松尾芭蕉の名作『おくのほそ道』の旅路について、大まかなルートや有名な俳句の意味、そして隠された真の目的の謎までまとめました!

松尾芭蕉と象潟(現在の秋田県にかほ市)(画像はあくまでAIによるイメージです。)
松尾芭蕉による『おくのほそ道』の旅路をたどる

松尾芭蕉と日本三景・松島(画像はあくまでAIによるイメージです。)
松尾芭蕉が自身の門人である曾良とともに旅に出たのは、江戸時代はじめ(前半)にあたる、元禄2年(1689年)の春のことでした。
元禄:1688年から1704年まで続いた江戸時代の一部である、日本の時代区分です。
この時期は、平和な社会の中で芸術や学問が大きく発展しました。
松尾芭蕉の一番弟子・曾良(そら)とは
曾良とは、芭蕉のことを深く敬愛し、さらにはこの過酷な旅に同行して、さまざまな旅日記や日程記録を詳細に残した、松尾芭蕉の一番弟子です。フルネームは河合曾良です。
門人とは、例えば松尾芭蕉のような師匠について弟子となり、さらには学問や芸術を学ぶ人のことをいいます。
「おくのほそ道」大まかなルート
以下に、「おくのほそ道」大まかなルートを記載します。
- 住まいのある江戸(現在の東京都)の深川を旅立ち、
- 奥州街道(江戸から宇都宮までは日光街道と共通)を北上してゆき、
- 日光へ着きました。
- その後、東北の玄関口である白河の関を越えてみちのくへ進みました。
- 北へ北へと広大な東北地方へと進み、
- 宮城県の日本三景・松島に到着します。
- さらに北上し、岩手県の平泉に到着します。
- 東北から内陸部(山形県)に入ってゆきます。
- 山形県の立石寺を訪れます。
- 最上川を西へ下って行き、日本海側に到達します。
- そこからさらに北上、秋田県に入ります。
- 象潟を旅の北限とします。
- そのあとは、新潟県を日本海沿いに南下してゆきます。
- 出雲崎や、市振を経由して、さらに南下してゆきます。
- 北陸を順に巡り、そこからずっと南下してゆき、
- 最終目的地である、美濃(岐阜県)の大垣を目指しました。
難しい用語のやさしい解説
- 深川:江戸(東京)の東側に位置する、芭蕉の拠点・草庵があった場所です。
現在でいうと、東京都江東区にあたります。 - 草庵とは、茅や藁などの植物を使って屋根を葺いた、粗末で簡素な住まいのことです。

松尾芭蕉と深川(現在の東京都江東区)(画像はあくまでAIによるイメージです。)
ちなみに『おくのほそ道』のトータルの旅の総距離はなんと約2,400kmにも及ぶ、まさしく壮大な旅ですね!
ちなみにこの約2,400kmとは、地球一周(約40,000km)の「約17分の1」に相当する、当時としてはかなり果てしない距離でした。
難しい用語のやさしい解説
- 奥州街道:江戸から東北方面へと伸びる、まだ東北新幹線や東北本線、国道4号などが無かった時代の、何十日もかけて徒歩または馬で移動していた、江戸時代としては画期的だった主要な幹線道路のことです。
ちなみに奥州街道は、起点である江戸の日本橋から宇都宮宿までは、日光街道と全く同じ道を共用していました。 - みちのく:「道の奥」を意味し、当時の陸奥国(すなわち、現在の東北地方の太平洋側)のことをいいます。
- 細道:これは単なる狭い道のことではなく、より「奥深い場所へ続く旅路」を象徴する言葉です。
- 旅の目的:彼にとって昔の先輩の偉人である西行などの古人の足跡を辿り、句を詠むことにありました
- 西行:平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した歌人で、松尾芭蕉が人生の師として、深く尊敬していた人物です。
いわば「旅の大先輩」として、彼が深く尊敬していた人物です。

