鉄道唱歌 東海道編 第7番 鎌倉観光 鶴ヶ岡八幡宮と大銀杏

まずは原文から!

八幡宮(はちまんぐう)の石段(いしだん)に
立てる一木(ひとき)の大鴨脚樹(おおいちょう)
別當(べっとう)公曉(くぎょう)のかくれしと
歴史にあるは此の蔭(このかげ)よ

さらに読みやすく!

八幡宮(はちまんぐう)の石段(いしだん)に
立てる一木(ひとき)の大銀杏(おおいちょう)
別当(べっとう)公曉(くぎょう)のかくれしと
歴史にあるはこの陰(かげ)よ

さあ、歌ってみよう!

♪はちまんぐーうの いしだんにー
♪たーてるひときの おおいちょう
♪べっとうくぎょうの かくれしとー
♪れきしにあーるは このかげよー

(東海道線)
新橋駅→高輪ゲートウェイ駅→品川駅→大森駅→川崎駅→鶴見駅→東神奈川駅→横浜駅→大船駅→藤沢駅→大磯駅→国府津駅(→小田原駅・熱海駅)

(横須賀線)
大船駅→鎌倉駅→逗子駅→横須賀駅→久里浜駅

※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ抜粋(便宜上、ターミナル駅等も表記)
※鉄道唱歌の当時の「神奈川駅」と、現在の「東神奈川駅」は別の駅
※小田原駅・熱海駅は鉄道唱歌の当時のルートには含まれない

鎌倉駅(かまくらえき、神奈川県鎌倉市)に到着したら、いよいよ次は鎌倉観光になります。

2022年末にNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で大きな話題になったこともあり、鎌倉観光に興味や関心の高い方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。

一応、このドラマについて少し解説すると、「鎌倉殿の13人」は「かまくらどののじゅうさんにん」と読みます。
主役は鎌倉幕府の二代目執権(しっけん)であった北条義時(よしとき)であり、人気俳優の小栗旬(おぐり しゅん)さんが演じられました。
「鎌倉殿の13人」というのは、二代目将軍・源頼家(よりいえ)の時代に、政治の意志決定を将軍の独断に依るものではなく、13人の御家人による合議制にしました。このときの13人の御家人のことを、「鎌倉殿の13人」というわけです。

神奈川県鎌倉市(かまくらし)は、前回少し解説したように、鎌倉時代に鎌倉幕府が置かれていた街です。
鎌倉幕府とは、鎌倉で武士が政治を行うための場所のことをいい、現代における政府と同じ意味です。1192年に源頼朝(みなもとの よりとも)が、征夷大将軍(せいいだいしょうぐん)に任命されたことで、鎌倉幕府のスタートとなりました。
征夷大将軍とは、元々は平安時代に東北地方の蝦夷(えみし)を征伐する武士のリーダーという意味でした。
平安時代の東北地方には蝦夷(えみし)という朝廷に従わない強力な勢力がいたため、これらを征伐するために東北地方に派遣された武士のリーダーのことを「征夷大将軍」といいます。最主な征夷大将軍には坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が知られます。
鎌倉時代からは、征夷大将軍は源頼朝のように、いわゆる「この国の支配者であり幕府を統括する将軍さま」のイメージに変化していったようです。

また、征夷大将軍は最終的には天皇が任命します。これにより、天皇陛下からのお墨付きが得られるので、権威性が増すからです。
現代でも、内閣総理大臣はあくまで国民からの投票で選ばれますが、最終的には天皇陛下から任命されて就任します。

昔は「いい国作ろう鎌倉幕府」という有名な語呂合わせにより、1192年に鎌倉幕府が成立したというのが常識でしたが、現代では違うようです。
源頼朝は、1185年に全国に守護(しゅご)と地頭(じとう)を置いています。
これは説明が難しいのですが、要するに全国の各地方を(税金や治安維持などにおいて)源頼朝の意志で統括できるようになった(言いなりにできるようになった)ことを示します。
この時点で(東北地方の奥州藤原氏を除く)日本全国はある意味源頼朝の思い通りになっていたため、これをもって鎌倉幕府の成立とする意見に変わってきているようです。

この時点でまだ源頼朝の言いなりにならないのは、東北地方の奥州藤原氏が残っていました。奥州藤原氏は約100年にわたり岩手県の平泉(ひらいずみ)で巨大な仏教都市を築くほどの栄華を極めており、その強大な財力に源頼朝も恐れていましたが、チャンスをずっと伺い続け、1189年には奥州藤原氏は源頼朝によって滅ぼされてしまいます。

そんな源頼朝でしたが、1199年、彼はなんと馬から落ちて死んでしまうのです。
その場所は、神奈川県を流れる大きな川である相模川(さがみがわ)であり、相模川は別名「馬入川(ばにゅうがわ)」と呼ばれます。源頼朝が馬から落ちた川、ということで馬入川なわけですね。
ただし、馬入川で本当に馬から落ちて死んだのかは賛否両論あります。実際はどこかの無名な兵士に矢を打たれて死んだのだが、それだと不名誉なので、偶然の事故で亡くなったのだという説ができたというわけです。
昔は「どこの馬の骨かもわからない兵士に討たれるのは不名誉だ」とされており、それなら自害を選んだ方が美しいとされていました。
つまり、武士が潔く自害するというのも、無名な兵士に矢を打たれて死ぬよりも、潔く自ら死を選んだ方が名誉とされていたのです。

