野県茅野市(ちのし)
    1. 茅野市の歴史と魅力を探る旅!
  2. ​国宝が眠る、縄文時代の聖地・茅野市
    1. ​縄文時代に茅野市の台地が栄えていた理由に迫る!
      1. 諏訪湖がもたらした天然の食べ物
      2. 八ヶ岳が作り出す、​湧水(わき水)の宝庫
      3. 歴史的に茅野の台地を潤してきた、豊富な湧水
      4. 縄文時代、なぜ上諏訪や岡谷の地より茅野の方が栄えた?
    2. 縄文時代の常識を覆した、茅野の台地と遺跡
      1. ​移動が常識だった縄文時代でも「定住」しやすかったコンディション
      2. そもそも「定住」とは?
      3. 茅野の場合は縄文時代であっても「定住」が可能だった
      4. 豊富な食べ物が採れ、安定して住めた茅野の地
      5. 縄文時代の「常識」と、茅野の「例外」
      6. 一年中、食糧に困らなかった縄文時代の茅野
      7. ​半永久的な定住
  3. 茅野市が誇る縄文時代の発見・研究の数々
    1. 茅野でいうビーナスとは
      1. 尖石(とがりいし)石器時代遺跡とは?
      2. 巨石(尖石)は「ただの石」と間違えられなかった?
      3. 日本の考古学の父:エドワード・S・モース
      4. 宮坂英弌:縄文の「心」を掘り起こした人
      5. ​宮坂英弌と相沢忠洋
    2. ​縄文研究の聖地
      1. 尖石石器時代遺跡のエビデンス(証拠)
      2. ​黒曜石(こくようせき)
      3. 「矢じり」とは?
      4. 茅野の黒曜石の価値と使い道
      5. 黒曜石は他の地域では貴重で、​高く売れた?
    3. ​国宝と縄文密度のミステリー
      1. なぜ茅野に国宝が集中している?
      2. 圧倒的な人口密度、経済的な豊かさ
    4. 茅野市での縄文時代の研究と、日本史の知識
      1. ​茅野の研究が日本史を作った?
      2. ​「縄文農耕論」の議論と、集落の構造
      3. ​縄文の再評価
  4. 茅野市の名所・名物・地理・観光など
    1. ​茅野市の地理の不思議:標高差が生んだ「寒天」の知恵
      1. 寒い茅野市だからこそできる「各寒天」
      2. 機械を使わず、手作りと寒さを利用した角寒天
    2. 車山(くるまやま)とは
    3. ​茅野市の自然の厳しさとは?
      1. ​マイナス15度の世界、​凍上(とうじょう)
      2. ダイヤモンドダストとは?
    4. ​歴史と信仰:七不思議に彩られた「諏訪大社」
  5. 茅野市の土偶は妊婦さん?
    1. ​なぜ「妊婦さん」の姿をしているのか?
      1. 安産への祈り、子孫繁栄のため
      2. ​大地の豊穣(ほうじょう)
      3. そもそも「土偶」とは?
  6. 「茅野市」の由来は?
    1. ​由来その1:植物の「カヤ」が広がる野原
    2. ​由来その2:駅の名前が市になった!
      1. ​茅野駅の誕生、全国区へ さらに、町名から市名へ
  7. おわりに・まとめ

長野県茅野市(ちのし)

茅野市の歴史と魅力を探る旅!

中央本線・茅野駅(長野県茅野市)

中央本線・茅野駅(長野県茅野市)

​長野県の諏訪湖すわこの近くに位置する茅野市は、なんと市役所が全国一位の標高800mという、東京スカイツリー(=634m)よりも高い位置にある高原都市です。
しかしそれだけでなく、さらには自然の厳しさと豊かさが織りなす、驚きに満ちた物語がたくさん眠っているわけですよ!

茅野市の街並み(長野県茅野市)

茅野市の街並み(長野県茅野市)

今回はそんな長野県茅野市について、マニアックで面白い歴史をたっぷり追究してゆきましょう!
この知識があれば、茅野市の観光・旅行・探訪がさらに面白くなること間違いなしです!!

​国宝が眠る、縄文時代の聖地・茅野市

​まず驚くべきは、この地がかつて日本文化の中心地の一つだったことです。
すなわち、縄文時代には非常に高度な文明が栄えていました。

​縄文時代に茅野市の台地が栄えていた理由に迫る!

