鉄道唱歌 関西編 第20番 三重県津市・結城神社 結城宗広の後醍醐天皇への忠義の跡

まずは原文から!

町の社(やしろ)に祭らるゝ
神は結城(ゆうき)の宗廣(むねひろ)と
きこえし南朝(なんちょう)忠義(ちゅうぎ)の士(し)
まもるか今も君(きみ)が代(よ)を

さらに読みやすく!

町の社(やしろ)に祭らるる
神は結城(ゆうき)の宗広(むねひろ)と
きこえし南朝(なんちょう)忠義(ちゅうぎ)の士(し)
まもるか今も君(きみ)が代(よ)を

さあ、歌ってみよう!

♪まーちのやしろに まつらるるー
♪かーみはゆうきの むねひろとー
♪きこえしなんちょう ちゅうぎのし
♪まもるかいまもー きみがよをー

(紀勢本線)
亀山駅→一身田駅→津駅→阿漕駅→高茶屋駅→松阪駅→多気駅

(参宮線)
多気駅→田丸駅→宮川駅→伊勢市駅→二見浦駅(→至・鳥羽駅)

列車は、既に三重県津市(つし)に達しています。

三重県津市(つし)は、三重県の県庁所在地であり、また津駅からは鉄道唱歌の当時(明治時代)は参宮鉄道(さんぐうてつどう)という、私鉄による鉄道路線が出ていました(現代はJR紀勢本線という扱い)。
この参宮鉄道(さんぐうてつどう)は、亀山駅から津駅まで延びてきた鉄道を、さらに伊勢神宮へ参拝されるお客さんをターゲットとして乗せるために造られた民間の鉄道です。
明治時代は、国で造る鉄道のほかに、民間の金持ちが投資して造った線路(民間の鉄道会社)も多かったのです(当時はまだ自動車がなく、鉄道を造れば多くのお客様に乗ってもらえて利益が上がるからです)。
やがて日清戦争日露戦争などが激化し、鉄道は軍事物資を運ぶのに重要視され、1906年に民間の鉄道は国有化されます。それが戦後の国鉄時代を経て、現代のJR線に至っているのです。

参宮鉄道は、先述の通り現在はJR紀勢本線(きせいほんせん)の一部となっており、また現代のJR参宮線(さんぐうせん)はもっと南(松阪よりも南)の多気駅(たきえき)から東となっています
明治時代の「参宮鉄道」と、現代の「JR参宮線」を混同しないようにしましょう。

前置きが少し長くなりましたが、鉄道唱歌の歌詞の本題に入ります。

三重県津市には、かつて鎌倉後期に後醍醐天皇に誠心誠意尽くした武将である、結城宗広(ゆうきむねひろ)を祀(まつ)る結城神社(ゆうきじんじゃ)があります。

結城神社(ゆうきじんじゃ)は、津駅よりもむしろ一つ先の阿漕駅(あこぎえき、三重県津市)の方が最寄駅となっています。
しかし、その阿漕駅からも約1kmほど離れているため、青春18きっぷユーザーや徒歩で行く方々には若干きついかもしれません。

結城宗広(ゆうき むねひろ)とは、鎌倉時代の終わりに後醍醐天皇とともに討幕のために戦った武将です。
彼と同じく後醍醐天皇とともに戦った武将として、楠木正成(くすのき まさしげ)、新田義貞(にった よしさだ)、名和長年(なわ ながとし)、北畠顕家(きたばたけ あきいえ)などの存在があります。

結城宗広は後醍醐天皇に忠誠を誓い、先述の楠木正成(くすのきまさしげ)らと共に鎌倉幕府討伐のために戦いました。

鎌倉時代の終わり頃、鎌倉幕府の腐敗ぶりに不満を感じた後醍醐天皇は兵を挙げましたが、京都府木津川市(きづがわし)の東にある笠置山(かさぎやま)にて敗北し、後醍醐天皇は島根県沖の隠岐の島(おきのしま)に流されてしまいます。
この「笠置山(かさぎやま)の戦い」は、鉄道唱歌 関西・参宮・南海編 第10番でも歌われています。
鉄道唱歌 関西編 第10番 笠置山と元弘の変 鎌倉幕府を倒すための戦い

