中央線鉄道唱歌の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
中央線・皇居・甲武鉄道・飯田橋駅の歴史などを、やさしく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
御濠にうかぶ松の影
榮行く御代の安らけく
列車は出づる飯田町
さらに読みやすく!
御濠にうかぶ 松の影
栄行く御代の 安らけく
列車は出ずる 飯田町
さあ、歌ってみよう!
♪みほりにうかぶー まつのかげー
♪さかゆくみーよの やすらげくー
♪れっしゃはいずる いいだまちー
飯田橋駅→市ヶ谷駅→四ツ谷駅→信濃町駅→新宿駅→大久保駅→中野駅→荻窪駅→吉祥寺駅→武蔵境駅→武蔵小金井駅→国分寺駅→立川駅→日野駅→豊田駅→八王子駅→高尾駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※現代の中央線の起点は東京駅
※飯田橋駅は、当時は飯田町駅と牛込駅に別れていた
「中央線鉄道唱歌」について
作者は、鉄道唱歌でおなじみの大和田建樹さんではない
中央線鉄道唱歌は、明治時代終わりの1911年に作られた、数ある鉄道唱歌のバージョンの1つです。
これまでの鉄道唱歌(東海道編、山陽・九州編)などは、鉄道唱歌ではお馴染みの大和田建樹さんによって作詞されていました。
しかし、大和田建樹さんは1910年に没しており、中央線鉄道唱歌はその後の時代に造られたため、別の方の作詞となっています。
中央線鉄道唱歌の「パブリックドメイン」についての補足説明
中央線鉄道唱歌の作詞は、福島寿久さんという方になります。
また、福島寿久さんが亡くなられてから、2018年12月30日の時点で50年経過されているとのことであるため、「中央線鉄道唱歌」の歌詞は、パブリックドメインとなっています。
「パブリックドメイン」とは?
ここで「パブリックドメイン」とは、著作権が失効し、誰でもその著作物(だったもの)を自由に使用してよい、という意味になります。
また、「2018年12月30日」という日付は、いわゆる「環太平洋パートナーシップ協定」という各国の取り決めが発効された日付であり、
この日の時点で、没後50年過ぎている場合には、「パブリックドメイン」という扱いとなり、著作権が失効します。
「環太平洋パートナーシップ協定」とは?
また、「環太平洋パートナーシップ協定」とは、
- 2016年に署名され、
- 2018年12月30日に発効した、
- 日本やアメリカを含む、太平洋をとりまく12カ国との間で結ばれた協定
となります。
逆に、この2018年12月30日の時点で、没後50年経っていない場合は、
- 著作権の有効期限が70年に延びる
という、ちょっと複雑な決まりになっています。
川端康成さんの小説の例:パブリックドメインとはなっていない
例えば、「伊豆の踊子」「雪国」で有名な川端康成さんは、1972年に没しています。
つまり、
- 2018年の時点で没後50年を経過して”いない”ため、
- 著作権の保護期間が”70年”となり、
- 2042年に、パブリックドメイン(著作権失効)
となります。
太宰治さんの小説の例:パブリックドメインとなっている
一方、「人間失格」や「走れメロス」で有名な太宰治さんは、1948年に没しています。
そのため、2018年の時点で没後50年経過していることになります。
したがって、彼の小説はパブリックドメインになっています。
ネット上で、太宰治さんの小説はいくらでも無料で読めるのに、川端康成さんの小説は無料では読めないのは、そのためですね。
大和田建樹さんの作詞に匹敵するほどの、中央線鉄道唱歌
話がかなり逸脱しましたが、元の話題に戻します。
中央線鉄道唱歌は、先述の通り”福山寿久”という方の作詞になります。
しかし、作詞の精度・センスは大和田建樹さんのものに匹敵するくらいのクオリティとなっています。
そのため、覚えて勉強する価値は、十分にあるといえます。
無数の「替え歌」が存在する、鉄道唱歌
また、無数の替え歌(や、オリジナル作詞バージョンなど)が存在するのも、鉄道唱歌の特徴です。
それは、鉄道唱歌ができてから100年経ち、その間に全国に(私鉄を含め)たくさんの鉄道路線が造られてきたから、という理由もあるでしょう。
私(筆者)も、かなりの鉄道唱歌の替え歌を、自作で持っています(公開しようか悩み中です)。
中央線とは?