​かつて、縄文時代茅野周辺は、日本でと最も人口密度が高かったと言われています。
すなわち、当時の「日本の首都」のような賑わいだったのです!

諏訪湖がもたらした天然の食べ物

かつて茅野の台地に大きな恵みをもたらしてきた諏訪湖(長野県)

かつて茅野の台地に大きな恵みをもたらしてきた諏訪湖(長野県)

​まずは、何と言っても茅野市のすぐそばにある諏訪湖の存在・恩恵というものが大きかったのでした。訪湖湖は魚や貝などの食べ物が豊富で、水辺の暮らしを支えました。

まだ稲作が日本に伝わっていなかった時代、諏訪湖がもたらすたくさんの食べ物は、とても嬉しいものだったというわけですね。

諏訪湖については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

【長野県】諏訪湖の地理・歴史を、わかりやすく解説!
諏訪湖(長野県)の観光・歴史について、わかりやすく解説してゆきます!初心者や詳しくない方にも楽しめるよう解説していゆきます!そもそも、諏訪湖とは?諏訪湖すわこは、長野県の 諏訪市すわし 岡谷市おかやしのそれぞれにまたがる、標高約700mの地...

八ヶ岳が作り出す、​湧水(わき水)の宝庫

八ヶ岳(中央本線)(長野県)

八ヶ岳やつがたけとは、​長野県山梨県にそれぞれまたがる、いくつもの山の集まりです。
つまり八ヶ岳という単体の山が存在するわけでなく、複数の山々からなる連峰れんぽうを指して、八ヶ岳というわけです。

​そんな八ヶ岳最高峰は、赤岳あかだけであり、標高2,899メートルを誇ります。

歴史的に茅野の台地を潤してきた、豊富な湧水

この​茅野市の北にある八ヶやつがたけの雪が溶け、それが地下に潜り込んで地上に湧いて出てくる、清らかな湧水ゆうすいがいたる所にあり、飲み水に困りませんでした。
そのため、茅野の台地は水不足とは程遠かった土地で、住みやすかったのでした。

縄文時代、なぜ上諏訪や岡谷の地より茅野の方が栄えた?

ではなぜ​縄文時代に、上諏訪かみすわ岡谷おかやの地よりも、茅野の方が栄えたのでしょうか。

当時は、まだ堤防などの氾濫・洪水を防ぐ技術が無かったのでした。
そのため、諏訪湖のすぐそばや大きな川の近くは、大雨が降るとすぐに洪水になってしまうような危険な場所だったのでした。

しかし一方、​茅野の台地は洪水のリスクが低く、安心して暮らせるという、まさに​安全な高台でした。

このように、​豊かな水と食べ物があったからこそ、まだ稲作が無くて「移動が当然だった」時代にあっても人々は定住し、高度な文化を育むことができたわけですね。

縄文時代の常識を覆した、茅野の台地と遺跡

​移動が常識だった縄文時代でも「定住」しやすかったコンディション

縄文時代はまだ弥生時代のように稲作はありませんでしたから、マンモスを狩ったり、木の実を採集しながら移動して暮らすのが基本だったのでした。

そのため、一ヵ所に留まって永住するという定住は、基本的にはあまり一般的ではありませんでした。

そもそも「定住」とは?

ちなみに​定住ていじゅうとは、一ヵ所安定して、落ち着いて住み続けることをいいます。

この「定住」を実現させるためには、まず安定した保存のきく食料確保と、さらには冬の寒さをしのげるような頑丈な家(竪穴住居など)が必要になります。
縄文時代狩り採集が基本であることが多かったため、弥生時代稲作が一般的になるまでは、この「定住」は難しいと思われていたのでした。

茅野の場合は縄文時代であっても「定住」が可能だった

しかし、そんな定住が一般的ではなかった縄文時代
茅野にはそんな常識を覆す、「森の恵み」が溢れていました。

まず、茅野にはたくさんの​ドングリの森がありました。
広大な落葉広葉樹林があり、保存のきく(腐りにくい、備蓄しやすい)木の実が大量に採れました。

さらには、茅野の台地ではシカイノシシなどの野生動物豊富に存在し、狩りや食糧にはほとんど困りませんでした。

豊富な食べ物が採れ、安定して住めた茅野の地

​このように、縄文時代茅野では、あちこち移動しなくても、一つの場所に留まっていても十分に食べていける・暮らしていけるという、極めてミラクルな環境が整っていたのです。

これは当時の日本において、非常に珍しく恵まれたことでした!