江戸時代の奥州街道。松尾芭蕉もかつてはこのような道を通って、はるばる旅をした。(画像はあくまでAIによるイメージです。)
松尾芭蕉の「おくのほそ道」の旅の「真の目的」とは!?
松尾芭蕉にとって旅の最大の目的は、古人の跡を尋ね、歌枕を訪ねることでした。
歌枕:古くから歌に詠まれてきた、有名な場所のことです。
つまり、今でいう旅行系YouTuberやインフルエンサーたちが競って訪れ、動画や写真に収めたくなるような「話題の有名スポット」や「聖地」のような存在でした。
それだけでなく、彼にとっては自分の人生の終わりを意識した、覚悟の旅であったようです。
- 歌枕と旅行系YouTuberの違いや意外な共通点:名所を実際に訪れてその魅力を発信・共有するという点に共通点があります
- 旅のもう一つの裏の目的:仙台の伊達藩の監視という事情も、実は裏側にあったとされています。
すなわち、彼は幕府の命令によって公儀の密偵(公儀隠密)として、(外様大名で遠隔地にあって幕府から警戒されていた)伊達藩の動き探るという、隠された任務があったという説も存在しています。 - そもそも、どうやって巨大な旅費を入手できたのか?謎すぎる件:それは、門人たちからの手厚い資金援助や、宿の提供などがあったためと言われています。
松尾芭蕉「おくのほそ道」の旅のスタート
深川から東北へ
ともあれ、まずは江戸の深川を出発した松尾芭蕉は、奥州街道を北へ進み、栃木県の日光を目指しました。
彼らは道中で、多くの名所を訪れてゆき、次々に感動を言葉に刻んでいきます。
- 日光:彼は東照宮の荘厳さに圧倒されてしまいます。
- 那須:また、彼は伝説の殺生石を訪れ、その石に伝わる恐ろしい伝説に思いを馳せました。

松尾芭蕉と日光(現在の栃木県日光市)(画像はあくまでAIによるイメージです。)

松尾芭蕉と、那須の殺生石(現在の栃木県那須郡那須町)(画像はあくまでAIによるイメージです。)
彼は栃木の日光で、建物や景色のあまりの荘厳さに大きな感銘を受けてしまったことから、
と詠みました。
「あらたふと 青葉若葉の 日の光」の簡単な意味は?
ちなみにこの詩の意味は、
- ああ、なんと尊いことだろう。
- 眩しいばかりの新緑の青葉や若葉に、
- 注ぎ込む日の光が、キラキラと照り映えている
という意味です。
「あらたふと(あらとうと)」は「ああ、尊い」という深い感動を表しています。
また、若葉に対して注ぐ「日の光」は、ここの地名・神社名である「日光」と掛け合わされた見事な表現となっています。
すなわち、徳川家康公を祀る日光東照宮の輝かしさと、輝く太陽の光への感動を表した句ですね!

江戸時代の日光東照宮(画像はあくまでAIによるイメージです。)
難しい用語のやさしい解説

栃木県・日光の観光(画像はあくまでAIによるイメージです。)
- 日光:現在でも栃木県北部に位置する、山岳信仰と歴史の重みが息づく景勝地です。
- 日光東照宮:徳川家康を祀るために建てられた、絢爛豪華な神社です。
- 殺生石:近づく生き物を死に至らしめると言い伝えられる、毒気を含んだ石のことです。
火山ガスが噴出する、草木の生えない岩場として人々に恐れられてきました。

江戸時代の日光東照宮・陽明門(画像はあくまでAIによるイメージです。)

松尾芭蕉と那須の殺生石(画像はあくまでAIによるイメージです。)
まるで物語の世界に足を踏み入れるようで、ドキドキしますね!
日本三景・松島へ到着 あまりにも絶景に言葉を失う

松島芭蕉と松島(画像はあくまでAIによるイメージです。)