前置きがかなり長くなりましたが、中央線の具体的な話題に入ってゆきましょう。
東京を出て、山梨・木曽路を経て名古屋に至る長大路線!
中央線は、
- 東京駅(東京都千代田区)から出発して、
- はるか西へ、山梨県・長野県(諏訪方面) を通り、
- 木曽路を通って、
- 最終的には名古屋駅(愛知県名古屋市)に至る
という路線です。
リニア中央新幹線の原型ともいえる、中央線
現在では「中央自動車道」が、諏訪方面を経由する鉄道のバイパス手段(つまり、中央線がトラブルを起こしたときの代替・迂回手段)の役割を果たしている(逆もしかり)となっています。
また、「リニア中央新幹線」の建設を巡るあれこれなど、色々と話題は白熱しています。
その(将来できるであろう)リニア中央新幹線のはるか原型となるのが、明治時代後半に作られた「中央線」となるわけです。
長大であるがゆえ、いくつかの区分・区域に分けられる中央線
「中央線」と一口に言っても、なにせ東京~名古屋と非常に長い区間を結ぶわけです。
そのため、地域や区間によって案内の仕方・呼び方が異なります。
東京~三鷹の区間では「中央線快速」「中央・総武線」が存在
例えば、東京~三鷹(東京都三鷹市)の区間であれば、
- 「オレンジ色」
- 「黄色」
の二つの車両が存在します。
オレンジ色は「中央線快速」
ここで、「オレンジ色」は「中央線快速」と呼ばれます。
東京駅~中野駅までの都心部の区間は、かなりの駅を飛ばします。
特に、東京駅~新宿駅を移動する際には、かなり速くて便利です。
黄色のラインカラーは「中央・総武線」
また、「黄色」のラインカラーは、「中央・総武線」と呼ばれます。
これは、三鷹駅を西の端っことして、東の千葉方面へ乗り入れる路線になります。
中央線と総武線(千葉方面へ行く列車)をそのまま直通運転しているため、「中央・総武線」と呼ばれるわけです。
三鷹~高尾(東京都八王子市)の区間は、引き続きオレンジ色の車両となります。
高尾から先(はるか西の名古屋まで)は、「中央本線」と案内されることが多いです。
カラーも「青」に変わります。
鉄道のラインカラーの役割
このような鉄道のラインカラーは、それぞれの路線を識別しやすくするために、それぞれの路線に割り当てられた色のことです。
ラインカラーは、
- 駅名標のイメージカラー
- 路線図を表す色
- 車両につける帯の色
などに使用されます。
ラインカラーは、利用者の誤乗防止や乗り換え案内の際に役立ちます。
塩尻駅(長野県)で、中央東線と中央西線に分かれる
そして、諏訪湖に近い
- 塩尻駅(長野県塩尻市)
を境にして、
- 東は「中央東線」
- 西は「中央西線」
と区分することもあります。
歌詞にある「霞たなびく大内や」の意味 皇居と江戸城の歴史
鉄道唱歌の歌詞の話題に入ります。
大内とは、江戸城つまり現代の皇居のことを言います。
「霞たなびく大内」というと、霧で江戸城が覆われているといったイメージになります。
江戸城は、徳川家康によって建てられたのではない
現在は皇居である江戸城は、実は室町時代の1457年に、太田道灌という人物に建てられたわけです。
室町時代の関東地方は、かつて幕府の存在していた神奈川県の鎌倉を監視するため、城などの防衛拠点は必要なのでした。
家康の関東入り以前に江戸城を作った、太田道灌
1603年に徳川家康が江戸幕府を開いたことから、江戸城は徳川家康が新築したものと誤解されやすいです(私も誤解していました)。
しかし、あくまで新築したのは室町時代の”太田道灌”という人物になります。
徳川家康は「関ヶ原の戦い」の後に、江戸に入ってきました。
そのとき、あくまで元々あった江戸城を改修(大きくバージョンアップ)をさせたのでした。
つまり家康は、江戸城そのものを造ったというわけではないわけです。

皇居・和田倉門付近の景色(東京都千代田区)
現在の中央線のスタート地点・東京駅の歴史
1914年に出来た、鉄道の歴史では比較的新しい駅
東京駅(東京都千代田区)は、1914年という、鉄道としては比較的遅い時期に建てられました。
鉄道が出来たのは1872年ですから、実に42年経ってから出来た(鉄道の歴史の中では)、新しい部類の駅なのです。