縄文時代の「常識」と、茅野の「例外」

​一般的な歴史の教科書では

  • 弥生時代→稲作のはじまり=定住の始まり」と

教わることが多いですよね。
しかし先述の通り、茅野市を中心とした八ヶ岳麓の縄文文化は、その常識を覆しました。

一年中、食糧に困らなかった縄文時代の茅野

​先述の通り、縄文時代初期は、食べ物を探して移動するのが普通でした。
そんな中、​なぜ茅野では定住できたかというと、四季を通じて食べ物が途切れない「奇跡のエリア」だったからです。

すなわち、茅野には

  • 春は「山菜
  • 夏は「
  • 秋は大量の「木の実
  • 冬は「狩り

といった具合に、まるで移動せずとも一年中食卓が潤うという、他の地域と比べて恵まれた環境にあったのでした。

​半永久的な定住

また、茅野の尖石石器時代遺跡のような場所では、何百年・何千年とずーっと同じ場所に対して、(家を建て替えながらも)住み続けていたという形跡があります。

これは、

  • 農耕なしで、これほど高度定住社会を作った」

ことがわかるという、世界的に見ても極めて珍しい例なのです!

茅野市が誇る縄文時代の発見・研究の数々

国宝縄文のビーナス」とは、茅野市にある尖石石器時代遺跡とがりいしせっきじだいいせきから出土した、ふっくらとした形が美しい土偶どぐうです。

茅野でいうビーナスとは

​縄文のビーナスという名前は、発掘された土偶があまりにも美しく、堂々としていたことから付けられた愛称です。

土偶としての国宝第一号であり、日本で初めて国宝に指定された土偶である、歴史的なお宝です!

尖石(とがりいし)石器時代遺跡とは?

尖石石器時代遺跡とがりいしせっきじだいいせきとは​、茅野駅のやや北東にある遺跡です。
ここは、昭和の初めに宮坂英弌みやさかふさかずさんという考古学のエラい先生が情熱を注いで発掘したという、縄文時代のお宝がたくさん出てくる集落の跡です。

​名前の由来は、遺跡の近くに、先端が尖った不思議な巨石(尖石)があったことから名付けられました。

巨石(尖石)は「ただの石」と間違えられなかった?

ちなみに巨石(尖石)は、単なる「石ころ」と間違えられなかったのでしょうか?
実は、かつての尖石とがりいしは土に埋もれており、ほんの少し角が見えているだけのまさに「石ころ」のような状態でした。
したがって、知らない人(考古学の知識があまりない素人など)が見れば、「ただの邪魔な石」として片付けられていたかもしれません。

しかし、かつての地元の人々は「この石には何かあるぞ」と直感的に感じ、ずっと(捨てないよう)大切に守ってきたと言われています。
そして、先述の宮坂先生の情熱こそが、その一見すると「ただの石」の真の価値を、見事に掘り起こしたというわけですね。

日本の考古学の父:エドワード・S・モース

ちなみに、同じく​縄文時代の研究を語る上で、絶対に外せないのがエドワード・S・モースです。​
モースがいなければ、日本の考古学は数十年遅れていたと言われています。

彼は1877年、横浜から東京へ向かう列車の中から、大森貝塚おおもりかいづかを発見しました。
これが日本における近代考古学の幕開けとなったのです。

ちなみに​大森貝塚おおもりかいづかとは、東京都大田区大森にある、縄文時代の人々が食べた貝殻や、壊れた土器などを捨てていたた場所のことです。
現代でいうところの「ゴミ捨て場」のような感じではありますが、当時の生活を知るための貴重な情報の宝庫でもあります。

大森貝塚については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

鉄道唱歌 東海道編 第4番 大森を過ぎ、多摩川を渡り川崎へ
大森を過ぎると、多摩川を渡って、川崎に着きます。 大森貝塚、六郷の渡し、そして川崎大師に向かう関東初の「電車」の歴史。 鉄道唱歌の歌詞について、わかりやすく解説します!