二代目将軍の源頼家(よりいえ)は、なんと後の三代目将軍の源実朝(さねとも)によって、静岡県伊豆市の修禅寺(しゅぜんじ)に幽閉されてしまうのです。なお、地名は「修善寺」ですが、寺の名前は「修禅寺」になります。
修禅寺へは、伊豆箱根鉄道(いずはこねてつどう)駿豆線(すんずせん)修善寺駅(しゅぜんじえき、静岡県伊豆市)から、バスで約10分程度で行けます。

そして、その源実朝(さねとも)も、鎌倉の鶴岡八幡宮の石段から降りてくる途中、隣にあった大銀杏(おおいちょう)の裏に隠れていた別当(べっとう)であった公暁(くぎょう)に突然襲われ、暗殺されてしまいます。
ここは歌詞にある通りですね。
別当(べっとう)とは、説明が難しいのですが、寺社を統括管理する最も偉い人、ということになります。
また、この大銀杏は、2010年に大雨と強風によって倒壊してしまいました。現在では下部のみ残っています(それでも太くて大きいのでびっくりする)。

源実朝が公暁に暗殺されたことにより、源氏による鎌倉幕府の支配はわずか三代で終わりを迎えることとなります。
その後は、御家人の中でも特に力の強い「執権(しっけん)」による政治が行われていくことになります。執権は、ほぼ北条氏(ほうじょうし)の独占職となりました。

二代目執権である北条義時(よしとき)の時代に、朝廷側の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)と、その息子である順徳天皇(じゅんとくてんのう)が、鎌倉幕府を倒して再び朝廷の政権を取り戻すために、1221年に「義時を討て」と鎌倉幕府に戦いを仕掛けます。これを「承久の乱(じょうきゅうのらん)」といいます。
当初、鎌倉幕府の御家人や武士たちは、天皇の率いる軍団を相手に戦うのは畏(おそ)れ多く、士気が上がらなかったといいます。しかし、亡き頼朝の妻であった北条政子(まさこ)の演説・訓示・説得により、御家人たちは頼朝のおかげで現在の生活を手に入れたことを思い出し、一致団結、朝廷の軍団を破ります。

承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は、島根県の隠岐の島(おきのしま)へ流されることになります。なぜ死刑にならなかったのかは、さすがに天皇に対してそれをやるのは畏れ多かったからかもしれません。他に、敢えて何もない不自由な場所に追いやり惨めな思いをさせるという、ある意味「死」よりも残酷な仕打ちだったからでしょう。天皇として都にいたときは食事もみな家臣がやってくれましたが、島流しにされると食料はみな自分でなんとかしないといけませんからね(むしろ天皇を歓迎し、助けてくれた島民もいたと思います)。
また、隠岐の島は、鎌倉時代の終わりに後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が流された場所でもあります。後醍醐天皇は、隠岐の島を脱出し、鎌倉幕府を倒して「建武の新政」を行いました。

また、後鳥羽上皇の息子の順徳天皇(じゅんとくてんのう)は、先ほど紹介した新潟県の佐渡に流されることになります。
順徳天皇は佐渡で約10年ほど暮らすことになりますが、結局都へ帰れることはなく佐渡で生涯を閉じました。
佐渡には、順徳天皇を祀る真野神社(まのじんじゃ)があります。
このことは鉄道唱歌北陸編第48番でも歌われていますね。

その後、鎌倉時代は1270年代~1280年代にかけて、モンゴル帝国のフビライ・ハン率いる元寇(げんこう)に苦しめられます。元寇とは、いわば元(モンゴル帝国)と日本の2度にわたる戦争です。
主な戦地はモンゴル帝国に近い北九州であり、当時の御家人たちは「てつはう」などの最新兵器を持つ元軍と必死に戦います。一方、元軍は慣れない海上戦や御家人たちの必死の抵抗、さらに「神風」と呼ばれる嵐に翻弄され、2回とも撤退を余儀なくされています。
「神風」のエピソードには賛否ありますが、鎌倉幕府は度重なる元軍の襲来に備え、防壁を築くなど当時の日本人は甚大な努力をされたと思います。

二度の元寇に勝利した鎌倉幕府でしたが、あくまで外国との戦いであり、勝っても領地は得られません。鎌倉時代の武士達の給与は自分の土地から採れる作物でしたから、土地が得られないことには給与アップにも繋がりません。承久の乱に勝利したときは西国(さいごく。京都より西の地域のこと)の多くの領土を獲得した武士達でしたが、2度の元寇では何の恩賞もなかったばかりか、戦いのために多額の費用や出費で困窮し大変なことになっていました。
その後、武士達の借金を無条件に帳消しにする「徳政令(とくせいれい)」が1297年に出されましたが、今度は逆に武士達にお金を貸した人々が困窮に陥ってしまい、日本は混乱状態になりました。
鎌倉幕府はこのようにして衰退し、後醍醐天皇や楠木正成(くすのき まさしげ)、名和長年(なわ ながとし)、結城宗広(ゆうき むねひろ)、新田義貞(にった よしさだ)らの武将たちによって鎌倉幕府は攻撃され、1333年に鎌倉幕府は滅亡しました。
後醍醐天皇や楠木正成、結城宗広、名和長年らについては、鉄道唱歌の「関西・参宮・南海編」や「山陰編」などに多く登場の機会がありますので、また改めて解説します。

以上、歴史の話ばかりになってしまい申し訳ありませんが、鎌倉時代の歴史について知っておくことで、鎌倉観光はより充実したものになると考えており、またその一助になれば幸いです。

次回も、また鎌倉時代について掘り下げていきます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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