かつて、1925年に山手線が「環状」となるまでは、
というように、役割が決まっていたような雰囲気がありました。
かつては繋がっていなかった、上野~新橋間の線路
最初は、現代のように
- 上野駅~新橋駅
の区間は繋がっていませんでした。
すなわち、山手線はアルファベットの「C」の形だったわけです。
理由は、上野~新橋の間は、家屋がとにかく密集している土地でした。
そのため、で鉄道を建設していくことが困難だったためです。
関東大震災の2年後、上野~新橋間が開通
上野~新橋の線路が出来たのは、1923年の関東大震災において、それらの大量の家屋が焼失してしまい、更地(さらち)になったことも大きいといえます。
関東大震災では、上野~新橋間を含む地域は壊滅的な被害を受け、多くの家屋が焼失してしまいました。
しかし、何も無くなった焼け跡を、かえって有効利用するため、上野~新橋間に線路ができるようになりました。
やがて震災から2年後の1925年、現代のような環状の山手線となったわけです。
山手線は完全な環状ではない あくまで品川駅から田端駅までの区間
ただし厳密には、山手線はあくまで
- 品川→渋谷→新宿→池袋→田端
という、Cの字路線のことをいいます。
- 田端~東京間は、あくまで「東北線」
- 東京~品川間は、あくまで「東海道線」
という扱いになります。
しかし現代では、便宜上すべて「山手線」という案内をされています。
辰野金吾さんの設計による、東京駅
東京駅は、辰野金吾さんによる設計です。
20世紀初頭ならではの、レンガ作りの建築様式で知られます。
辰野金吾さんは、明治~大正にかけての建築家であり、佐賀県唐津市の出身です。
天皇陛下が皇居から東京駅まで通られる、「行幸通り」
東京駅の真ん中・中央部分からは、天皇陛下のお住まいになられる、皇居の方へ向かって延びています。
これを御幸通りといいます。
天皇陛下が、いわゆる「お召し列車」に乗って、全国あちこちを行幸される場合にも、この御幸通りから、東京駅の正面部分へ向かわれます。
そして、「お召し列車」に乗って行かれるわけです。
東京都千代田区は、一つの区で一つの国が成立してしまう!国の中心機関が密集している区
現在は
ほど、千代田区には
- 皇居
- 国会議事堂
- 霞ヶ関の「~省」「~庁」
- 内閣府庁舎
- 首相官邸
- 最高裁判所
など、ありとあらゆる重要な国の機関が集積しています。
逆にいえば、千代田区が激甚災害
など何らかの理由で壊滅してしまうと、国のほとんどの機能はストップしてしまいます。
しかしながら、首都機能の分散(例えば、大阪府などの東京から遠く離れた場所に、国の機関を引き継げるような体制)は整っていないのが現状です。
歌詞にある「飯田町」とは?飯田橋とは違うの?
歌詞にある飯田町駅とは、明治時代の甲武鉄道 による、現代の
- 飯田橋駅(東京都千代田区飯田橋)
の原型となる駅のことをいいます。
飯田橋駅のホームが、とても長い理由 「飯田町駅」と「牛込駅」
現在の「飯田橋駅」は、鉄道唱歌のできた明治時代は、
- 「飯田町駅」
- 「牛込駅」
の二つの駅に分かれていました。
現在の飯田橋駅の駅のホームが非常に長いのは、元々はこの二つの駅だったことに由来します。

飯田橋駅(東京都千代田区飯田橋)
歌詞「列車はいずる飯田町」の意味は?
ちなみに
と歌われており、まるで中央線鉄道唱歌が発表された1911年の時点での起点が、「飯田町駅」であるかのような印象を受けます。
しかし実際には、
- 1904年には、御茶ノ水駅まで延伸
- 1908年には、昌平橋駅(万世橋駅が出来た1912年には廃止)まで延伸
となっています。
そのため、歌が出来た1911年の時点では飯田町駅は「中間駅」という扱いのはずです。
そのため、「列車はいずる飯田町」と歌われている理由が、申し訳ありませんがよくわかりませんでした。
わかり次第、加筆修正します!
次回は、市ヶ谷・四ッ谷へ
次は、靖国神社の横を通り、市ヶ谷・四ツ谷方面へ向かってゆきます!
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