三山時代とは?沖縄が北山・中山・南山に分かれた戦国時代と尚巴志による琉球王国統一の歴史を、わかりやすく解説してゆきます!

沖縄の海(画像はあくまでAIによるイメージです。実際の景色ではありませんので、ご了承ください。)
沖縄の三山時代とは?島が3つに分かれた戦国時代
三山時代の基本概要と、日本の戦国時代との比較

沖縄の海(画像はあくまでAIによるイメージです。)
三山時代とは、かつて日本が室町時代だった14世紀初頭から1429年まで、沖縄本島が3つの勢力に分かれて争っていた時代です。
本州でいうまるで「戦国時代」のような、沖縄の強い者同士が戦っていたというまさに群雄割拠の時代ですね!
すなわち、日本も約50年後の応仁の乱をきっかけに戦国時代に入っていくため、沖縄での少し早い戦国時代でした。
三山時代における3つの勢力
当時は沖縄本島が3つのエリアに分かれ、以下の3つの勢力が競い合っていました。
- 北山:沖縄本島北部を支配。沖縄本島の北半分あたりを占めていた広大なエリアでした。
- 中山:沖縄本島中部を中心に支配。現在の那覇市や浦添市を中心にあたる地域です。
- 南山:沖縄本島南部を支配。現在の糸満市などにあたる場所です。
この3つをまとめて「三山」と呼びます。
読み方は「さんせん」ではありませんので気をつけましょう。
すなわち、これらの3つのエリアに分かれて戦っていたのは、後に尚巴志という偉大な人物によって沖縄が1つの国(琉球王国)になる前の大事な助走期間だったのでした。
独自の魅力を持つ3つの勢力と明王朝との関係
これらの沖縄県を3つに分裂していた3つのエリアは、それぞれが拠点となるグスク(お城)を持ち、個性豊かな発展を遂げました。
沖縄県ではお城のことをグスクと呼び、それは現在でも中城のように、地名にも由来として残っています。
按司(あじ)とは?
按司とは、沖縄の各地を治めていた有力な豪族・首長のことです。
すなわち、地元の中でたくさんの力やお金を持った権力者たちの集団という意味です。
そして、沖縄ではこの按司同士が(後に尚巴志によって統一されるまで)分裂して戦っていました。
すなわち、按司とはまるで日本の「源氏」「平氏」などのような、とても強い武士団のリーダーのような存在ですね!
三山時代を形作った3大勢力の特徴
北山(ほくざん)
- 拠点:今帰仁グスク(現在の国頭郡今帰仁村)
- 特徴:現在の沖縄本島のうち、じつに北半分をしめるような広大な土地と武力を持ち、しかもかなり屈強な兵たちが集まるような、とても強い軍事強国でした。
中山(ちゅうざん)
- 拠点:浦添グスク(現在の那覇市の北にある浦添市)、のちに首里城(現在の那覇市)
- 特徴:とても強くて大きな港(那覇)を抱え、さらには明との貿易で優遇されたことから、三山の中で一番早く巨万の富を築きました。
南山(なんざん)
- 拠点:南山グスク(大里グスク)(現在の糸満市)
- 特徴:豊かな農地と海運力を持ち、最後まで(那覇市の首里を拠点とする)中山と激しく対立しました。
そもそも、なぜ3つのエリアに分かれていたのか
では、なぜ三山時代のように、3つのエリアに分かれていたのか気になりますよね。
日本の歴史と重なる争いの原点
それは日本の弥生時代から古墳時代にかけて、
- 国内に稲作が浸透して、
- うまく収穫できた人とできなかった人の間で貧富の差ができてしまい、
- より稲が育つ水田の土地を巡って争いが起きて、
- 豪族という強い者のリーダーの集まりができ、
- お互いが国内で争うようになってカオスな時代になった
という経緯とよく似ています。
沖縄への稲作伝来とお米の価値
沖縄はもともとは暖かい土地であるためサトウキビがたくさん育ち、稲作などする必要はありませんでした。
しかしながら、15世紀ごろになると沖縄でも稲作が行われるようになり、保存性に優れているお米の便利さが、日本の弥生時代から千年も遅れて沖縄でも認められるようになってきました。
水田を巡る争いと按司の台頭
ところが、そのように稲作が沖縄でも盛んになってくると、より水田の確保がしやすい土地を求めて、争いが起きるようになっていきます。
ここから先は、日本で弥生時代から豪族同士で争うようになった歴史と全く同じです。
このようにして誕生した沖縄の豪族のことを、按司と呼ぶわけですね!