​モースは大森貝塚の調査を行い、発掘された​土器の表面にあったなんとも不思議な模様を「Cord Marked(索紋)」と呼び、これが現在の「縄文」という言葉の由来になりました。

宮坂英弌:縄文の「心」を掘り起こした人

​一方で宮坂先生は、それまでは「未開で野蛮な時代」と思われていた縄文時代のイメージを、

八ヶ岳のふもとで、豊かな文化を育んだ黄金時代

というイメージへと塗り替えました。

すなわち、​もし「日本の歴史の授業」という枠組みで考えるなら、教科書に必ず載るモース最重要に見えるかもしれません。
しかし、日本の縄文文化の奥深さや、今のブームに繋がる「感動」を伝えたという意味では、宮坂英弌先生は現代において最も尊敬されるべき一人だと言えますね!

​宮坂英弌と相沢忠洋

宮坂英弌みやさかふさかず相沢忠洋あいざわただひろは、お二人とも「学問的な肩書き」ではなく自力情熱によぅて世紀の大発見をしたという、まさに純粋な探究心の持ち主です。
この点では、両者ともとても魂が似ていると言えるでしょう!

  • 宮坂英弌茅野の「縄文時代」の存在を証明した。
  • 相沢忠洋:群馬県の岩宿遺跡いわじゅくいせきにおいて、それまでの常識では日本に存在しないと信じられていた「旧石器時代」の存在があったことを証明した。

相沢忠洋および岩宿遺跡については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

岩宿遺跡(群馬県)について、わかりやすく解説!~一人のアマチュアの熱意が、常識を変えた物語
群馬県みどり市の岩宿遺跡と、歴史をその熱意で覆した相沢忠洋について、初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!岩宿遺跡の解説:はじめに​今回は、群馬県みどり市にある岩宿遺跡いわじゅくいせきの探訪・歴史と、​相沢忠洋あいざわただひろさんの、...

​お二人とも、たとえ周囲に反対されたとしても、「ここには絶対に何かある!」と信じて、遺跡を掘り続けたという情熱家ですね!

​縄文研究の聖地

ここで多くの発見があったおかげで、日本の縄文時代の研究が大きく進みました。

尖石石器時代遺跡のエビデンス(証拠)

​先述の通り、この遺跡からは何千点もの土器石器が見つかっています。

これは、長い年月にわたって、驚くほど多くの人々がこの場所で生活し、文化を繋いできたという、他ならぬ証拠(エビデンス)というわけですよ。

​黒曜石(こくようせき)

黒曜石こくようせきとは、火山から出てくるどろどろの液体であるマグマが急激に冷えて、融点を下回って固まった、黒い天然ガラスのことです。

これを割ると断面がまるで「カミソリ」のように鋭く切れ味がよくなるため、縄文時代には矢じり(武器)包丁(調理用)として重宝されました。

「矢じり」とは?

​​矢じり(やじり)とは、弓矢の先端につける、鋭いパーツのことです。
主に石や骨で作られており、獲物を狩るためには不可欠な道具でした。

茅野の黒曜石の価値と使い道

黒曜石は、茅野市にある星ヶほしがだいなどで採れる、天然のガラスです。
​割るとカミソリのように鋭くなるため、矢じり包丁として使われました。

これは、他の地域ではなかなか採れない​ような非常に貴重な資源です。
つまり、この石は条件のよい火山の近くでしか採れないわけです。
したがって、他の地域にはない「超レアアイテム」だったのです!

黒曜石は他の地域では貴重で、​高く売れた?

当時はお金がありませんでしたが、物々交換の場では、茅野の黒曜石は最高級の「ブランド品」として、遠く離れた北海道四国の物(=逆に茅野には無くて貴重なもの)と交換されていました。

すなわち、茅野にはあって相手にはないもの(逆もしかり)を、お互いに「交換(トレード)」して手に入れていたのです。

​国宝と縄文密度のミステリー

なぜ茅野に国宝が集中している?