日本三景・松島(画像はあくまでAIによるイメージです。実際の景色等ではありませんので、ご了承ください。)
松島では、芭蕉はあまりの絶景に言葉を失ったといいます。
彼はその眼の前の絶景に感極まってしまい、俳句を詠むこともできないほど、その美しさに圧倒されました。
有名な
という句は、実はなんと松尾芭蕉作ではなく、あくまでも後世の偽作であるとされています。
旅は東北の歴史的名所・平泉から、内陸部(山形県)へ
旅はさらに北上し、目的地の一つである、岩手県の平泉へと向かいました。
そしてこの平泉で、かつてこの地で黄金で金ピカの極楽浄土のような町(というかユートピア)を築き上げてきた奥州藤原氏の栄光と滅亡に対して涙します。

かつての平安時代・奥州藤原氏の時代の「金ピカの極楽浄土」だった頃の岩手県・平泉(画像はあくまでAIによるイメージです。)

昔の人々が想像した「極楽浄土」のイメージ。奥州藤原氏の時代は、まさにこのような世界を平泉に膨大な資金力で実現しようとしたのでした。(画像はAIによるイメージです)
このように、かつては栄華を誇った奥州藤原氏と平泉の文化も、1189年に、(後に鎌倉幕府を建設した)源頼朝によって滅ぼされてしまったのでした。
平泉を訪れた当時の源頼朝は、平泉のあまりにもの繁栄・金ピカぶりに驚いたと言います。
あまりにも有名な詩「夏草や兵どもが夢の跡」と、その意味は?
そんな平泉を江戸時代に訪れた松尾芭蕉は、
という名句を詠みました。その意味は、
- かつてこの地で勇猛に戦った武士たちの栄華(夢)も、
- 今は昔のこととなり、
- ただ草木である夏草だけが、まるで悲しく生い茂っているばかりだ
という、あまりの人生や歴史の凄惨さと儚さを表しています。
時代の流れと、栄枯盛衰の儚さを感じずにはいられませんね。
山形県の立石寺へ
その後、一行は厳しい山道を越え、山形県の立石寺へと向かいます。
立石寺とは、山形市にある古いお寺のことで、「山寺」とも呼ばれます。

松尾芭蕉と立石寺(現在の山形県山形市)(画像はあくまでAIによるイメージです。史実とは異なる描写がある可能性がありますので、ご了承ください。)
彼が立石寺へ向かったのは、現在の仙山線に該当するルートでした。
彼は現在のJR仙山線沿い(すなわち、仙台から山形へ抜けるルート)に近い道筋を進みました。
この寺は険しい岩山の上にあり、そこからの景色は絶景で、古くから天台宗の修行の場としても知られています。

松尾芭蕉と立石寺(現在の山形県山形市)(画像はあくまでAIによるイメージです。)
立石寺は、
という有名な句が生まれた場所です。
このように、彼は静寂な山寺で、蝉の声だけが岩に染み込んでいく、という様子を詠み上げました。
これを聞くと、心がシーンと澄み渡るような気がしますね!
最上川(山形県)から象潟(秋田県)へ

松尾芭蕉と最上川(現在の山形県)(画像はあくまでAIによるイメージです。)
立石寺の後は、内陸部の山形県の平野に入り、そこからは山形県最大の川である、流れの激しい最上川を下って、西海岸の日本海側へと出る旅の行程となりました。
激しい最上川を辿って、西海岸へ
このときの山形から(あまりに流れの激しい)最上川をずっと下っていくという旅は、まさに命がけの冒険そのものでした。
激流を下る舟の上で、彼は
と力強く詠んでいます。
「五月雨を あつめて早し 最上川」の簡単な意味は?
ちなみにこの詩の意味は、
- (延々と)降り続く梅雨(五月雨)の雨水を、
- (あちこちの水系のすべてから集めてきた)最上川の流れは、
- ますます水量を増して、
- なんと恐ろしいほどの早さで激しく流れていることよ
という、大自然の力強さと川のダイナミックな勢いを力強く描写した意味です。
そもそも「最上川」とは?
最上川とは、山形県を縦断して流れる大河のことで、当時から水運や物流の要所でした。
激しい流れを「五月雨(梅雨の雨)」に例えるという感性が、本当に素晴らしいですね!

