まずは原文から!
下諏訪町(しもすわまち)は明神(みょうじん)の
御船(おふね)祭りに賑(にぎ)はひて
下社(しもしゃ)の森の木立(こだち)には
水戸(みと)の浪士(ろうし)の物語(ものがたり)
さらに読みやすく!
下諏訪町(しもすわまち)は明神(みょうじん)の
御船(おふね)祭りに賑(にぎ)わいて
下社(しもしゃ)の森の木立(こだち)には
水戸(みと)の浪士(ろうし)の物語(ものがたり)
さあ、歌ってみよう!
♪しもすわまーちは みょうじんの
♪おーふねまつりに にぎわいてー
♪しもしゃのもりの こだちにはー
♪みーとのろうしの ものがたりー
(中央東線)
甲府駅→竜王駅→韮崎駅→新府駅→日野春駅→小淵沢駅→富士見駅→青柳駅→茅野駅→上諏訪駅→下諏訪駅→岡谷駅(→至・塩尻駅)
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
上諏訪駅を出て、やがて下諏訪駅へ
諏訪湖などの観光を終えた後は、再び上諏訪駅(かみすわえき、長野県諏訪市)を出発して、ほどなくして下諏訪駅(しもすわえき、長野県下諏訪郡下諏訪町)に到着します。
中山道の宿場町・下諏訪宿
下諏訪町には、中山道の宿場町であった下諏訪宿(しもすわしゅく)があります。
下諏訪宿(しもすわしゅく)は、甲州街道(こうしゅうかいどう)と中山道(なかせんどう)の合流地点でもあります。
逆(京都)側からみれば、下諏訪宿が中山道と甲州街道との分岐点というわけです。
中山道(なかせんどう)とは、江戸時代に江戸から京都まで、徒歩または馬で約20日間かけて通った道です。途中で旅人たちが泊まるための町を、宿場町といいます。中山道は、埼玉県、群馬県、長野県を経て、ここ下諏訪で甲州街道と合流します。甲州街道(こうしゅうかいどう)は、新宿から山梨県と長野県を通り、ここ下諏訪で合流する道です。
軽井沢の信濃追分(しなのおいわけ)から分岐して、和田峠(わだとうげ)という難所を通ってくるわけです。
和田峠(わだとうげ)は昼でも鬱蒼(うっそう)としていて暗く、道が非常に狭くて泥濘(ぬかる)んでいたりするので、江戸時代の旅人たちを苦しめてきました。
そんな旅人とちにとって、下諏訪宿と諏訪湖の存在は、一休みと癒やしの空間として大いに盛り上がりました。
しかし、下諏訪宿を出ると今度は塩尻峠(しおじりとうげ)という難所を控えているため、これも旅人たちにとっては憂鬱だったことでしょう。
ちなみに信越本線が出来たばかりのころ(=中央線がまだ出来ていないころ)は、諏訪湖へ行きたければ、以下のようなルートを通っていました。
東京(江戸)→大宮→高崎→碓氷峠(うすいとうげ)→軽井沢→小諸(こもろ)→大屋(おおや)→和田峠→下諏訪
のように、鉄道で長野県の大屋駅(おおやえき)までは鉄道で向かい、そこから徒歩または馬で和田峠を通って諏訪湖まで向かっていたのでした。
さらに言うと、上記の信越本線ができるまでは、東京(江戸)から諏訪湖まで行きたければ、本当に甲州街道を通るしかありませんでした。
つまり、諏訪湖で生産された生糸などを江戸に出荷するにも、甲州街道を通って運ぶしかなかったのです。
これはせっかく作った製品を大雨で濡れて使い物にならなくなるリスクや、山賊に襲われて略奪される(返して欲しくば金よこせ、というやつです)リスクもありました。
信越本線ができてからは、諏訪地域で生産された生糸は和田峠を通って運ばれ(山賊に略奪されるリスクもあった)、大屋駅からはさらに信越本線で(貨物列車で)東京へ運ばれたようです。
中央線ができてからは、東京から鉄道一本で諏訪湖まで来られるようになりました。
つまり、人々は険しい和田峠を通る必要が無くなったわけです。
これにより、東京からの諏訪湖へのアクセスは一気に向上しました。
下諏訪の「御船祭り」