​現在、土偶国宝は日本全国に5つしかありませんが、そのうち2つ茅野市にあります。
(※ちなみに、残りの3つは青森山形北海道にあります)

圧倒的な人口密度、経済的な豊かさ

また、縄文時代の当時の八ヶ岳麓人口密度は日本一だったと言われています。
人が多ければ、それだけ優れた土偶クリエイター(作り手)も集まってきます。

また、黒曜石の交易(トレード)によって得られた利益で茅野の地は豊かだったため、お祭りの道具である土偶に対して、並外れた情熱・コスト時間をかける余裕があったものと考えられています。

すなわち、茅野でこれほど精巧土偶が作られたということは、それだけ祈りや信仰の文化が、地域に深く根付いていたという証拠ですね。

茅野市での縄文時代の研究と、日本史の知識

​茅野の研究が日本史を作った?

茅野研究日本史を作ったともいえるほど、その影響力は絶大です!

宮坂英弌みやさかふさかず先生が尖石遺跡とがりいしいせきで発見した内容は、現代の教科書の土台になっています。

​「縄文農耕論」の議論と、集落の構造

ちなみに「縄文農耕論」の議論とは、茅野で色々と発見されたあまりに豊かな生活の痕跡などを見て、

  • 「実は縄文人も、原始的な農業をしていたのではないか?」

と浮かび上がったという議論です。すなわち、茅野市での研究は、これが巻き起こるきっかけになったというわけです。

また、とある​広場を中心に家が円状に並ぶという「環状集落」という縄文時代ならではのスタイルが判明したのも、ここでの研究が大きく貢献しています。

​縄文の再評価

それまで「原始的で何も無かった時代」と思われていた縄文時代のイメージを、「豊かで平和な黄金時代」へと塗り替えたのは、まさに茅野での発見だったのです!

茅野市は、日本史のテストに出てくる「縄文時代」のイメージそのものを作った場所と言っても過言ではありません。
したがって、ここを詳しく知ることは、日本人のルーツを知ることに直結しているわけですよ。

茅野市の名所・名物・地理・観光など

​茅野市の地理の不思議:標高差が生んだ「寒天」の知恵

茅野市は、市役所の標高が約800メートルもあり、さらに上は3,000メートル級の八ヶ岳へと続きます。

茅野市役所(標高801メートル)は、日本の「市」の中で、最も標高が高い場所にある市役所です。
(※町村を含めると、同じ長野県の南牧村役場などがさらに高い場所にあります)
まさに「空に一番近い市役所」ですね!

寒い茅野市だからこそできる「各寒天」

この地形・寒さが生んだユニークな特産品が「角寒天かくかんてん」です。
角寒天かくかんてんとは、茅野市で作られる、四角くて棒みたいな形をしたの寒天のことです。

​これは、冬の厳しい冷え込みを利用するのが特徴です。
すなわち、夜間に凍らせ、日中に溶かして乾燥させる作業を繰り返します。
機械を使わず、山の冷気太陽の光だけで作る伝統技法です。

機械を使わず、手作りと寒さを利用した角寒天

今でも茅野市天然寒天の主要な産地として知られています。
手作業で、冬の寒空の下で丁寧に干して作られています。
​機械で作る粉末寒天と違い、寒い冬を逆手に取って、美味しいものを作るという先人の知恵には、本当に頭が下がりますね!

車山(くるまやま)とは

車山くるまやまとは、霧ヶ峰きりがみねの最高峰(1,925メートル)です。
​360度のパノラマがあり、富士山・八ヶ岳・アルプスを一望できる絶景スポットです。

山頂には、日本の気象を監視する、大きな白いドーム型の気象レーダーがあります。

​茅野市の自然の厳しさとは?

茅野市の自然の厳しさは、なんといっても「極寒と乾燥」です。

​マイナス15度の世界、​凍上(とうじょう)

冬の朝は、ダイヤモンドダストが見えるほど冷え込みます。
寒さで地面の中の水分が凍ってしまい、地面が盛り上がってしまうことで、家や道路を壊してしまうこともあります。

しかし​茅野にはこの厳しさがあるからこそ、先ほどの「寒天」のような独自の文化が育まれたわけですね。

ダイヤモンドダストとは?