松尾芭蕉と最上川(画像はあくまでAIによるイメージです。)
最上川は、山形県の歌にもなっています。
山形県民歌「最上川」として親しまれています。

江戸時代の最上川(画像はあくまでAIによるイメージです。)
象潟(現在の秋田県にかほ市)へ到着 旅の北限
そして現在の秋田県にかほ市にあたる、象潟へと足を伸ばしました。

松尾芭蕉と象潟(現在の秋田県にかほ市)(画像はあくまでAIによるイメージです。)
かつての象潟は、潮が引くといくつもの島々が浮かぶ美しい景勝地でした。
象潟は「西の松島」のように人気な観光地という位置づけであり、松尾芭蕉にとっては松島と同じくらい訪れたくなるような美しい多島美の場所でした。
象潟ははじめこそ松島のような場所だったものの、江戸時代を通じて様々な要因により陸地化してゆき、今は農地利用されるなど、かつての面影はなくなっている(より正確には、「水田の中に緑の島々が浮かぶ」という、独特の美しい風景が残されている)という、なんとも切なさを感じるような場所になっていますね!
松尾芭蕉が訪れた頃の象潟の様子は?陸地化はまだされていなかった?
当時の象潟は、まだ浅瀬の海に島々が浮かぶラグーンであり、陸地化したのは後の地震(文化地震)です。
- ラグーン:砂州などによって外海から隔てられた、浅い水深の入江や塩湖のことです。
- 文化地震(1804年の象潟地震):大地震によって、なんと地盤が2メートル以上も隆起してしまい、象潟のラグーンが一夜にして、それまでの「きれいな海」から完全な干潟・陸地へ変化した現象のことです。
余談:「景勝地」とは?「名勝」とはどう違う?
ちなみに(余談ですが)景勝地とは、自然の優れた風景が楽しめる場所の全般のことを指します。
つまり、後述する名勝とは違って、かなり広い意味を持った一般的な言葉になります。
一方、法令に基づいて国や自治体から公式に指定された文化財指定の場所を「名勝」と呼んで区別します。
つまり、名勝とは国や自治体に文化財として公式に指定された文化価値の高い場所のことをいいます。
一方の景勝地は、その(国からの)指定の有無にかかわらず、単純に景色が素晴らしい場所のことを意味します。
出雲崎から、北陸地方をさらに南下
厳しい東北の旅を終え、彼はやがて新潟県の出雲崎へと到着します。
出雲崎とは、現在の新潟県三島郡出雲崎町にある、日本海に面した海岸沿いの町です。
出雲崎は、海のはるか沖合に浮かぶ佐渡島を望む場所であり、その風景に孤独と宇宙的な広がりを感じたのでしょう。
ここからはさらに厳しい北陸の海岸線を歩く、過酷な道のりが待っていました。

松尾芭蕉と出雲崎(画像はあくまでAIによるイメージです。)
出雲崎で彼は、
という名句を残しました。
大垣へ続く道のり(市振→大垣)
北陸道をひたすら南下し、市振などの宿場で人々の温かさに触れながら、ついに美濃の大垣へと辿り着きます。
市振での遊女との切ない出会い
市振とは、現在の新潟県糸魚川市(越後と越中の境)にあたる宿場町です。
そしてこの市振という宿場町では、同じ宿に泊まった遊女との切ない出会いがありました。
遊女との出会いを、断腸の思いで断る
しかしながら、松尾芭蕉たちはこの遊女から
- 「(同じ道を行くのなら)せめて衣装の端でも並べて、
- 旅のお供をさせてくださいませんか」
といった感じで同行を頼まれるものの、事情により断り、詩句を交わした後に、涙ながらに彼女との別れを告げました。
その後も一行は厳しい北陸路を進み、旅を進めていきました。
ゴールの大垣へ
旅の最終目的地である、岐阜県(美濃)の大垣へと近づくにつれ、彼の体は疲労困憊でした。
彼の心は、多くの出会いと景色で満たされていました。
すなわち、この旅は松尾芭蕉にとって、魂の修行そのものだったのでした。