三山時代における明との外交と貿易合戦
これらの沖縄を3つに分裂していた3つの勢力は、単に武力で戦うだけではありませんでした。
というのも、当時の大陸を支配していた明の皇帝へのアピール合戦も繰り広げたというわけです。
つまり明の皇帝から、正式に沖縄の勢力と認めてもらえば、貿易で優遇してもらえる可能性もあったのでした。
そのため、3つの勢力は貿易に勝利するためにも、負けるわけにはいかなかったのでした。
したがって、3つの勢力の争いは、単に優劣を競うだけではなく、経済力や外交力も勝敗を分ける大きなカギだったのですね!
「朝貢貿易」「冊封」とは
莫大な利益を生んだ「朝貢貿易」の仕組み
朝貢貿易とは、明の皇帝にお礼の品を贈り、その何倍ものお返しをもらう貿易のことです。
- 明側のメリット:周りの国を従えて、皇帝の偉大さをアピールできることですね。
- 沖縄(三山)側のメリット:贈り物よりもずっと豪華なお宝や焼き物、鉄製品をたっぷりもらえることです。
このようにして、沖縄側に莫大な利益をもたらす特別な貿易特権でした!
この大きな利益を得るために、3つの勢力は、明から正式な強い勢力として認められる必要があったため、(他のエリアに)負けるわけにはいかなかったのでした。
支配の正統性を得られた「冊封」の重要性
冊封とは、明の皇帝が「あなたがその土地の正式な国王である」と公認する儀式のことです。
例えば、沖縄側が「正式にこの人が国王だ!」と一方的に主張しても、明側からそのように正式に認められないと、正式な国王として貿易などで優遇を受けることはできないという、当時ならではの厳しい仕組みでした。
貿易特権を得るための、皇帝への信頼づくり
これは現在のビジネスもそうですが、信頼できない相手とはどこも取引などしたくないですよね。
裏切られるかもしれませんし、代金を支払わなかったり、利益を独り占めされるかもしれません。
なので当時の明の皇帝としても、それだけの(沖縄側の膨大な利益などの)メリットを与えるためには、取引相手の国を正式なリーダー・国王として認める必要性があったのでした。
つまり3つの勢力(三山)は、明から正式な国王として認めてもらう(優遇してもらう)ために、絶対に争いで負けるわけにはいかなかったのでした。
国内外に示す「正統性」という大きな武器
このように当時の3つに分かれた沖縄の勢力たちは、
- 明の皇帝からの正式なお墨付きを得ることで、
- 国内外に対して、強い正当性を示すことができた(つまり、適当に作った自称の国家ではないということを示すことができた)
というわけです。
明への朝貢開始と、三山の競合
当時、明の初代皇帝・洪武帝は、周辺地域に使者を送って朝貢を促しました。
皇帝は、自らの権威を誇示して、周辺の諸国を従えるための冊封体制を築きたいという狙いがあったのでした。
そのため、この仕組みに応じた国に対しては破格の貿易の利益や手厚いサポートを与える、という狙いがあったというわけです。
三山時代における明へのアプローチと、中山(那覇市周辺)の優位
この明の皇帝の呼びかけに沖縄でいち早く応じたのが、中山王・察度です。
つまり、現代でも最も栄えている那覇市にあたるエリアのリーダーですね。
すなわち、(当時からとても発展していた)素晴らしい良港である那覇を抱えていた中山は、地理的に海外への情報網が速く、北山や南山に先駆けて朝貢を開始してゆきました。
そして、莫大な富と(貿易の正式なリーダーとしての)正当性を、いち早く手に入れました。
続いて、山南(南山)や山北(北山)も明へと朝貢を開始しました。
すなわち、三山すべてがそれぞれ独自に明の皇帝と君臣関係を結んでいた、というわけです。
英雄・尚巴志による三山の統一
この三つ巴の争いを終わらせたのが、中山出身の英雄である尚巴志です。
彼が成し遂げた統一の歩みは、本当にドラマチックですね!
- 1406年:中山の王位を奪取して、拠点を(浦添から)首里に移す
- 1416年:難攻不落といわれた北山を滅ぼす
- 1429年:南山を滅ぼして、島を完全統一
このようにして1429年、尚巴志の力によってついに沖縄本島が1つにまとまりました。
なぜ尚巴志は、かつての強者たちを制圧することができたのか?
ここで、それまでのどの国も3つのエリアを統一することはできなかったわけですが、なぜ尚巴志だけがそれをできたのか気になりますよね。
実は尚巴志は、ただ戦いが強かっただけではなかったのでした。
つまり、頭も非常に良かったのです。
すなわち、貿易で手に入れた貴重な鉄やお金を使って、周辺の仲間たちを上手に味方につけていきました。
さらに、とても頭の良い軍師(つまり戦いについて熟知して色々アドバイスする、頭のいい専門家)をスカウトしたり、またライバル同士の仲間割れや揉めごとに付け入りうまく利用するなどのチャンスを絶対に見逃さなかったりしました。
このように、尚巴志はまさに知恵と人の心を掴む天才だったからこそ、強いライバルたちを次々に倒して島をまとめ上げることができたのですね!
逆に、尚巴志以外の勢力や強者では、三山統一は難しかったのか?
ちなみに、他のリーダーたちでは島をひとつにまとめるのはとても難しかったといえます。
なぜなら、ほかの勢力はお互いにプライドが高く、武力だけで力づくで相手をねじ伏せようとしていたからです。
これでは、周りの仲間たちも本気でついていこうとは思いませんよね。
一方で尚巴志は、相手の弱みをじっくり見極めながら、お宝や鉄を(褒美として)分け与えて信頼を集めるという、まさに大人の知恵を持っていました。
この器の大きさと柔軟な発想の差が、決定的な違いを生んだのですね!
三山時代の終焉と琉球王国の成立
明から下賜された「尚」の姓と、琉球王国の成立
このように、晴れて琉球王国を建国した尚巴志は、明の皇帝・宣徳帝から「尚」の姓を賜り(下賜され)ました。
このようにして琉球王国は、明からも正式に認められた統一王朝となったのです。
つまり自称国家ではなく、明から対外的に正式に認められた国家ということになります。