ちなみに​ダイヤモンドダストとは、空気中の水蒸気が凍ってしまい、まるで小さな氷の結晶のようになり、さらには太陽の光でキラキラと輝くという現象です。

主にマイナス10度以下の、とても寒くて太陽も照らすという日にしか見られない絶景です。

​歴史と信仰:七不思議に彩られた「諏訪大社」

​歴史を語る上で外せないのが、諏訪大社すわたいしゃ 上社前宮かみしゃまえみやの存在です。
日本最古級の神社の一つであり、全国にある諏訪神社発祥の地とも言われています。

ちなみに茅野市を含む諏訪地方において行われる​御柱祭おんばしらさいとは、正式名称を「式年造営御柱大祭しきねんぞうえいみはしらたいさい」といいます。
社殿における四つの隅に建つ「巨大な柱」を新しく立て直すという、1200年以上も続いているお祭りのことです。

諏訪大社 上社については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

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茅野市の土偶は妊婦さん?

実は、国宝縄文のビーナス(土偶)は、お腹が大きくふくらんだ妊婦さんの姿をしていると考えられているわけですよ。

​なぜ「妊婦さん」の姿をしているのか?

安産への祈り、子孫繁栄のため

縄文時代の人々にとって、新しい命が生まれることは、現代以上に奇跡的で神聖な出来事でした。
すなわち、土偶に込められた思いは安産祈願、すなわち命がけの出産無事に終わるようにという願いです。

安産祈願の歴史については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

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また、土偶には一族が決して途絶えることなく、逆に元気に増えて繁栄していく、という願いも込められていました。

​大地の豊穣(ほうじょう)

土偶のお腹のふくらみを「豊かな収穫」に見立て、食べ物に困らないようにと祈る対象でもあったようです。
豊穣ほうじょうとは、農作物が豊かに実ることをいいます。

昔の人にとって、食べ物がたくさん獲れることは、命をつなぐための最も大切なことでした。

そもそも「土偶」とは?

土偶どぐうとは、縄文時代に粘土で作られた人型の像のことです。
ほとんどが女性の姿をしており、生命の誕生や大地の豊かさを祝う儀式に使われました。

土偶どぐうの目的は、​先述の通り、単なる「人形」ではありません。
当時の人々にとっては、神様とつながるための大切な道具でした。
「​祈りの対象」として、安産や病気の回復、食べ物の豊作を神様にお願いするために作られました。

土偶については、こちらの記事でも語っていますので、ご覧ください

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「茅野市」の由来は?

茅野ちの」という名前、一度聞くと忘れられない響きですよね。

​由来その1:植物の「カヤ」が広がる野原

​最も一般的で有力な説は、文字通り「かや」が生い茂る野原だったというものです。

かやとは、屋根をふく(「吹く」ではなく「葺く」。覆うという意味)ために使われるススキなどの草のことです。
ススキチガヤなど、屋根をふく(覆う)材料に使われる植物の総称です。
昔の日本の家(茅葺き屋根)には欠かせない、とても身近で重要な植物でした。

まるで八ヶ岳の裾野・ふもとに、ススキがどこまでも広がる美しい光景が目に浮かびますね!

​由来その2:駅の名前が市になった!

​実は、「茅野市」という名前が定着したのには、鉄道の歴史も大きく関わっています。

​茅野駅の誕生、全国区へ さらに、町名から市名へ

明治時代、現在の市役所近くに茅野駅が作られました。
駅名として「茅野」の名が全国に知れ渡り、産業や観光の中心地として発展しました。

元々「茅野」はとある一つの小さな地名でしたが、駅の知名度があまりに高かったため、最終的に市全体の名前として採用されたというわけです。
​便利な駅の名前がそのまま街の代表になるなんて、現代らしい合理的な理由ですね!

このように、茅野市を観光するときは、かつての草花だけでなく、大昔の縄文時代の世界にも思いを馳せてみると楽しいですよ。

おわりに・まとめ

茅野市の地理や歴史を学んでみて、いかがだったでしょうか。

一見、厳しい寒さに見える環境も、実は「縄文時代の驚くべき環境」「黒曜石」や「寒天」という素晴らしい宝物を育む最高の条件でした。
これらを学ぶことで、次に茅野市を訪れる際には、見える景色がガラリと変わって見えるはずです!
このように、歴史を知ることは、旅を最高に贅沢な時間にする魔法だと言えますね!

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