また、当時の元号を「元弘(げんこう)」というので、幕末の鎌倉幕府討伐の一連の戦いを「元弘の変(げんこうのへん)」といいます。

ここに鎌倉幕府の滅亡に向けた一連の戦いである「元弘の変(げんこうのへん)」がスタートします。

そして後醍醐天皇は隠岐の島を脱出し、名和長年(なわ ながとし)に迎えられます。
この天皇の舟(御船/みふね)を迎えた場所が、鳥取県の大山(だいせん)近くの御来屋(みくりや、鳥取県大山町)になります。
これは山陰鉄道唱歌 第20番でも歌われています。

山陰鉄道唱歌 第20番 大山のふもと、御来屋へ 後醍醐天皇の御船を迎えた、名和長年の功績

やがて楠木正成新田義貞らの活躍により、北条氏を滅ぼし、鎌倉幕府は滅亡。1333年のことです。

しかし、鎌倉幕府を滅ぼしたはいいものの、その後に後醍醐天皇によって行われた「建武の新政(けんむのしんせい)」は、公家(くげ)ばかり優遇し、武士に対して冷遇するものでした。

これに不満を持ち、後醍醐天皇を打倒しようとした武士の筆頭格が、足利尊氏(あしかが たかうじ)です。
後醍醐天皇に忠誠を誓う楠木正成らは、足利尊氏を一度は(京都から)九州へ追い払います。
しかし、足利尊氏は九州で力を蓄え、再び巻き返して京都へ進撃してきます。
もはやこれまで」と、最期を覚悟した楠木正成は、神戸の湊川(みなとがわ)で最期を迎えます。
これは鉄道唱歌 東海道編 第64番でも歌われている通りです。

鉄道唱歌 東海道編 第64番 楠木正成公と湊川 たとえ7回生まれ変わっても国を守りたい

足利尊氏に敗れた後醍醐天皇は、奈良県の南の山奥にある吉野(よしの)という地域に逃げ込みます。
この吉野の山の中に吉水神社(よしみずじんじゃ)という神社があり、この神社に南朝(なんちょう)という別の朝廷を築き、ここを拠点(皇居)としました。
一方、それまでの京都にある既存の朝廷を「北朝(ほくちょう)」といい、歴史上まれにみる「二つの朝廷が存在していた時代」となりました。この時代を「南北朝時代」といいます。
この南北二つの朝廷は、1392年に室町幕府三代将軍・足利義満によって統一されます。
また、吉野については鉄道唱歌 関西・参宮・南海編 第47番、第48番でも歌われています。

鉄道唱歌 関西編 第47番 吉野はかつて南朝だった 後醍醐天皇の皇居となった吉水神社 

鉄道唱歌 関西編 第48番 夕暮れの吉野・如意輪寺 楠木正行が残した、決死の鏃の文字の跡 

結城宗広はこのとき、後醍醐天皇と共に吉野に逃げたのですが、さらに彼の元々の出身地である福島県の白河(しらかわ。現代の福島県白河市)に向かおうとしたところでした。
吉野を出て地元の福島に帰る途中で、三重県の津市の辺りで力尽きてしまい、今、結城神社に祀(まつ)られているところというわけです。

ちなみに結城氏(ゆうきし)は、その一族の発祥が茨城県結城市(ゆうきし)になります。
結城市(ゆうきし)は、昔ながらの伝統工芸品である結城紬(ゆうきつむぎ)で有名です。
鉄道唱歌 奥州・磐城編 第8番でも「紬産地の結城あり」と歌われていますね。

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第8番 小山から水戸線へ 結城・岩瀬を訪問

(つむぎ)とは織物の一種です。結城紬は高度な技術によって造られるとても高級なものであり、なかなか一般人が買えるものではありません。

その茨城県結城市(ゆうきし)発祥の結城氏が福島県白河市(しらかわし)に移住し、その子孫として続いたのが「白河結城氏(しらかわゆうきし)」ということになります。
結城宗広も「白河結城氏」の一族に該当します。

鉄道唱歌には、このように後醍醐天皇がらみの武将に関するエピソードが非常に多く存在します。
旅行で名所旧跡の探訪の際には、こうしたことも覚えておくと、旅の楽しみが倍増するでしょう。

次は、阿漕(あこぎ)・高茶屋(たかちゃや)方面へ向かってゆきます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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