下諏訪では、「御船祭り(みふねまつり)」というお祭りが毎年8月と、翌年2月に行われます。
「御船祭り」は、諏訪大社・下社(しもしゃ)の、半年ごと(8月と2月)に神様をお船に乗せて移動するというお祭りです。
諏訪大社には、上社(かみしゃ)も下社(しもしゃ)があり、下諏訪には「下社」があります。
その下社にも「春社(しゅんしゃ)」と「秋社(しゅうしゃ)」があり、半年ごとに両社間で神様を移動させるのが「御船祭り」になります。
8月になると神様を「秋社」に、2月になると「春社」に神様を移します。
8月は暦(こよみ)の上では「秋」なので、8月に行われるわけですね。
この「船」はすなわち神様を乗せた船であり、船だからといって特に「海」や「湖」の上をいくわけではなく、あくまで陸を通ります。同じく陸を行く神輿(みこし)や山車(だし)にも、(豊作や商売繁盛の)神様が宿るとされています。それと似ていますね。
ではなぜ「御船祭り」で半年に1回、神様を秋社~春社の間で移動させるのか。それは恐らくですが、諏訪地域の「豊作」「商売繁盛」などを願ってのことでしょう。
昔むかし、タケミナカタの神様が諏訪に降り立ったときに、「御船祭り」で使われている船に乗って、諏訪地域はきちんと豊作になっているか、などのチェック(現代でいう「監査」?)を行ったといいます。
水戸の天狗党が戦った、下諏訪の北にある和田峠
そして歌詞には
「下社の森の小立には 水戸の浪士のものがたり」
とあります。
これは幕末の「天狗党の戦い(てんぐとうのたたかい)」という、水戸浪士(みとろうし)がかつて戦ったエピソードと関係してきます。
それは幕末の尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう)の時代です。
水戸浪士(水戸のちょっと色々あって落ちぶれた武士のこと)たちは「水戸学」といって、本居宣長(もとおり のりなが)の研究した「国学(こくがく)」から影響を受けた人々になります。
本居宣長は、三重県松阪市出身の国学者です。難解な古事記(こじき)の内容を研究し、わかりやすく解説した「古事記伝(こじきでん)」という著作で知られます。
そして、幕末の欧米列強が迫り来る中、「外国勢力を排除して、天皇のを中心とした国を守ろう」という勢力が力をつけてきます。これが尊王攘夷派です。
しかも「話し合い」などの穏便(おんびん)な手段ではなく、「武力」による過激なやり方で物事を解決しようとする(世の中を変えようとする勢力になります。水戸浪士たちはこのときの尊皇攘夷派になります。
水戸浪士たちは、最初は地元に近い茨城県の筑波山(つくばやま)で、京都を目指して挙兵しました。
そして栃木県や群馬県を通って西へ進み、碓氷峠(うすいとうげ)を越えて、中山道(なかせんどう)のルートに従って彼らはどんどん西へと進んでゆきます。
そして下諏訪のやや北の和田峠において、「水戸の浪士」たちは旧幕府軍と戦うことになりました。
ここで勝利し、下諏訪からさらに西の琵琶湖へと進んでゆきます。
しかしここで足止めを喰らってしまい、敦賀(つるが。福井県敦賀市)の地にゆきます。
そして最期は、リーダーの武田耕雲斎(たけだ こううんさい)は敦賀で捕まり、処刑されてしまいました。
鉄道唱歌 北陸編 第67番でも
「身を勤王(きんのう)にとおしたる 耕雲斉(こううんさい)の碑をとへば
松の木かげを指さして あれと子供(こども)はおしえたり」
と歌われていますね。
鉄道唱歌 北陸編 第67番 敦賀の気比の松原 天狗党・武田耕雲斉のあと
次は、岡谷駅に止まります!
注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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