鉄道唱歌 関西編 第60番 堺市に到着!「ものの始まり」の街 貿易・水運・鋳造の歴史

まずは原文から!

堺(さかい)の濱(はま)の風景に
旅の心もうばはれて
汽車(きしゃ)のいづるも忘れたり
霞(かすむ)はそれか淡路島(あわじしま)

さらに読みやすく!

堺(さかい)の浜(はま)の風景に
旅の心もうばわれ(奪われ)て
汽車(きしゃ)のい(出)ずるも忘れたり
霞(かすむ)はそれか淡路島(あわじしま)

さあ、歌ってみよう!

♪さかいのはーまの ふうけいにー
♪たーびのこころも うばわれてー
♪きしゃのいづるも わすれたりー
♪かすむはそれかー あわじしまー

(南海本線)
和歌山市駅→紀ノ川駅(旧・和歌山北口駅)→(旧・深日駅跡)→尾崎駅→樽井駅→泉佐野駅→貝塚駅→岸和田駅→泉大津駅→羽衣駅→浜寺公園駅→湊駅→堺駅→(大和川)→住吉大社駅→天下茶屋駅→なんば駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。

浜寺公園駅(はまでらこうえんえき、大阪府堺市堺市)や湊駅(みなとえき、大阪府堺市)を過ぎると、やがて列車は堺駅(さかいえき、大阪府堺市)に着きます。

南海本線・堺駅(大阪府堺市)

大阪府堺市(さかいし)は、大阪府で第2の大きな都市です。
ものの始まりなんでも堺」という言葉があり、堺は様々なものの歴史の始まりであると言われます。
堺は戦国時代から貿易港として栄え、様々な外国の文化や技術が日本で一番最初に入ってくるのが、この堺だったからです。
その代表的なものに、「鉄砲」や「刃物」などの金属が挙げられます。
鉄砲は元々は種子島(たねがしま)にもたらされましたが、そこから真っ先に堺に入ってきました。
また、1549年にキリスト教を初めて日本に広めたことで知られる宣教師であるフランシスコ・ザビエルも、まずは鹿児島に上陸したのち薩摩で布教活動を行い、後に堺に上陸しています。
そのため、堺市には「ザビエル公園」があります。

堺市では刃物鉄砲などの製造が盛んに行われてきました。それは古墳時代から鍛冶屋(かじや)とよばれる職業の人がおり、 古墳を作る時に必要な鋳物(いもの。”鋳造(ちゅうぞう)”によって造られるもの)の生産が盛んだったからです。
鋳造(ちゅうぞう)とは、金属を作る作業のことを言います。
金属はふつうの温度だとカチンコチンの固体ですが、高温に熱するとドロドロの液体になります(融点を上回るから)。
そのドロドロ液体になった金属を、「刀」「食器」「ツボ」「道具」などの形をした「型(かた)」に流しこみ、再び冷やして(融点より下回らせて)固体にします。すると「刀「食器」「ツボ」「道具」の出来上がりです。
これがいわゆる「鋳造(ちゅうぞう)」であり、鋳造によってできたものを「鋳物(いもの)」といいます。

堺は「東洋のベニス」と言われたぐらい、水運が栄えた町でもありました。
「ベニス」とは、イタリアの「ヴェネツィア」という街のことです。ヴェネツィアは現代でも街中に運河が残っており、船で行き交う人や運河の多い街の代名詞となっています。
ではなぜ水運が街中にあるのかというと、昔はたくさんの荷物を運ぶにもトラックや道路などが無かったからです。
その代わり、街中に運河(人工的な川)を造って、舟を通り、荷物を運んでいたのです。それが昔は一番効率のよいやり方でした。

堺にはかつて町いっぱいに運河お濠(ほり)が掘られていたのですが、現在では埋め立てられてしまっていて、ほとんど残っていません。
なかには一部現存している運河もあれば(普通の川と見分けがつかない)、暗渠(あんきょ)といって地面に蓋(ふた)をされ地下を流れていたり、埋め立てられて道路などになっていたりします。

東京駅のすぐ東側の「外堀通り」という大きな道路も、元々は江戸城(皇居)の外堀(そとぼり)を埋め立てて造った道路です。

堺は「環濠都市(かんごうとし)」と呼ばれ、お濠(ほり)でガッチリと防御できる仕組みの町になっていました。
お濠(ほり)とは、町中に人工的な川を掘りめぐらし、敵の侵入を防ぐ役割を果たすバリアーのようなものです。
”運河をたくさん掘る技術がある”ということは、つまり”お濠をたくさん掘る技術がある”ということでもあります(逆もしかり)。
貿易港として膨大な利益を上げることができた堺は、戦国時代までは商人だけで町を運営するという、いわゆるどの武将や大名からの支配も受けない「自治都市」として繁栄していました。そして余計な武力干渉を受けないよう、西は海で守られ、北側・東側・南側はお濠でガードを固めるという、四方を水に囲まれた都市を築いていました。
そんな素晴らしい進んだ都市ですから、いちはやく織田信長豊臣秀吉に目を付けられ、自治都市機能は解体され、堺は彼らの支配下となりました。

堺市を訪れた際には、こうした「水運」や「環濠」などの跡をしのびながら観光してみるのも面白いでしょう。

歌詞についてですが、
堺の海の風景に、ついうっとり見とれてしまって、列車の発車時刻すら忘れてしまったよ。
遠く向こうに霞んで見えるのは、淡路島かな。

とあります。
現代の堺駅西側では(前回も解説したように)埋め立て地や工業地帯が多く存在し、(淡路島まで見渡せるような)海岸線はちょっと遠いと思います。
駅から徒歩だと、駅より少し西側から”港湾”や”埠頭(ふとう)”などの景色が見られれば充分だと考えられます。

しかし鉄道唱歌の当時の明治時代には、恐らく現代のような港湾施設や臨海工業地帯は無かったでしょうから、堺駅の西側から出たらすぐに淡路島まで見られるような海岸があったのでしょうね。
その景色にすっかり見とれてしまって、列車の発車時刻すら忘れてしまったということです。
そして遙か遠くに、淡路島の景色が霞んで見えた、という事なのでしょう。

次回も、堺市の話題となります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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