松尾芭蕉と大垣(画像はあくまでAIによるイメージです。)
満身創痍(疲労困憊)での大垣到着 しかし仲間たちに癒される
ついに大垣に到着したとき、彼はどのような気持ちだったのでしょうか。
- 彼の大垣での待望の到着を待っていた、友人たちとの再会
- 長く続いた、旅の終わりを惜しむ、温かな時間
旅を終えた松尾芭蕉は、体に激しい疲労を抱えた満身創痍の状態でしたが、それでも旧友たちとの再会を果たし、そこで温かい安らぎと充実感に包まれました。
江戸(東京)に帰る前に、まず 伊勢神宮に寄って帰ることに
その後、松尾芭蕉は江戸に帰還する前に、まずは三重県の伊勢神宮の遷宮拝観に向かいました。
ちなみに遷宮拝観とは、(20年に一度、社殿を建て替えて神様をお遷しするための儀式である)「式年遷宮」にあわせて、新しくなった社殿やお参りの様子を拝観・参拝することをいいます。
その後の松尾芭蕉の東京(江戸)への帰還ルートは?
温泉や名所を巡りつつ、彼は最終的に江戸へ戻る際には、中山道や東海道などのルートを通って帰還しました。
彼は大垣から、水門川や揖斐川の水運(つまり、舟を列車がわりのように乗って)を利用して桑名(三重県)へ渡り、そこから東海道に入りました。
さらに熱田(愛知県)などを経て、主要な街道を乗り継ぎながら、無事に江戸へと帰還するルートを辿りました。
「おくのほそ道」の謎?
なぜあんなに健脚だったのか
松尾芭蕉がなぜあんなに約2400km(地球17分の1の距離)も歩けるほどの、健康的で健脚だったのが気になりますよね。
それには彼自身の出身地である三重県の伊賀上野において強く鍛えられた過去や、さらには薬の知識などの持ち前のノウハウが要因にあったとされています。
彼は忍者の郷である三重県の伊賀地方の出身で、修験道や持病の薬の扱いに長けていたという説があります。
彼の地元である伊賀地方は、山に囲まれた独特な険しい地勢から、歴史的に隠密行動や武術が発達してゆき、独自の忍者(伊賀流忍者)の発祥の地として知られています。
ちなみに修験道とは、山へ籠って厳しい修行を行うことで、超自然的な力を得るという、日本古来の宗教のことです。
「おくのほそ道」旅の総括
芭蕉の旅の総意・真意とは?
このように、彼の旅は単なる観光ではありませんでした。
すなわち、それぞれ訪れた土地で歴史の哀愁を肌で感じるという、まさに深い思索の旅だったというわけです。
「おくのほそ道」が後世に与えた影響
「おくのほそ道」は、五七五の「五句」を基本とする俳句文化を日本全国に広く普及させました。
そのほか、さらに紀行文というジャンルを確立して、現代の「一人旅」や「聖地巡礼ツーリズム」の文化的ルーツを創り出すなど、後世に計り知れない影響を与えました。
おわりに・まとめ
『おくのほそ道』は、日本の美しさと歴史の重みを感じられる素晴らしい作品です。
つまり松尾芭蕉の人生をかけた大冒険の記録であり、また弟子である曾良とともに歩んだ長い道のりには、本当に圧倒されてしまいます!
旅の途中で詠まれた名句の数々は、今も多くの人々の心を捉えて離しません。
そして、彼が残した言葉や足跡は、後世の文化にも大きな影響を与えました。
なぜあれほど健脚だったのかという謎も、歴史のロマンを感じさせて面白いですね!
さらに、各地の美しい風景に思いを馳せると、旅に出たい気持ちが高まってきます。
ぜひあなたも『おくのほそ道』の足跡をたどり、名句の生まれた景色を味わってみてください!
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