琉球王国のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)
すなわち、ここに歴史に名高い「琉球王国」の誕生となり、また激動の歴史を歩んでいくということになるわけです。
薩摩藩の侵攻から、近代の沖縄県設置へ
琉球王国は、のちの江戸時代には日本の薩摩藩(現在の鹿児島県)の侵攻を受けて支配下に置かれ、不平等な貿易を強いられるなど苦難の時代も経験しますが、やがて明治時代に沖縄県が設置される(琉球処分)まで、約450年もの長きにわたり、誇り高き独立王国として栄え続けました。
そして明治時代以降は、琉球王国は沖縄県として、(それまでは蝦夷地と呼ばれており、日本の一部ではなかった)北海道と同じように、正式に日本の一部として、強い近代国家の一員として成長していくことになるというわけです。
おわりに・まとめ
ちなみに、沖縄本線という架空の鉄道路線の旅で沖縄の地理・歴史について楽しく学べる、当サイトがAIで独自に作成した「鉄道唱歌 沖縄編」については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

今回学習した三山時代は、北山・中山・南山が覇権を競い合いながら、明との外交や海洋貿易を通じて独自の文化と経済力を磨き上げた、沖縄史において極めてエネルギッシュな時代でした。
尚巴志による統一を経て誕生した琉球王国は、この時代に培われた国際色豊かな交流を活かし、のちに大貿易時代を築き上げていったわけです。
今も沖縄に残る壮大なグスクの石垣を訪れる際は、かつての英雄たちが繰り広げた熱い歴史ロマンに、ぜひ思いを馳せてみてくださいね!
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